巴の型

 鈴音は、心炉の中で黒江に言われたことを繰り返し反芻する。


 ――竹刀ではなく目を見る。

 ――間合いは竹刀で測らない。


 足元に向けられた相手の切っ先を追わないことは、意識すればどうにかなった。だが、その視線は必然的に相手と自分の間に広がる空を見ることになって、それまで竹刀の接触で測っていた間合いが曖昧になってしまう。

(私の一足一刀ってこの辺りだっけ……もうちょい内側?)

 間合いが曖昧になってしまったのには、中学時代の鈴音の急成長も一因があった。間合いとは、足の踏み込みによって跳べる距離と、伸ばした身体の長さによって、選手それぞれによって大なり小なり変化がある。つまり一般論で言えば、背が低い選手は間合いが短く、背の高い選手は広くなる。

 鈴音の場合、中一のころまでは背が低く、中三にかけて一気に同世代トップレベルの体躯に成長したことで、急激に伸びた間合いに自分自身が適応できていないという事態に陥ってしまっていた。もちろん、日々の稽古である程度克服はしているものの、目の前の相手は間合いを安易に測らせてくれない下段の使い手だ。

 撫子は、下段のままジリジリと間合いを詰めてくる。ひと呼吸入れるために軽く離れたりすることもなく、動く壁が少しずつ迫るように、鈴音の懐へと真正面からにじり寄る。

 半ば痺れを切らすような形で、鈴音が踏み込んだ。すぐに目算できないなら、一か八か飛び込んでみて、少しずつ適正距離の感覚を養っていくしかない。それは正解を引くまでの、文字通りの博打だった。

(しまった、遠かった……!)

 気持ち強めに踏み込んだはずだったが、自分の感覚でも〝浅い〟とわかるくらいに竹刀が届かない。撫子は、振り上げる要領で鈴音の竹刀をはじくと、そのまま手首の返しで逆胴を狙う。鈴音は寸でのところで腕を引き戻し、柄の部分でギリギリ太刀筋をいなす。

 完全に初見で手探り状態だった穂波が、なすすべなく一本取られた技だ。

 通常ならば相手の右土を撃ち抜くのに対して、左胴を撃ち抜くから〝逆〟胴。中学剣道から解禁されるこの技は、剣道の歴史の中で有効打に含められるようになってから比較的日が浅い。残心――打った後の姿勢と気構え――の維持が少々難しいため、基本である「気剣体の一致」が認められづらいため、老年剣士を中心に今でも一本になりづらい傾向がある。

 それを躊躇なく繰り出す撫子は、反骨精神の塊か。それとも、伝統よりも現実と効率を重んじるリアリストなのか。

 おそらくはその両方だろう。

(八乙女穂波相手に見せていた分、警戒されてしまいましたね……その程度で防がれてしまうのであれば、まだまだ精進が足りません)

 自らが戦っているのは現代剣道なのだから、下段でも逆胴でも、使えるものは何でも使う。彼女に必要なのは、過程ではなく勝利と言う結果なのだ。

 互いに接近したまま、撫子の連撃が鈴音を襲う。穂波戦の時同様に、鈴音にははっきりと撫子の動きが見えていた。やはり、打突の速度だけ見れば穂波や黒江に比べて、幾段も遅い。遅いと言っても、竹刀を振り回すような大振りのせいだからであり、そのデメリットを考えれば格段に疾くはあるのだが。

(なのに、防ぐしかない……なんで……?)

 防戦一方になりながら、鈴音は首をかしげる。動きが遅いなら、相打ち狙いの出鼻技を仕掛けるべきところだ。しかし、円を描くように大振りな撫子の技は、打ち込みながら、自らの有効部位を点でも線でもなく、面で守っていた。


 有効部位を最短距離で狙え。


 誰もがそう教えられ、鈴音もそれに倣って来た中で、非効率なのに効率的な技。未知の剣道を相手に、鈴音はすっかり飲み込まれてしまっていた。

「……そうか、ナギナタか」

 鈴音が悪戦苦闘する中で、鑓水はようやく自らの腑に落ちるものを感じていた。ことこんな状況で飛び出すはずのない単語に、南高の部員一同、頭に「?」を浮かべて彼女を見る。

「ナギナタ……って、武道の薙刀ッスか?」

 一番最初に言葉と意味が頭の中で繋がったのは杏樹だったが、自分で答えておいてさらに首をかしげる。

「……それが、どうしたんスか?」

「私も専門外だから教養程度にしか知らんが、おそらく清水の下段の動きは薙刀の理念を踏襲したものだろう」

 鑓水自身も確信は持てずに、半信半疑の結論だった。だが一度腑に落ちてしまえば、そうだとしか思えない確信もまたあった。

「薙刀の基本は巴――円の動き。それは体捌きでも、薙刀の振い方もそうだ。円の動きで身を守り、遠心力で加速した刃で必勝の一撃を放つ」

「剣道と薙刀じゃ競技の規格が全く違うのでは?」

 率直な正論を述べる穂波に、鑓水も同意するように頷き返す。

「それはもちろんだが、同じ武道である以上通じるところはある。〝五行の構え〟があるのも同じ。そして剣道ならまず見ない下段も、スネ打のある薙刀なら当たり前に使う構えのひとつだしな」

「清水は薙刀の元全国区……そこで学んだことを別の競技に活かすってのは、確かにあり得そうッスね」

 杏樹も中学時代に、柔道で撫子に完敗している。清水撫子とは、多方面に才があるマルチプレイヤーなのではなく、突き詰めた才を多方面に生かせる多義プレイヤーなのかもしれない。

「だとしたら、どう崩したらいいんスかね?」

「強いて言えば、できるだけ〝円〟の中心に入ってしまうことか……もっと前で勝負しろ、秋保! 間合いを空けるな!」

 鑓水のアドバイスは、しかしながら、鈴音の耳には届いていなかった。彼女の頭は目の前の未知の相手と、負けられない戦いとうプレッシャーでいっぱいいっぱいで、そのほかの雑音に耳を傾ける暇も余裕もなかった。

(と、とにかく、反撃の機会を見つけなきゃ。防戦一方だと反則になっちゃう)

 勝つ意志も、攻める姿勢自体も失ったわけではない。ただ単に、相手の動きについていけない。それだけが鈴音の攻め手を封じ込めていた。

 一方で、撫子も決め手に欠ける自分を認識していた。こうも防戦一方になられてしまうと、下段の比較的緩やかなスピード感では打ち崩すのが難しい。

(この子……背中に目玉でもついているのですか?)

