夜明けの時
「はじめ!」
大将戦の立ち上がりは、両者ともに慎重なものだった。大将はそれまでの試合の流れを全て背負って、決着を付けるためのポジションだからこそ、やたらめったらな打ち合いはせず、好機必打の戦いが重要になる。鈴音もそれは理解しているが、彼女が慎重になっているのは、また別の理由からだった。
(決めるなら……初撃)
牽制するように気合を発しながら、一足一刀の間合いギリギリで、飛び込みたい気持ちを抑える。一方の清水撫子は、八乙女穂波戦と同様に中段正眼の構えからのスタートだった。下段は〝とっておき〟なのか、もしくは撫子にとって何らかの条件があるのか。
(正眼の方が息苦しいよ……)
先に黒江と「舐めて中段で来れば」なんて話をしていた。しかし隙がなく、切っ先を正中に突き付けられる中段の方が、対峙した時の威圧感は高い。
「鈴音ちゃん、落ち着いてるぅ」
「どっちかと言えば、怖気づいてるの方が正しそうだけど……」
そんな鈴音の様子を見た竜胆と五十鈴川の評価は正反対だった。当然ふたりには、鈴音の心中など察する余地はない。外野から見れば、目の前で繰り広げられていることが結果であり真実だ。その視点で語るなら、今の鈴音は〝必要以上に慎重な人〟だろう。
実際に対峙している撫子もまた、同じ評価だった。
(攻める気が感じられない……これで本当に、須和黒江の後継者だというのですか?)
黒江のカウンター剣道は、応じ技――つまりは〝相手が打って来て初めて決まる〟もの。しかし、相手の太刀を〝待つ〟のと〝誘う〟のとでは違う。
(待つだけなら、それは須和黒江の剣道を真似ているだけ。だとしたら弟子を名乗ることすら烏滸がましいことです)
鈴音の評価を悪い意味で改めた撫子は、意識を〝見〟から〝動〟へ切り替えるように気合を高めた。
勝負の気配を感じた鈴音は、迎え打つべく身構える。直後、撫子の鋭いメンが炸裂する。基本に忠実で直線的な一撃。だからこそ無駄がない。一方で、自らの打ち込みを誰にも邪魔をさせない傲慢さを兼ね備えた一刀。気圧された鈴音は、防ぐので精一杯だった。
(思ったより鋭い……!)
狙い通りのメンが来たのに、返す余裕がなかった。二度あるか分からないチャンスを、完全に棒に振ってしまった。
(ふん、結局は口だけですか。防ぐだけの目はあるようですが――)
撫子からしても、今の一撃は挨拶代わりのつもりだった。ただまっすぐにメンを打った〝だけ〟。もちろん、並の相手なら仕留められる一刀。しかし須和黒江なら、確実に仕留め返されていた。
本当に須和黒江の力を継いでいるのなら――その期待に応えられなかった鈴音に、撫子は完全に興味を失っていた。
(茶番は終わらせて、本物を引きずり出しましょう)
鍔迫り合いから離れて、互いに正眼で仕切り直す。この程度の相手ならば、下段を使うまでもないというのが撫子の判断だった。そもそも、下段が現代剣道において不利な構えであることは、彼女自身も常識として理解している。
それでも――常識では計れない相手が世の中には居る。
(彼女は非常識ではない)
撫子の中で、ヒエラルキーは既に定まっていた。相手ははるか格下。だからといって、雑な剣道をするわけではない。基本に忠実な、彼女にとっての常識――〝美しき剣道〟で取るに足る相手だということ。
一方で、鈴音の心中には拭えない焦りが滲む。この一週間で黒江に教えてもらったことは、たったひとつだけ。
――ギャンブル剣道。
聞こえは悪いが、狙った応じ技を決め打ちするというもの。鈴音の場合は「面返し面」だ。
相手が何を打ってこようと、面返し面で応じる。相手がメンを打ってくればよし。コテやドウだったなら、がら空きの身体に打ち込まれるので、逆に一本を取られる。だからこその〝ギャンブル〟だ。
動くのは相手より後に、しかし気持ちは相手より先に。黒江はそれを「後の先を取るということ」と表現した。そのための決め打ち。ギャンブルになってしまったのは、単に鈴音のねらい目が「面返し面」に限定されているからこそだ。例えるなら、グーだけでジャンケンに勝とうとしているようなもの。無謀だが、チョキさえ来れば勝てる。
黒江の言葉を、鈴音はまだ自分の言葉として飲み込んではいなかった。もちろん、なんとなくは理解している。相手がメンを打って来るつもりなら、それを返すと決めている方が、一手先を読んでいると言える。
(簡単に出来たら苦労しないよ。須和さんも、もっと分かりやすいコツとか教えてくれたらいいのに)
などと、胸の内で悪態を吐いたところで仕方がない。
(それでもやるしかない……須和さんに勝つまで、私は負けられないんだから)
怖気づいてると思われても良い。今自分にできることがひとつしかないなら、ただ実直にそれをやる。
(相手がメンを打って来たらメンで返す。メンを打って来たら……返す)
できるのは、イメージを膨らませることくらいだった。相手の動きとスピード、それに対して、自分がどれくらいの疾さで返さなければならないのか。速度と鋭さに関しては、初撃で十分に理解できていた。もっと疾く返さないと、追いつかない。
そう考えてみると、鈴音には、思ったよりも鮮明に撫子の動きがイメージできていた。
(動きに無駄がないから……かな。一挙手一投足を鮮明にイメージできる気がする)
シャド――素振りで思い描く仮想的みたいに、想像上のゴーストが鈴音には見える。撫子がメンを打つなら……その時の気合、踏み込み、そして竹刀が描く軌跡。
迫る刃――ここで、このタイミングで返さなければ。
返しの速度は手首の力。
手首なら……鍛えた。
(なんだ、コツ、教えてくれてるじゃん)
手首を意識して鍛えたのは、この間が初めてのこと。もちろん、たった数日で筋肉が肥大するわけないが、手首を意識することを、黒江は教えてくれていた。
意識をすれば、身体は答えてくれる。鈴音の腕には、九年間竹刀を振り続けることで、自然と鍛えられた分の力はあるのだから。
――メンあり!
