マウンテン・ハイ

 今日の部活も、私はひたすら基礎練習だ。練習試合まではもう三日とないのに、須和さんはまだ技術のひとつも教えてはくれなかった。もっとも、練習試合に間に合わせるなんて約束はひとっつもしていないわけで、なんなら今年のインハイ予選に焦点を絞るとも言われていない。

 目的はあくまで須和さんに勝つことだから、そういう意味でのタイムリミットは無いに等しかった。とはいえ、もとはと言えば須和さんを部員として迎え入れたいという、安孫子先輩からの指令で始まったこと。だとすれば、やっぱり県予選はひとつの指標になってくると思う。

「はい」

 だけど、須和さんは完全なるマイペースで、ダンベルを一本私に向けて差し出す。そんなもの使ったことが無い私は、受け取ったのはいいものの、どうしたらいいか分からず棒立ちになってしまった。

「全身をまんべんなく鍛えつつ、これで手首を重点的に鍛えて」

「手首……って鍛えられるの?」

「正しくは手首を動かす筋肉。こうやるの」

 須和さんは私の手からダンベルをひったくると、ベンチに腕を横たえて、手首だけでダンベルを上げたり下げたりする。なるほど、前腕の部分の筋肉が、伸びたりしぼんだり、しなやかに動くのが分かる。

「そこって、手首の筋肉だったんだ」

「あとは指の筋肉。左手の握力も鍛えて欲しい」

「それ、通ってた道場でもよく言われたかも。竹刀は左手の小指で振るんだって」

「そう。振るのは小指。支点は中指。竹刀は中指に対する小指の遠心力で加速する」

「面白い話してるね。ちょうどこっちも素振りしてるから、お手本見せて貰ってもいいかな?」

 話を聞いていたらしい五十鈴川先輩が、にこにこと笑顔を浮かべながら訊ねる。傍らでは、基本の素振りにチャレンジしていた戸田さんと藤沢さんが、軽く息を弾ませながらこっちを見ていた。

 須和さんは無言で頷くと、ダンベルを私に押し付けて自分の竹刀を取り出す。そのまま左手一本で、正眼の構えをとる。

「正眼の状態で、竹刀を支えるのは中指。小指はフリーにしておいて、打突の瞬間だけ絞るように握る。ちょうど、中指を中心に、竹刀を回すように」

 そう言って、彼女は小指を握ったり緩めたり。それだけで、腕も手首も動いていないのに、切っ先がひゅんひゅんとしなるように上下に動く。

「ここに腕の振りを加えると素振りになる。力は、踏み込む脚から背中を伝って、肩、肘、手首、そして指先。切っ先は相手のメンの位置で止める」

 先ほどの小指の動きに、頭上までの腕の振り上げ、そしてすり足での踏み込みを加える。さっきまでは「ひゅん」だった竹刀の音が、「びゅん」と加速したものに変わる。思わず、私含むみんなの口から「おぉ」とため息がこぼれる。

「この一連の動作を無意識に、できるだけ疾くできるようにする。それが素振りをする意味」

「だから、剣士にとっての基本であり最大の鍛錬って言われるわけですね」

 藤沢さんは、感心したように唸りながら、メモ帳に言われたことをメモする。すごい、部活でメモとか取るんだ。私の頭には一切なかった意識の高さに、ちょっぴりびっくりする。

「ひ、左手だけでどうやって振るんですか? 全然、竹刀が止まらないんですけど……」

 一方の戸田さんは、とりあえずの実践派のようだ。見よう見まねで須和さんの左手素振りに挑戦するけど、竹刀が目線の位置で止まらずに、へなへなとしおれた花弁みたいに下がってしまう。

