セカンド・オーダー
静かな礼をして、部長が陣にもどってくる。すぐさま鑓水先生の隣に腰を下ろして、彼女の話に耳を傾けていた。
「翻弄されたか」
「はい」
「だが、今日で良かった」
「はい。次は勝ちます」
八乙女部長は、淀みのない顔と声でそう断言した。
「ならいい。これから合宿もあるからな」
先生が部長の背中をバチンと叩いてやる。それで指導は終わり。まったく中身はないが、ふたりにとってはそれで十分なんだろうね。こちらもまた、監督とエースの信頼があるんだろう。
陣で面を外した部長は、汗こそダラダラに書いていたものの、どこかスッキリした表情で小さく息を吐いた。手ぬぐいで汗をぬぐって、あとは目の前で繰り広げられている副将戦に意識を集中していた。
「やめ! 勝負あり!」
主審の掛け声と共に、赤の旗が上がる。礼をして帰って来た安孫子先輩は、同然のようにしかめっ面で先生のもとへ戻った。
「すみません」
「相手の石井のやつ……先鋒から副将に鞍替えかと思えば、ずいぶん強い剣道をするようになったじゃないか」
「驚きました。新人戦の時は、ただ落ち着きが無い先鋒でしたけど、今はじっくり型に。かと思えば、必要な時には先鋒の時の疾さで狙って来てました」
「ひと冬で剥けたってわけか」
「宝珠山は、チームの後半に強者を集めるスタイルですね。先鋒と次鋒が弱いという訳ではないですが、明らかに中堅以降が強い。〝前は緊張せずのびのび戦え。どんな結果でも、最後は後ろで拾うから〟って、そんな印象です」
安孫子先輩と先生との話に、八乙女先輩の持論が挟まる。自分の試合のことは、もうすっかり切り替えているのかな。もしくは、自分の試合よりもチームの勝利について考える――それが部長というあり方なんだろうか。
「そういうわけだ。あとは頼んだぞ北澤」
「は、はい」
先生のご指名を受けて、面をつけ終えた日葵先輩が頼りなく立ち上がる。正座して試合を見守っている私たちからすれば、立ち上がった彼女は本当に「見上げる」ような存在。この規格外の長躯に対抗するのが、宝珠山の主将である南斎さんだ。彼女も、いかにも大将って感じの大柄で、見た目としては日葵先輩を縦に少し小さくして、代わりに横に大きくした感じ。大きいと言っても太ってるわけじゃなく、がっしりした筋肉質って意味だ。
言い方を変えれば、日葵先輩が韓流スターなら、南斎さんはハリウッドスターって感じ……?
正しく伝わるか分からないけど。
「はじめ!」
今日、五度目の試合開始の合図。前情報では、南斎さんもまた清水さんに迫る実力の持ち主だ。大将なんて大役を任せられているんだから当然だ。だけど、ウチの日葵先輩だって、有力な選手がひしめく中での大将ポジションだ。きっと中堅のエース対決ばりに、互角の戦いを繰り広げてくれるに違いない――
「――勝負あり!」
かと思ったら、二分くらいで決着がついてしまった。南斎さんによる、ストレートの二本取り。日葵先輩は、ほとんど全く歯が立たなかった。試合を終えて竹刀を収める南斎さんが、ぽかんとした顔で首をかしげる。私だって、同じ気分だった。
「北澤。合宿は特別メニューな」
「はい……」
鑓水先生にたったそれだけ声をかけられて、日葵先輩はとぼとぼと陣に戻る。
私が言うのもなんだけど……全く動けてなかったね。それこそ、須和さん以外と対峙した時の私みたいに。でも、日葵先輩がそんなピーキーな稽古をしてきたようには見えないし、体調が悪かったのかな……?
あまり接したことがない分、普段の彼女を知らないので、判断のしようがない。モヤモヤした気分だけが、胸の内で渦巻いて終わった。
「二勝一敗二分。ギリギリの戦いでしたねぇ。良い稽古になりました」
尼さん顧問が仕切り直すように手を叩く。
「それぞれ得るものもあったでしょう。さて、次の試合の準備を――」
「先生、よろしいでしょうか」
不意に、対岸の陣で清水さんが手をあげた。面を外していた彼女は、座ったまま南高の陣を見やる。いや――ここからでもハッキリと見える鋭い双眸は、たったひとりの姿だけを捉えていた。
「須和黒江……なぜ、試合に出ないのですか?」
咎めるような、ピリついた一声だった。
「あなたが代わりに出ていれば、あこや南の勝利……ないしは、少なくとも同点で代表戦となっていたことは確かでしょう」
誰と変われば――という点は、流石に触れなかったが、きっとここに居る誰もが内心で同じことを考えていた。ハッキリとでなくても、心の奥底で、無意識に。彼女が出ていれば、勝っていたと。
それくらい、試合に出ていないのに、何もしていないのに、須和さんは「道場に居る」という存在感を全身から放っていた。
清水さんの言葉で一斉に視線を集めた須和さんは、相変わらずのポーカーフェイスのまま、静かに口を開いた。
「私は選手をやめたので」
「なぜです? 怪我ですか?」
「答える理由がありません」
「……鑓水先生」
意固地な須和さんをよそに、清水さんの視線は先生の方へと向く。
「悪いが、私からも答えられることは何もない。本人の希望だ」
肩をすくめる彼女に、清水さんは盛大なため息をついた。それから、親の仇でも見つけたかのように、須和さんのことを睨みつける。
「須和黒江。次の試合で私と戦いなさい」