 攻めているのは撫子の方。しかし、彼女は鈴音の境界線際の立ち回りの上手さに、唯一ただならぬものを感じていた。どれだけ攻め立て、押し込んでも、場外の境界線ギリギリで綺麗に身を翻して、コートの中央付近へと自然に戻る。それは土俵際の力士の攻防を見ているかのように鮮やかで、テクニカルなのに、ごく当然のような顔でこなすのだ。

(決して反則は取られないという意志でしょうか……その志は認めましょう。なら私は〝強い剣道〟で堂々一本を取るのみ)

 鈴音の堅固な守りが、逆に撫子の覚悟を決めてしまった。下段から忍び寄る切っ先が、鈴音の竹刀を蛇のように絡め取り、巻き上げる。撫子の剣道は巴――円の動き。それは竹刀の捌き方も同じであり、刀身をからめとられた鈴音の竹刀は、成すがままかち上げられる。

 その回転は、しかして、次なる一打の初速へと連なるのだ。


 コート上に、再び半月の閃きが走った。


「ドウあり!」

 審判たちの持つ旗が、一斉に赤に上がる。決まりては逆胴。文句のつけようがない、美しい一刀だった。

 肩で息をしながら、鈴音はゆっくりと開始線へ戻る。せっかく奪ったリードを取り返されたことに対する焦りは多少なりあった。だが、それ以上にあまりに鮮やかな一本を決められてしまって、逆に心がすくような思いだった。

(防ぐ暇もなかった……部長といい、須和さんの他にもこんなすごい選手がいたんだ)

 ごちゃごちゃ考えて頑張ったって、とられる時はとられる。むしろ取られたことを自身も納得できるだけ、この競技の世界は心に優しい。

(部長も、こんな気分だったのかな)

 一本を取られて逆に落ち着くだなんて、黒江との試合以外では初めてのことだった。もっとも、そういう選手がひしめく舞台へ、鈴音自身が上がれなかったというだけの話ではあったが。

 相変わらず視野は狭くて、相手の姿を視界に留めているのが精一杯――代わりに、その姿だけが世界から切り取られたみたいに、くっきりと浮かび上がっていた。


 対峙していた撫子は、かすかに不穏な気配を感じた。先ほど、穂波と試合をした時と全く同じ。追いつめられてから妙に落ち着きを取り戻した相手に、ロクな奴はいない。自嘲を込めながらも、彼女は自らのこの経験則にそれなりの信頼を置いていた。

(侮る気持ちはとっくに捨て去りました。今度こそ、巴の下段で仕留めます)

「勝負!」

 決死の三本目が始まる。撫子は迷うことなく、下段の構えを取り、気持ち間合いをあける。巴の下段は、間合いが遠いほど効果を発揮する。竹刀が相手に届くまでの距離が空くほど――遠心力が乗る時間が長いほど、スピードも破壊力も、格段にアップする。

 しかし、下がった撫子に対して、鈴音は倍以上の距離を一気に詰め寄った。これが正眼同士構えていたら、竹刀の中結がクロスしてしまうくらいの至近距離。一足一刀どころか、半足一刀の間合いだ。

(何を……!?)

 撫子は、慌てて飛びのくように距離をあける。しかし鈴音はすぐさま追従し、同じ間合いから離さない。意味のないいたちごっこに、撫子はついに下がることをやめる。

(まさか捨て身……? それとも八乙女穂波から学んで……?)

 穂波も下段の攻略法として、近い間合いでの戦いを見出した。しかしながら、彼女のそれは堪えぬ攻撃による動的なインファイトを伴うものだ。

 しかし鈴音のそれは、プロレスラーが試合の前に額をぶつけあってメンチを切るようなもの。ほとんど挑発に近い。

(確かに下段は接近戦が苦手……ですが、それは剣道の常識に限った話です)

 撫子は、なおもにじり寄る鈴音に合わせるように、左足を大きく引いて半身を開く。そのまま、下段に構えた竹刀を翻して刃を立てるように構え直す。

 鑓水は、戸惑いを隠すように片手で口元を覆う。

「下段霞だと……? そこまでやるか清水のヤロウ――というか、秋保こそ何をやってるんだ。前で勝負しろとは言ったが、やりすぎだ」

 こうなると、撫子の構えはほとんど薙刀だ。武器が刀に持ち替わっただけ。おそらくはこれが彼女にとって本当にしっくりくる、動きやすい型。そして薙刀の下段は、剣道のそれとは違い、接近戦に強いのだ。


 しかしながら、鈴音の表情はいまだ落ち着いたまま、間合いも極端に詰め寄ったままだった。

 彼女の耳にはこれまで同様に、誰の声も響いていやしない。

 コートの外に限らず、コート内の審判の声も、相手の気合すら――

 

 唯一鼓膜を揺らすのは、自分と相手の足が床板を擦り、踏みしめる、かすかな雑音だけだった。

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