ファースト・オーダー

 防具を道場の隅っこに置かせてもらうと、そのまま更衣室(と言うより、茶室みたいな離れ)を借りて制服から道着に着替える。この間までは間に合わせで中学時代のユニフォームを着ていた一年生組も、それぞれに揃えた新品の道着に身を包む。新品のパリッとした道着に袖を通すと、心なしか成長したような気持になった。

 道場に戻ったころには、宝珠山の部員たちも、一様に道着に着替え終わっていた。白無垢とも死覇装とも思える上下真っ白の道着に、全部員揃いの白備えの防具。胴は、艶やかな赤胴だ。レギュラー用の備品というわけではなくそれぞれ自前の持ち物のようで、道具をケチらないお嬢様学校らしさをこんなところでも見せつけられる。

「うわぁ! やぱり、白防具カッコいい!」

 藤沢さんが、目を輝かせながら彼方の部員たちを眺める。彼女と戸田さんのふたりは、今日は練習はお休みで須和さんと一緒にマネージャー業の手伝いをすることになっている。インターハイ予選では間違いなく裏方でサポートをすることになるので、その予行演習を兼ねてのことらしい。しかしながら、いつもは初心者係の五十鈴川先輩も選手として練習に参加するため、今日のマネージャーチームのリーダーは須和さんだ。大丈夫かな……不安があるわけじゃないんだけど、口下手なところがあるからな、彼女。

「集合!」

 両校の部長の号令が、ほとんど同時に響き渡った。弾かれたように振り返ると、戸口のところに鑓水先生と、もうひとり宝珠山の顧問と思われる先生が立っていた。

「ようこそ、あこや南のみなさん。本日は、よろしくお願いします」

 そう挨拶をした宝珠山の顧問は、ショートカット(というかおかっぱ)に袈裟という、この学校の立地を考えたら〝いかにも〟な恰好をしていた。年の瀬は三〇代くらいに見えるけど、お坊さん独特の落ち着きのせいか、もっとずっと年上のように感じる。事実、若く見えるだけでそうなのかもしれない。

「それにしても、部員が多くて羨ましいことですねぇ。ウチは、ようやく補欠まで埋まる人数だというのに」

「いやいや、ウチも同じようなものでしたよ。ただ今年は新入生が豊作でしてね」

「ふふふ、それは楽しみですわぁ。たっぷりと勉強させていただきます」

 顧問たちがにこやかに会話している――はずなんだけど、全く友好的に見えないのはなんでだろう。鑓水先生はいつも通りだけど、ふたりとも笑顔が怖いよ。

「県内の数少ない女子校同士だから、大人たちはいろいろあるみたいよ。生徒側はあんまり気にしてないけど」

 気後れしている私に、安孫子先輩がそう耳打ちしてくれた。なるほど。どうやら顧問陣は微妙な関係のようだ。

 尼さん顧問が口にした通り、宝珠山の部員はマネージャーを入れて八人。レギュラー五人に補欠二人という、大会規定ギリギリだ。仮に人数が足りなくても試合には出場できるわけだけど、足りない分のポジションは不戦勝となるため、状況的には不利となる。その分、ひとりひとりが、必勝に近い心持ちで試合に臨まなければならないわけだ。

 そして、三年間をそういう覚悟で過ごして来た学校の選手は、やけに強いことがある。おそらくこの宝珠山は、そういう類のチームなんだろうというのが、私の第一印象だった。

「黙想ぉ!」

 顧問たちからの挨拶が終わると、ひとまずはウォーミングアップへうつる。ここでは宝珠山がホストになるので、彼女たちの練習の流れに私たちが相乗りさせてもらうことになる。

 部長の南斎さんの掛け声で、床に正座した一同が、目を閉じ、心を鎮める。黙想は、大抵の剣道部で練習の前後に行うことが多いが、宝珠山のそれは他校から「恒例行事」とも呼ばれる特異なものだと、先輩たちから聞いていた。別に特別なことをやるわけではないが、時間がとにかく長い。普通なら三〇秒から、長くても一分程度で済ませるところ、この高校は五分近くも行うという。半ば、心を静めることすら飽きてくるほどの時間を、この行為に費やす。

 慣れていない私たちなんかは、無意識に身体が揺れたり、脚がしびれて座りを正したり、どうしても身体が動いてしまう。だが宝珠山の面々は、まるで石か彫刻にでもなったように、五分間の心頭滅却を微動だにせずやってのける。呼吸音すら聞こえないほど静かに、身も心もこの道場や、山とひとつになってしまったかのように。