そして、一切の気後れなく、高らかにそう宣言した。
「できません」
「何故です?」
「防具を持って来ていません」
「宝珠山の予備を貸しましょう。ご所望なら、未使用の新品でも」
お嬢様学校の経済力が、須和さんの退路を囲む。未使用品の防具を気軽に貸せる学校……なんて恐ろしいんだろう。流石の須和さんも、返事を躊躇ってしまう。すると、鑓水先生が助け舟を出すように割って入った。
「彼女の言っていることは、宝珠山の総意ということでよろしいのですか?」
鑓水先生の視線を受けて、尼さん顧問は考え込むように明後日の方向を見上げる。
「そうですねぇ……全中一位の選手と稽古できるとなれば、我々としても得るものが多いので大歓迎ですが」
「そうですか」
鑓水先生は、まるで返事を予想していたように軽く頷き返すと、くるりと須和さんの方へと向き直った。
「ウォームアップしろ、須和」
えっ――と声が漏れたのは、南高の陣からだ。私を含む全部員が、戸惑いで身を乗り出しかける。
「私も、お前の今の待遇に納得はしていない。もしのっぴきならない理由があるなら、今ここで言ってみろ。考慮してやる」
先生には、助け舟を出すつもりなどなかった。むしろ本心を探るように、真正面から須和さんに対峙する。南高の部員たちも、口には出さないが同じ気持ちなのだろう。黙ったまま、事の成り行きを見守る。
須和さんにとっては、完全に針の筵だった。彼女自身は、どれだけの視線と期待にさらされようと、意に介した様子はない。その代わりみたいに私は、息が詰まり、胸が苦しくなった。
須和さんは、私と同じように「剣道は辞めた」と言っていた。でも結局は、剣道から離れることはしなかった。競技自体が嫌いになったわけじゃないんだ。それは私だって同じことだった。
剣道が嫌いなんじゃない。
どんなに稽古を積んでも、強くなれなかった自分が嫌いだったんだ。
日本一の女である須和さんが、私と同じ理由で辞めたとは考えづらい。だけど、その覚悟、心労はきっと同じ。〝辞めることを決める〟のがどれだけ大変か、私は良く知っているつもりだった。
「――あの」
自然と、声をあげていた。考えがあったわけじゃない。だけど、声をあげなきゃいけないと思った。この道場に、須和さんの味方になれるのは、私しかいないと感じてしまったから。
「宝珠山は、清水さんと八乙女部長が試合するようにという条件を提示されました。じゃあ……こちらも条件を出して良いですか?」
「条件?」
清水さんの眉がピクリと動き、その蛇のような視線が私を絡めとる。ウォームアップの時に見せたような、明らかな不快感、嫌悪感、苛立ち。人に負の感情を向けられるというのは、決して慣れることじゃないし、慣れて良いものじゃない。
だけど、怖気づいてしまう気持ちをぐっとこらえて、震える唇で勝負を仕掛ける。
「わ、私は今、須和さんに鍛えられて、彼女の技を教わっています。つまり、一番弟子です。なら彼女と戦うために、まずは私を倒すのが筋ではないでしょうか?」
ぶっちゃけ頭の中は真っ白で、自分が何を言っているのかもよく分かって無かった。とにかく、須和さんを視線の渦から開放したかった。意識を逸らせるなら、何だって良かった。
先輩たちが、ぽかんとした顔で私を見ていた。宝珠山の部員たちも、同じ顔をしていた。ただひとり、清水さんだけは、驚いた矢先にぐっと奥歯を噛みしめる。それから、ありったけの憎悪を込めたような顔で、私のことを睨みつけた。
「あなたが、須和黒江の弟子……? それは、本当のことなのですか?」
事実を確かめるため、清水さんは須和さん自身へと尋ねる。須和さんは少しだけ考えた後、何も言わずに首を縦に振った。途端に、清水さんが吹き出すように笑った。
「ふ……ふふふ。そうですか。理解しました。良いでしょう。あなたを退けて、須和黒江を、この眼前に引きずり出しましょう」
ぞくりと、悪寒が背中を伝う。私はとんでもない約束をしてしまったのではないだろうか。いや、だろうかじゃなくて、してしまった。
清水さんが、私に勝ったらだって?
部長と互角にやりあった、あの清水さんと戦う?
この私が?
「あなた、ポジションは?」
「た、大将です……」
「先生」
清水さんは、くるりと顧問の方を振り返る。尼さん顧問は「やれやれ」とため息を吐いたものの、半ば愉快そうに両手をそっと合わせた。まるで、神仏に祈りを捧げるかのようだった。
「南斎と石井、あなた方三年生は、次の試合は観戦なさい。こちらは、秋以降の新人戦レギュラーの具合を確かめましょう。清水は大将に据える予定でしたから。どうですか、鑓水先生?」
彼女の提案に、鑓水先生は私と須和さんとを見比べるように一瞥する。
「……こちらも異論ありません。おい、秋保」
「は、はい!」
先生の厳しい視線と、勝手に話を進めてしまった負い目とで、私はすっかり委縮していた。
「言ったからには成果で応えろ。自分が、須和黒江の代わりとなる選手だと」
落ち着いた口調で紡がれたそれが叱責なのか、それとも激励なのか、今の私には判断する余裕がなかった。でもたったひとつ、「須和黒江の代わり」という言葉が、重く背中にのしかかった。
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