「片手素振りは、両手素振りに慣れて、身体もできあがってからで大丈夫だよ。むしろ、それを綺麗にできるようになるのが一年間の目標でも良いかもね」

「はい……頑張りますぅ」

 先輩に励まされながら、戸田さんはへろへろの状態で素振りを再開する。みんな最初はそうだから、音をあげず、無理をせず、頑張って欲しい。

「秋保さんにも、左手だけの素振りはマスターしてもらう」

「うう……実は私も苦手なんだよね、片手素振り」

「素振りだけじゃなくて、切り替えしもできるようになってもらう」

「えぇ……」

 須和さんの掲げる目標は、思ったよりも高い山だった。

 切り返しっていうのは、ウォームアップのさらにウォームアップみたいな、基本動作がたっぷり詰まった稽古のひとつだ。それを左手だけでっていうんだから、よっぽど指と手首の完成度を高めたいらしい。

「明日は左手の握力がなくなりそう。竹刀振れるかな?」

「そうしたら、他の部分を鍛えるから大丈夫」

「オニ!」

 そんな悪態のひとつも飛び出してしまうくらい、実にストイックな稽古内容だ。だけど、それくらいしないと須和さんの技術は習得できないんだろうなって――彼女も日本一になるまでに、これだけのことをこなして来たんだろうなって、身をもって体験しているかのようだった。


 翌朝、案の定、左手の前腕部はしっかり筋肉痛になっていた。通学鞄を持ち上げるのも、若干躊躇うくらいの疲労感。しっかり、筋肉が苛め抜かれている。これ、どれくらいで引くのかな。週末まで響かないかどうかが心配だ。

 さらに今日は、大荷物がひとつ追加されている。中学のころに使っていた防具が、宅配便でこっちの家まで届いたのだ。最近の防具袋は便利なもので、キャリーケースみたいにハンドルとタイヤでごろごろと引いて歩くことができる。だから持ち運ぶのは苦ではないんだけど……流石にこれをこのまま、教室の傍らに置いておくのは気が引ける。何より、私の席は入口すぐ目の前だし、目立つことこのうえない。

 結局、竹刀の時と同じように朝イチで道場へ向かって、置いていくのが一番だ。そう思って第二体育館の入口をくぐると、道場の前に先客がいた。

「えっと……北澤先輩?」

「ひっ」

 当然の礼儀として声をかけると、彼女はびくりと肩を揺らして小さく飛び上がった。

 私の目線からしても、見上げるほどのすらりと伸びた体躯。よくよく見れば腰の位置もすごく高くて、これはいわゆるモデル体型ってヤツだ。内履きも履かずに靴下だけの状態だからこそ、余計に生の数値として目の前に突き付けられる。

「ああ、えっと……秋保さん」

 声をかけて来たのが(仮にも)知り合いだと知って、彼女は大きく安堵のため息を溢す。それから気を取り直したように、キメ顔でウインクをしてくれた。

「おはよう」

「お、おはようございます」

 直前までのおどおど具合と一八〇変わったイケメンスマイルに、思わず気圧されてしまう。ただ、その変身具合を目の当たりにしているせいか、「どっきーん!」はやってこなかった。

「北澤先輩――」

「あ、いや、日葵でいいよ……っていうか、日葵がいいな」

「え? あ、じゃあ、日葵先輩……?」

 訂正するように尋ねると、日葵先輩は満足げに小さく頷く。先輩のことをあだ名で呼ぶことはあっても、ストレートで名前で呼ぶのは初めてで、少し緊張した。日葵先輩――北澤先輩よりは、少し言いやすいかな。

「改めてになっちゃいますけど、道場、入らないんですか?」

「えっと、それは」

「この間も、朝にここで会いましたよね。いつも来てるんですか?」

「それは、その」

 先輩のレスポンスが悪すぎて、なんか尋問してるような気分になってきた。多少ペースを合わせるべく、ちゃんとした返事が来るのを待ってみる。

「朝練で、竹刀だけでも振ろうと思ってるんだ」

「へぇ、練習熱心なんですね」

「し、新年度……最初のうち、部活に来れなかったから、その分で」

 そう言えば、そんなこともあったっけ。確か安孫子先輩の話じゃ、すごい人見知りで、新年度はいつもそうだとか。確かに人見知りっぽそうだけど、かと思えば突然のイケメンムーブをかますし、イマイチ掴みどころのない人だ。

