エース

 ふたりが竹刀を構え合うと、道場の空気がしんと空気が鎮まりかえった。見守っているギャラリーすらも息を殺す。試合が始まるその瞬間まで、呼吸音ひとつで選手の意識を乱してはなるまいと、そんな意志を感じた。まるで、大会の決勝戦のような緊張感。事実、おそらくこの試合は、個人戦であるならば決勝戦の模擬試合と言っても過言ではないのだろう。

 そのレベルの選手ふたりがぶつかり合えば、自然と緊張感が増す。

「――はじめ!」

 五十鈴川先輩の凛とした声が響き、両選手がすくりと立ち上がる。互いにけん制するような気合を発しながら、穏やかで、静かな試合入りだった。

 正眼で構え合うふたりの駆け引きは、実に落ち着いたものだった。互いにまっすぐ、己の正中に構え、相手が踏み込めば下がり、下がれば踏み込む。間合いが近づくことも、離れることもない。まるで息の合った動きは、流れるようなダンスでも見ている気分だ。

 しかし、おそらくは互いに間合いのギリギリ外をキープしている状況なのだろう。もう一歩踏み込めば、一足一刀で仕留める。それぞれの心の内では、研ぎ澄まされた刃を向け合っているのがよく分かった。


 先に動いたのは清水さんだ。悲しいかな、そこは体格の違いと言っても良いだろう。手足が長い分、彼女の方が部長よりもいくらか間合いが長い。やや遠間から部長の竹刀を払ってのメン。相手の構えを無理やり破って打つ〝払い技〟は、膠着状態で使われる常套手段だ。

 竹刀を払うという予備動作がある分、部長も難なく技を防ぐ。これは清水さんも織り込み済みか、すぐさま引きながら浮いた部長の小手を狙う。

 部長は、これもまた手元をずらして防ぐ。そして中段の構えに戻りながら、今度は自ら清水さんの間合いの内へと突っ込んだ。

 中学生と見まがう小さな身体からは想像もできない、強烈な飛び込み。軸足である、左足の蹴りひとつで、いったいどれだけ跳ぶって言うんだ。跳ぶっていうか、ほとんど飛ぶって感じ。もしかして、あれが瞬間移動の秘密?

 いや、でも、それはまた違うような気がする。

 部長の渾身の一刀は、しかしながら、清水さんにとっても予想の範囲内なのだろう。竹刀で摺り上げるように払いのけると、返しのメンを放つ。一瞬決まったように見えたけど、どうやら打突が浅いらしく、審判旗が上がることはなかった。

 ギャラリーが深く息を吐く中で、ふたりはまた中段でにらみ合うように構える。再び膠着状態に戻るのかと思われた矢先に、今度は部長が動いた。

「メンあり!」

 ……あれ?

 すごく綺麗にメンが決まった。清水さんはほとんど棒立ちの中で、部長はごく自然に、ごくまっすぐに面を放って、ごく簡単に一本を取ってしまった。流石にギャラリー一同もざわめく。私だって、何が起こったのか理解が追いつかなかった。

 清水さんもまた、驚いたように部長の方へと振り向く。面越しでも手に取るように分かる戸惑いの表情が、この間の私を俯瞰して見ているかのようだった。


 瞬間移動だ。


 きっと、対峙している彼女の目には、部長の姿がそう見えていたに違いない。だけど、傍から見ている私には、単に部長が真っすぐにメンを打ったようにしか見えない。特別な動きは何もなかった。もちろん、常人に比べたら何倍も疾い打ち込みではあったけど、それでもしっかり見て、目で追える範囲だ。

「綺麗に決められると、マジで何も見えないよねぇ、あれ」

 安孫子先輩が、我が子の成長を見守る母親みたいに、嬉しそうにつぶやく。

「私も食らったことあるんですけど……あれ、なんなんです?」

「うーん、私たちもよく分かんないから、解説とかムリだけど……名付けて〝縮地カッコカリ〟だね」

 縮地って、なんか言葉だけは聞いたことがある。少年向けのアクション漫画とかでたまに出てくるあれだよね。それこそ瞬間移動のやつ。

「フィクションじゃないんですか、それ?」

「いや、だからね、原理は良く知らないんだ。あの子も稽古を積んで身に着けたものみたいだけど、本人は真っすぐ打ってるだけらしいし。でも、対戦者から見れば瞬間移動っぽく見えるし、そういう現象として起きちゃってるから。それで〝あの技〟とか呼ぶのも味気ないから、便宜上そう名付けたって感じ。カッコいいっしょ?」

 つまりフィクションに出てくる縮地そのものじゃなくって、それっぽく見える何かだと。いったい、コート上では何が起こってるんだろう。

 初見は自ら受け、今はこうして傍から見ても、真実はよく分からなかった。

「ふ……ふふふ」

 清水さんの口から、吹き出したような笑い声がこぼれた。その姿に、ふと全中で対峙した時の須和さんの姿が重なる。あの時の彼女もまた、試合中によく笑う子だった。楽しいというよりは、愉しみの笑み。獲物を前に、舌なめずりをするような――

「二本目!」

 主審の掛け声で、試合が仕切り直される。これでまた部長が一本を取れば、二本先取で勝利。逆に清水さんが取り返せば、勝負の三本目に突入する。そんな大事な局面で、私たちは思いもよらない光景を目の当たりにしていた。


