2章 最初のライバル

プロローグ~一番星~

 彼女を初めて見たのは、中一の県大会の時だ。

 島の学校に部活なんてものはない。小中全校生合わせてもひとクラスに満たない人数しかいない学校だったから、みんな放課後には、それぞれ思い思いのことをして過ごした。それが、あたしたちにとっての〝部活〟だった。

 そもそも、小学校と中学校が一緒になってるから、進級したときもあんまり「中学生になった」という感覚はなかった。クラスの顔ぶれも変わらなければ、通う学校が変わるわけでもない。せいぜい制服を着なきゃいけなくなったくらいで、本土や他県の子と話すときは、「ウチ、小中一貫校だから」と、さぞ有名な進学校であるかのように話すのがあたしの鉄板ネタだった。その実は、ただの過疎化の産物だ。

「りんちゃん、放課後どうする?」

 幼馴染に尋ねられたあたしは、鞄に教科書を詰め込んでいた手を止めて振り向く。のんびりとした口調の彼女は、そのまま寝てしまうんじゃないかってくらいに大きなあくびをして、細い目をこすった。

「なおちゃんのとこ行ってくる。せっかくチャッキーから防具貰ったから」

「ああ、そう。じゃあウチは図書室寄って帰ろうかな」

 幼馴染は、絵にかいたような文学少女――ではなかった。小学校は「いきものがかり」、中学校では「美化委員」に立候補した彼女は、図書室で飼っている亀の〝ゼニゲバ〟にエサをやって、そのまま図書室で昼寝をしていくのが日課だった。

「ほら、ゼニゲバー。今日も卑しいねー」

 ほとんど棒読みで言いながらエサをあげる彼女は、いつも愉しげだった。


 それは置いといて、あたしは去年中学を卒業したチャッキー(もちろんあだ名)から貰った防具を抱えて職員室に向かっていた。なおちゃんは剣道部の顧問で、島に昔から住んでいる再雇用のおじいちゃん先生だ。

「なおちゃん、剣道教えて!」

 あたしは防具を掲げながら、デスクで作業をするなおちゃんに詰め寄る。

「おめ、ほんと剣道やんだな」

「うん、なんかオモシャそうだし」

「大会も出んだが?」

「うん、せっかくやんだし」

「んだら、今年も部の申請しねどなぁ」

 なおちゃんはそう言って、引き出しに詰め込まれた書類の中から、申請書と思われるくしゃくしゃのコピー用紙を取り出した。

 島の学校に部なんてものはない。だって、大会に出ようにもチームが組めないから、わざわざ部にする意味がない。ただ、個人競技は別だ。ひとりでも部員が入れば成り立つ部活に関しては、生徒に大会やコンクールの出場意志があれば、学校の書類上「部」という扱いにして貰うことができる。大会に出るには予算を組んだりしなきゃいけないので必要なことらしい。学校運営っていうのはめんどくさいね。

「目標はもちろん全国! なおちゃん、三年練習したら全国行ける?」

「どうだがなぁ。勝負は時の運だからなぁ」

 それは、なおちゃんの口癖だった。教師としてのなおちゃんなら、小学校のころからずっと知っているけど、何かにつけて――例えばテストの採点を返す時とか――必ず前置くようにそう口にする。ちなみに、なおちゃんの担当は社会科だ。地理が一番得意だそうだけど、教員が足りないので他の社会系科目も全部教えている。今思えばすごいことだね。

 そんななおちゃんが、いつもの口癖を口にしてから、はたと止まった。何かを重い出すように宙を見上げながら、「あー」と小さく唸る。

「もしかしたら、難しいかもなぁ」

「ええ!?」

 時の運と言いながらも、いつも何も否定せずに見守ってくれるなおちゃんが、初めて「無理」と言った。あたしたちにとっては、天地がひっくり返るくらいの大事件だった。

「小学校に……ああ、確か同い年だから、それこそ同じ中学校だもんなぁ」

「なに? 強い子いんの?」

「ありゃ鬼だ」

 鬼……いったいどんな子なんだろう。あたしは震えあがるどころか、むしろわくわくしてなおちゃんの話に耳を傾けた。


 それから、一年目の中学総体県予選。剣道を初めて二ヶ月程度のあたしが地区総体で勝てるわけがなく、堂々の個人戦一回戦敗退を決めたところで、無理を言って県予選の観戦に連れてきて貰った。ちょうど、海を渡ってすぐの庄内地域が県総体の会場だったのも大きい。あのなおちゃんに「無理」を言わせた選手がいったいどんなものか、この目で見てやりたいと思っていた。


 そして、会場に鬼がいた。


 いや、鬼なんていうのはなおちゃんの言葉を借りただけのことで、どっちかと言えば弁天様とか、そういう類の存在だと思った。

 須和――垂ネームにそう刻んだひとりの剣士が、自分よりひとまわりもふたまわりも大きな先輩選手に向かい、余裕しゃくしゃくで攻撃をしのいでは、華麗なカウンターで翻弄し、勝利をもぎ取っていた。

 あたしは、ようやく竹刀の振り方とルールを覚えたくらいの剣道初心者。今目の前のコートで何が起こっているのかも、彼女の何がすごいのかも分からない。でも「すげー」って、その感覚だけがびりびりと肌から脳みそまで痺れるように伝わった。

 結局、その日は見入るように試合を追って、彼女が個人戦の決勝で三年生の優勝候補相手に圧勝し、表彰台に上がるまでを見届けた。

 黒江――表彰で読み上げられて、彼女の下の名前を知る。くろえ。クロエ。ちょっと西洋のお嬢様っぽい響き。クララのせい?

 思いっきり和風なあたしの名前と比べたら、星みたいに綺麗だなと思った。離島の空は、遮るものも光もないから、広くて暗くて眩しい。星座を探すのが逆に難しいくらいの数多の輝きの中で、彼女は間違いなく一等星だった。

「なおちゃん、三年練習したら、あたしもあれぐらい強くなれる?」

 あたしの質問に、なおちゃんは無精ひげをじょりじょりとさする。

「うーん、そうさなぁ」

 なおちゃんは、あたしと、表彰を受ける黒江とを見比べて、小さく唸る。

 まあ、何と言われたって、もうこの気持ちは止まらない。すごい奴を見たら、自分もそうなってみたいと願う。子供向けアニメのヒロインに憧れるのと、何ひとつ変わらない。違うところがあるとすれば、あたしのヒロインは現実に存在して、あたしがこれから駆けて行く道の先にいるってことだ。

「勝負は時の運だなぁ」

 どこか言いよどんでいたなおちゃんが、ふと笑みをこぼしながら言った。ほとんど、あたしの熱意に頷かされたような感じだったけど、なおちゃんは「無理」と言わなかった。

 こんなにワクワクすることが、世の中に合って良いんだろうか。島しか知らなかったあたしが見た、初めての外の世界。あたしを、海の向こうへと連れて行く天女の導き。

 大丈夫、時間はある。だってこの島には、時間を潰すような娯楽はないから。まずは三年間。足りなかったら高校だって。走り出したら止まらないことだけは自信があるから、黒江の影が見えるまで、背中が見えるまで、背中に手が届くまで、絶えず、たゆまず、追い続けてやる。


 そしていつかは勢い余って追いこして、さらに向こう側の世界へ――

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