 静寂を越えた〝無〟がそこにあった。

「やめ! 礼!」

「お願いします!」

 再びの号令で、一同は仏前に向き直り、深く頭を下げる。それから各校同士向かい合い、もう一度礼をしあう。私は、空気に飲まれないよう、腹の底からしっかりと声を絞り出した。練習ではあるものの、試合はもう、ここから始まっていると思っていた。


 ウォームアップの基本練習も、今日は宝珠山式に則る。とは言え、基本練習に関しては、どこの高校もそんなにやることは変わらないだろう。

 切り返しから始まり、面打ち、小手面打ち、抜き胴打ち――はあったりなかったり。あとはその日の稽古テーマによって、引き技や出鼻技、応じ技なんかの応用レパートリーが入って来る。今日は練習試合がメインになるので、基本の打ち込みを行った後は、身体を温めるための掛かり稽古を行った。

 基本稽古は相手をぐるぐる入れ替えながら行うものだけど、今日は二校合同なので、互いの部員が入り混じるようにして行われた。

 試合中には気づかない細かな技術に気づけたりするので、こういう機会は貴重だと思う。

「君、太刀筋が綺麗だね」

 南斎部長と打ち合った際に、最後にそんな声をかけられた。

「え……あ、ありがとうございます」

「基本に忠実でいい振りだ。君は一年生……で、間違いないんだよね?」

 私の垂ネームに刻まれた「七重浜中」の文字と、私の身長とを見比べて、彼女はいくらか半信半疑で尋ねる。

「はい、一年です」

「うん、そうか。体格も良いし、きっといい選手になる。精進しなよ」

 そう言い残して、南斎さんは次の相手のもとへと向かって行った。

「ありがとうございます」

 背中に呼び掛けるように、お礼を言う。やっぱ根は良い人だ。でも同時に「今はまだまだ」と言われたような気持ちにもなる。三年の先輩から見れば、確かにそうなんだろうけど……そう思われるようじゃ、日本一の背中にはほど遠い。

「お願いします」

 苛立ち気味の挨拶が聞こえて、私ははっとする。物思いに耽っている間に、次の相手を待ちぼうけにさせてしまっていた。私も慌てて竹刀を構えた。

 ギンと、鋭く見定めるような視線が、面金の隙間から覗く。垂ネームにある名前は〝清水〟。そうか、あの人か。

「メェェェェン!」

 彼女の打ち込みを、受け手として見送る。踏み出しから打突、そして残心まで、とても綺麗な一刀だった。さっき自分が言われたことをそのまま返すようだけど、基本に忠実で、無駄のない剣道。大抵の場合は、そこに多少なり個性や癖なんかの雑味が入って来るものだけど、彼女のそれは極限までお手本に近づけたような――いや、お手本そのものと言って良いレベルのものだった。

 こんなものを見せられたら、先ほどの南斎さんの言い回しにも合点がいく。綺麗な剣道と言う意味では、私以上の逸材を常日頃目にしているのだから。

「あなたの番ですよ」

「あ、すみません」

 催促するような声を受けて、私は再び意識を目の前に向ける。いろいろと考えながら剣道をやっているせいか、今日はいまいち集中できていない気がする。中学のころは、もう少しがむしゃらに一直線だったな。もちろん、須和黒江に勝つための試行錯誤はしていたけど、それを為すのは「一に練習、二も練習」って感じで。まさしく精神論ばかりのスポ根人生だった。

「あなた、やる気はあるのですか?」

 なんてことを考えていたら、また意識が飛んでしまった。清水さんは、いいかげんイラついた様子で、私の竹刀の先を、自分の竹刀でパチンと弾く。

「ご、ごめんなさい。考え事をしていて」

「それは、今、必要なことですか? 限られた時間を割いて稽古をしているのだから、目の前のことに集中なさったらどうです? ただ遊びに来ているつもりなら、それでも構いませんが」

「……ごもっともです」

 ぐうの音も出ない。私は恥ずかしさを押し込めるように気合を入れて、自分の分の打ち込みを終える。相手を入れ替える時間になって、清水さんは私のことを一蹴するように「ふん」と鼻を鳴らして去って行った。