気が付くと審判旗があがっていた。色は白。鈴音がゴーストだと思っていたイメージは、たった今目の前で清水撫子が放った、現実の一撃だった。
それを鈴音は、完璧に捉えたのだ。
わっと、南高陣が湧く。代わりに、宝珠山の陣は驚きで目を見開く。
(今……どうなってたんだろ?)
鈴音自身が、自分の打った太刀筋をよく覚えていない。イメージの通りに、身体と竹刀を動かしただけだ。ただ少なくとも、イメージの中で自分が綺麗な返し面を決めたことだけは、頭の中で見えてはいたが。
(メンを打った瞬間、返されるのが分かった。今のは確かに須和黒江のような――いや、それとも……)
打たれた撫子の方もまた、たった今起きたことの事実を受け止めきれずにいた。頭頂から全身にじんわりと伝わる「一本を取られた」感覚は、偽物ではない。
確かに打たれた。
侮っていた、一年生相手に。
いや、侮っていたからこそか……と。
「ふ……ふふふ」
撫子の口から、自然と笑みがこぼれた。剣道に限らず、薙刀でも、柔道でも、そのほかの競技であっても、いつだってそうだった。思い通りにならないことに直面すると、彼女は決まって笑いを押さえられなくなる。
きっかけは、小さい頃に飼っていた犬に手を噛まれた時のこと。政治家一家のお嬢様として、誰の追従も許さず、名実ともに才ある道を進んでいた彼女にとって、初めて「反抗」を経験した瞬間だった。
いくら自分に才があろうと、世の中、思い通りにならないことはいくらでもある。それを知らなかった自分の愚かさと、歯向かえる相手なのだと思わせてしまった自分の力不足。
――もっと精進しなくては。
――誰もが本能で格を認めるほどに。
それが、いずれ人の上に立たなければならない人間として生まれた自分に課せられた使命だと思った。以降、あらゆる分野で名を残す「清水撫子」の夜明けの時である。はじめこそ大泣きをしていた我が子の嗚咽が、次第に笑い声に変わっていく。大粒の涙を目に溜めながら笑う彼女の姿に、両親は末恐ろしいものを感じたという。
ちなみに、その時の愛犬はしっかりとしつけと仲直りをして、今でも大事な家族の一員として彼女の実家で暮している。御年十三歳。すっかりお爺ちゃん犬だ。
(良いでしょう。あなたにも非常識の片鱗程度はあると認め……それが芽吹く前に、立場を弁えさせましょう)
仕切り直すために開始線に戻って来るころには、予定外の一本を取られた驚きも、笑みをこぼしてしまう程の高ぶりも、すべてが腹の底に抑え込まれていた。夜空から朧が消えるように、心が澄み渡っていく。
「二本目!」
主審の一声で試合が再開する。鈴音は、一本目よりも慎重にやや遠間から間合いを測る。
(このままリードを保って時間切れになっても勝ちは、勝ちだけど……)
露骨な時間稼ぎは反則を取られてしまうが、ある程度であれば、作戦としては認められているところがある。もちろん剣の道を謳う競技としては、推奨される行為ではないのを前提としての話になるが。
しかしながら、反則は恥ずべきもの――そう教え込まれて来た鈴音にとって、それに準ずる行為にも、本来ならば強い拒否反応がある。
(でも、これは勝たなきゃいけない試合だから。そのためなら――)
自分の信念を曲げる覚悟だってある。もともと自分の得意な剣道を捨てて、黒江の誘いに乗ったのだから。勝ちにどん欲になる覚悟なら、とうについていた。
それは、撫子もまた同じことである。
「……出た」
南高の陣で、穂波が息を飲む。自らが翻弄された清水撫子の妙手――下段の構えを、彼女がとったからだ。
「八乙女、外からよく見ておけ。全国を目指すのなら、必ず攻略しなければならない相手だ」
「はい」
そう穂波に語る顧問の鑓水自身も、下段に対する対策など知りようもない。彼女自身も今は分析し、学ばなければならない段階だ。教え子たちの手前、おくびにも出しはしないが、内心で焦りはあった。
(下段……)
切っ先に吊られて下げそうになった視線を、鈴音はギリギリのところで思いとどまる。竹刀ではなく目を見ろと、黒江に言われたことを思い出したからだ。それ以外に、具体的な対策なんて知らない。
不安を押し殺すように、鈴音は力強く気合を発した。
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