 正眼の構えをとっていた清水さんが、切っ先を足元へ向けて下げた。


 まるで、ウォームアップの受け手みたいに己の面をさらす構え。それが何を意味するのか、私も知らないわけじゃない。ただ、実戦で見るのは初めてだった。

「下段だと……清水のヤツ、何考えてやがる」

 鑓水先生も、訝しむように眉をひそめて試合を見つめる。


 下段――見ての通り、切っ先を足元へ向けて下げる構え方。中段、上段、下段、八相、脇構え――占めて〝五行の構え〟と呼ばれる剣道の基本フォームのひとつだ。もともと、剣道には「正しい構え」というものは存在しない。野球選手のフォームが多岐にわたるように、基本的に竹刀はどう構えようと選手の自由だ。ただ、先人たちの知恵はあるもので、無駄がない理にかなった構え方は確立されている。それが五行の構え。中でも最も攻守のバランスが良いのが、ご存じ中段(正眼)の構えとなる。


 そして下段は、かつて段位審査のために読んだ教本の中では、防御に向いた構えとされていた。しかしそれは、侍が真剣で命をかけあっていた時代。はたまた、剣道にまだルールらしいルールがなかったころの話だ。成り立ちから言えば、相手の機動力を削ぐために、脚を狙うためのもの。

 しかし現代剣道は、得点となる打突部位が定められている。

 メン、コテ、ドウ、ツキ。

 そのすべてが上半身。つまり、それら全てから竹刀を遠ざける下段の構えは、とっても非効率なわけである。だからこそ、使う人はほぼいない……とされている。

 完全にいないと言い切れないのは、私自身が今、目の前でその使い手を見てしまったからだ。

 八乙女部長も相手の意図を計れず、そして攻め方が分からず、先ほどよりもさらに遠い間合いで清水さんの出方を伺う。流れるような攻防だった一本目と違い、選手の緊張を感じる、ピリついた二本目となった。

 

 攻めあぐねる八乙女部長は、自然と後手になっていく。相手の切っ先が下がったことで、間合いも計りづらくなっているんだろう。一方で、下段の間合いを身体に叩き込んでいるであろう清水さんは、落ち着いた様子で距離を詰めながら時おり牽制するようにメンやコテを打ち込んでいく。下段からの打ち込みは、正眼からのそれに比べて大振りになり、ワンテンポ遅れる。一度竹刀を振り上げてから打突するわけだから、当然だ。

 清水さんの打突もまた、部長や須和さんの打ち込みに比べたらゆるやかで、まるで舞踊でも見ているようだった。なのに、隙を感じない。なんでだろう。対峙する部長には、彼女の動きがどう見えているんだろうか。

 清水さんの竹刀が、部長の竹刀を跳ね上げるように払う。そのまま飛び込んで来た彼女に、部長は咄嗟に面を防御したが、それが誤りだった。払いあげと共に振り上げられた彼女の切っ先は、そのまま蛇のうねり、はたまた夜空の朧にうかぶ半月のような放物線を描いて、部長の左側の胴に吸い込まれる。


 逆胴――文句のつけようがない美しい一閃が、コート上で眩い輝きを放った。


「ドウあり!」

 審判たちの旗が一斉に赤にあがる。宝珠山の陣から大きな拍手がこぼれ、あこや南の陣からは感嘆にも似たため息がこぼれた。勝負がイーブンに戻されたことよりも、純白に身を包んだかの選手の一挙手一投足に目を奪われていた。

「飲まれるな! 攻めていけ!」

 先生の喝が響いて、私たちははっと我を取り戻す。一方で、尼さん顧問は「してやったり」という顔で細く笑む。

「勝負!」

 ふたたび試合が仕切り直され、三本目が始まる。清水さんは再びの下段。対する八乙女部長はというと、思いのほか、落ち着いているように見えた。あまりに綺麗な逆胴だったものだから、いっそのこと吹っ切れてしまったんだろうか。とにかく、一本取り返されたことによる精神的なダメージは感じられなかった。

 飲まれるなと言う先生の言葉通り、今度の部長は自ら積極的に間合いを詰めて行った。来るなら来いと挑発するように、明らかな間合いの内側へと踏み込んでいく。諸刃のインファイトだ。

 事実、相手のペースで待つよりは、いっそのこと間合いの内側に入って、打ち込み、打たれることで、慣れない下段の構えを解かせてしまうほうが良い。代わりに、下流の川の流れのようなそれまでの試合運びと違い、激流のような打ち合いが繰り広げられることになる。

 また〝縮地〟をすれば勝てそうなものなのに、狙うような気配はない。本人も理屈は分かってないってことだけど、発動には何か条件があるんだろうか。それとも使用回数の制限?

 いやいやまさか、ゲームじゃないんだから、そんなことはあり得ない。きっと、何か一定の環境下か試合展開の中で、「そう見えてしまう」タイミングがあるんだろう。そして、この激しい打ち合いの中で、待ち望んだ機会が訪れることは無かった。

「やめ! 引き分け!」

 試合時間いっぱいの太鼓が鳴り響き、一対一のまま勝負は引き分けとなる。団体戦の個別の試合に延長戦はない。引き分けは引き分けとして、チームスコアに記録されるだけである。

 両校のエースの直接対決は決着つかず。しかし、得体のしれない下段使いの清水さんという存在を目の当たりにして、私たちはひとつの山に突き当たった気分だった。

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