 彼女の方が先輩とは言え、他校の生徒にあそこまでハッキリ言えるってすごいな。さっきのは、全面的に私が悪かったわけだけど。良くも悪くも真っすぐで裏表のない人……なのかな。

 でも、あの蛇のような視線を思い返すと、とてもじゃないけど清純無垢な心の持ち主とは思えない。キツイこと言われたせいじゃなく、単純に、腹の底が読めなくて怖い人だ


 ウォームアップが終わり、軽い給水休憩を経ていよいよ練習試合へと移って行く。手ぬぐいで顔周りの汗をぬぐっていると、顧問たちが今後の流れを話し合っているのが聞こえた。

「新人にも経験を積ませてやりたいので、AチームとBチームを出そうと思ってますが、宝珠山さんはどうします?」

「選手層が潤沢でほんと羨ましいですねぇ。ウチは分けるほどの面子がおりませんので、正レギュラーをAチームに。あとから一部を補欠員と入れ替えて、それをBチームとさせていただきましょう」

「そちらの選手に負担を強いてしまって申し訳ないですね」

「いえいえ。ウチには、たった二度の連戦で疲れ果てるような選手はひとりもおりませんよ。ただし……ひとつだけ条件があります」

「なんでしょう?」

「ウチの清水に、そちらの八乙女穂波を当てていただきたい」

 盗み聞いていた部員一同が、一斉に息を飲んだ。私たちも、宝珠山の子たちも、全員同じくだ。唯一涼しい顔をしているのは、やり玉に挙がった清水さん本人くらい。きっと彼女は、あらかじめこうなることを知っていたのだろう。

 鑓水先生は、かすかに笑みを浮かべながら頷き返す。

「八乙女は中堅ですが、よろしいかな?」

「構いませんよ。清水も中堅です。エースですから」

 尼さん顧問も、能面みたいな笑みで答える。

 エース――顧問にその言葉を言わせるのは、絶対の信頼と、確かな強さを持つ証だ。清水さんに抱いていた恐怖は、いつの間にか明確な脅威へとランクアップしていた。でも、ウチの部長なら……私じゃ手も足も出なかった「瞬間移動」が、試合の中でどう発揮されるのか、私自身が楽しみにしていた。

 話し合いが終わり、鑓水先生があこや南のメンバーを手招きで集める。

「聞いてたなお前ら。あっちはこっちを舐めくさってる――とまでは言わないが、〝良い印象〟で県予選を迎えようとしているのは確かだ。八乙女、部長の意地を見せろ。逆に苦手意識を植え付けてやるつもりでいけ」

「はい!」

「よーし、いい返事だ。いい子いい子してやる。それじゃあAB各チームのオーダーを発表する」

 部員一同に再び緊張が走る。練習試合とは言え、明確な一軍二軍の組み分けだ。それが現段階での顧問からの評価であり、予選会レギュラーのベースになるのは確かだろう。

 鑓水先生は、その緊張を愉しむように私たちの顔を見渡して、それからゆっくりとした口調でオーダーを発表した。

「Aチーム先鋒、日下部」

「はい!」

「次鋒、中川」

「うす」

「中堅は八乙女な」

「はい!」

「副将、安孫子」

「はい」

「大将、北澤」

「は、はい」

 一気に言い終えて、先生は一息つく。視線の端で、竜胆ちゃんが「よしっ」と拳を握りしめるのと、熊谷先輩が顔をしかめてため息を吐くのが見えた。

「続いてBチーム。先鋒、熊谷」

「はいッス!」

「次鋒、うーん……井場!」

「はいっ」

「中堅、五十鈴川」

「はい」

「副将、早坂」

「はい!」

「大将、秋保」

「え!?」

 なかなか呼ばれないからまさかと思っていたけど、いざ大将に名前を挙げられた時、思いのほかびっくりしてしまった。

「なんだ、文句あんのか?」

「そ、そういうわけでは……でも、なぜ私が大将に?」

「お前どう見たって大将面だろ」

 大将面って……モノ申したいところだけど、他の部員たちはみんな「確かに」というふうに頷いていた。

 それ、絶対に身長だけ見て思ってるよね?

 私、ずっと先鋒か中堅だったから、大将とかしたことないんだけど……?

「以上。ぶちかましてこい」

「はい!」

 とにもかくにもオーダーは整った。不安はあるというか、不安しかないけれど、いよいよこれから、高校最初の対外試合が始まるんだ。

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