 半ば先輩を押し込むようにして、私は道場へと入る。さっそく防具袋から防具を取り出すと、壁沿いに並んだ先輩たちの防具の一番下手に、自分のそれを並べた。


――七重浜 秋保。


 垂ネームが中学時代のものなのはご愛敬だ。名前の認識ができる方が大事なので、この部の正式なネームが届くまではこれで我慢しよう。

 私が支度をしている間に、日葵先輩は大きな傘立てみたいな竹刀立てから自分の竹刀を引っ張り出して、手首足首を軽く回す。それから、黙想するように目を閉じて軽く深呼吸を繰り返した。

 声をかけるのも音を立てるのも野暮なので、私は身動きひとつ取れないまま、その様子を眺めていた。遠くから響く、駐車場の車のエンジン音。どこかの運動部の掛け声。生徒の笑い声。同じ敷地内なのに、この空間だけ切り取られてしまったみたいに空気がしんと張り詰める。その中でゆっくりと竹刀を構えた日葵先輩は――力強く正面に振り込んだ。

 ぶわっと、静止していた空気が胎動する。張りつめていたものが、素振りのひと振りで開放されたみたいで、私はその空気のうねりを全身で浴びることになった。


 たったひと振りだけど解る。

 この人、強い。


 須和さんと比べたら……と言われたら流石に判断材料が足りなすぎるけど、強い人の、型に則った素振りは、ため息がこぼれるほど美しい。それこそ須和さんが昨日、初心者のふたりに見せたひと振りみたいに。

 先輩はそのまま、二本、三本と素振りを続ける。ウォームアップの跳躍素振りじゃなくって、すり足で前後に一歩ずつ、踏みしめるような正面素振り。これはこれで、ちゃんとやると疲れるんだ。現に、十数本を超えたころから、先輩の呼吸も深く、短く、力強いものに変わっていく。

 三十本ほどを振り終えて、先輩は一息つくように竹刀を下ろした。張りつめては弾けて、また張りつめては弾けてを繰り返していた道場の空気も、緊張が緩んだように落ち着いた。

「先輩って、剣道始めてどのくらいになるんですか?」

「ええと、小学校の五年生からだから……七年くらい、かな」

「その間、何本素振りしたかとか、覚えてますか?」

「え? ええ?」

 先輩は、困った様子で「一、二、三、四」と指折り数え始めた。まあ、覚えてるわけないよね。ぶっちゃけ、私だって分からない。それなりに振って来た方だとは思うけど……ただ、どのくらい竹刀を振ったら、須和さんや先輩みたいな素振りができるようになるのか、単純に気になったんだ。

「私も、素振りしていこうかな」

 始業まではもう少し時間があるし。竹刀立てから、自分の名前を書いた竹刀を引っ張り出して正眼で構える。

 踏み込む脚から背中を伝って、肩、肘、手首、そして指先まで。

 地面から力が伝わって行くのをイメージして――

「あいたっ」

 ずきっと、左手の前腕部に痛みが走って、振り下ろした竹刀を取り落としてしまうところだった。どうにか踏ん張って、不格好に竹刀を収める。そう言えば、筋肉痛だったんだ……うう、今、ものすごく素振りしたいのに、できない。もどかしい。

「だ、大丈夫?」

 思わず声をあげてしまったものだから、先輩が慌てて駆け寄ってきてくれた。

「し、湿布する? それとも、添え木? と、とりあえずテーピング!」

「わっ、大丈夫ですよ! ただの筋肉痛なので!」

「そ、そっか。よかった」

 先輩が、大きなため息をつく。なんだか気揉ませてしまったみたいで、申し訳ない気持ちになる。

 そして、たぶんこの人、すごく良い人なんだろうな。上手く伝わらないっていうか、表現するのが苦手なだけで。だけど、未だに掴みどころがないのは変わらなくって、この人がはたしてどんな剣道をするのか、全く想像ができなかった。

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