日本一の女
翌日の放課後、約束と違わずに須和さんは南高剣道部の道場に姿を現した。更衣室で着替えて来たらしい真っ黒な道着には、袖の部分に「山形十中」と、緑色の刺繍でかつての所属校名が刻まれていた。
「黒江ちゃん、ようこそ剣道部へ! これからよろしくね!」
「よろしくされるつもりはないです」
満面のよそ行きスマイルで出迎えた安孫子先輩を、須和さんはバッサリと切り捨てる。先輩は渋い顔で「ちぇっ」と不満を吐き捨ててから、須和さんを「この辺使って」と道場の隅へ案内する。
「すみません。メッセで送った通りで、とりあえずここまで連れて来ただけでも褒めてください」
竜胆ちゃんが、先輩たちに平謝りする。まだ本入部はしていないながら、彼女も今日は「飛島中」と刺繍された、自前の道着を身に纏っている。
一方の先輩方は、特に怒ってはいない――というか、目の前に現れた「日本一の選手」のオーラに、圧倒されるまでは言い過ぎだろうけど、奇異の目を向けていた。
「やっぱりというか、なんというか、雰囲気あるッスねぇ」
感心する熊谷先輩の隣で、ヤンキー先輩――垂ネームには「中川」とあった――が、あからさまに不機嫌に鼻を鳴らす。
「〝勝ったら入ってやる〟とか、何様だ。ナメてんだろ。気に入らねぇ」
「聞こえるッスよ」
「聞こえるように言ってんだよ」
道場の中は既に一触即発の状態で、何とも居心地が悪い。
須和さんを案内し終えた安孫子先輩が戻って来て、今居る部員に集合をかける。そのまま円陣を組むように顔を寄せると、ひそひそと作戦会議を始めた。
「で……ぶっちゃけどうする? 悪いけど、私は勝てるビジョンがないからパス」
なんとも頼りない宣言が副部長の口から飛び出す。これが単なる試合なら「一年生相手になんて弱気な」と罵られもするところだけど、相手が日本一の選手ともなれば、勇気ある撤退と捉えるべきだ。
「なんでこういう日に部長居ないんスかぁ? 正直、ウチで太刀打ちできそうなの、部長くらいッスよね」
「しょうがないよ。今、生徒総会の準備で忙しい時期だもの」
大きなため息をついた熊谷先輩に、五十鈴川先輩が元気づけるように背中をさする。五十鈴川先輩も、見学初日にいた人だったっけ。他の〝ヤカラ〟にしか見えない先輩たちに比べたら、柔らかくて、ふんわりした印象で、なんというか場違いなくらいに女神様だ。
……というか今、衝撃のワードが聞こえた気がしたんだけど、これはスルーしちゃいけないことなのかな。
「あの……部長って、中川先輩じゃないんですか?」
「あぁ?」
思い切って尋ねてみると、当の本人に、思いっきり睨まれてしまった。文字通りの殺気を感じて、私は震えながら息を飲む。安孫子先輩がキョトンとしてから、すぐに噴き出したように笑った。
「あはははっ。まー、中川ちゃんも、ある意味オーラあるしね。間違えるのも仕方ない」
「流石、中川さんッス。既に部長の貫禄ッス」
「やめてくださいよ、安孫子先輩。あと杏樹(あんじゅ)は後でシメる」
「ヒイッ!?」
気だるそうに語る中川先輩の言葉をそのまま汲み取るなら、どうやら二年生……ってことらしい。申し訳ないけど、全く見えなかった。あと、私と同じように震えあがった熊谷先輩の下の名前もついでに判明した。
てか中川先輩と熊谷先輩って、ボスとそのオヒキ感満載だったのに、同い年ってことか。
「あのぅ」
私の疑問で話の腰を折ってしまったところに、五十鈴川先輩の一声が挟まる。
「日葵(ひまり)先輩は、今日は?」
「えー? たぶんサボリじゃない? 年度初めはいつもそうだし」
安孫子先輩が、あんまり興味無さそうに答える。興味ないっていうか、それが平常運転って感じのトーン。
「幽霊部員みたいな先輩もいるんですか?」
そして、竜胆ちゃんが果敢に部の実情に切り込む。すると、もうひとりの、こっちは間違いなく三年生である早坂先輩が、苦笑した。
「日葵のアレは、なんていうか発作みたいなものだよ。極度の人見知りでね~」
「人見知り」
「そうそう。だから、この時期は、新人ちゃんに慣れるまで、いつもどっか遠くから見守ってるの」
「幽霊っていうか、守護霊ですね」
「おい、日下部。日葵サンのことナメてんなら容赦しねぇぞ」
「えっ!? 別にそんなつもりはないですよ、やだなぁ!」
中川先輩に凄まれて、流石の竜胆ちゃんも取り繕うように笑顔を浮かべる。
ギャル先輩に、ヤンキー先輩に、そのオヒキ先輩に、顔を出せないほど人見知りな先輩に……なんかこの部、人間関係に凄く気を遣いそうなんだけど、大丈夫かな。既に、中川先輩とこれから二年間付き合わなきゃいけないってだけで、だいぶ憂鬱で、入部を決めた事を後悔し始めているのに。
それに加えて、生徒会に所属してるらしい部長さんがいて、比較的常識人っぽそうな早坂先輩と五十鈴川先輩がいる。他に名前が上がらないってことは、これが上の代のフルメンバーということだろう。
あこや南って、全国出場経験もある中堅高のはずだけど、選手層があんまり厚くないね。剣道の試合はレギュラー五人と補欠が二人の計七人編成だから、ギリギリの人数だ。
その全員が幼少期からの経験者とかなら問題はないんだろうけど、ちらっと目にした練習の様子を見るに、少なくとも早坂先輩と熊谷先輩は、高校から始めたであろう正真正銘の初心者。
五十鈴川先輩も、動きにややぎこちない癖があるので、たぶん中学くらいからの日の浅い経験者だと思った。
一方でヤンキーこと中川先輩と、ギャルこと安孫子先輩の強面ツートップは長年の経験者っぽい。
剣道――特に学生剣道は、経験年数というか稽古を積んだ量が、あらゆる所作に如実に表れる。だから私なんかでも、それくらいの分析はできてしまう。
そして、年下目線で失礼なのは承知のうえで、この部の現在の実力はたぶん〝中の中〟だ。まだ見ぬ部長さんと、人見知りの先輩が加われば〝上の下〟に食い込むかもというくらいだろう。これは「部長さんなら須和さんに太刀打ちできるかも」という、先輩たちの言葉を信用しての皮算用だけど。
そう考えたら安孫子先輩が、是が否でも須和さんを欲した理由も納得ができる。単純に日本一の選手が欲しいというだけでなく、彼女がこの部に加わったら、間違いなく「強豪校」を名乗れるレベルに実力が底上げされることだろう。
三年生である彼女にとって、今年が最後の大会なのだから、縋る気持ちは痛いほどわかった。たぶん私も、去年は同じ気持ちだったから。
「ほら、そろそろ決めよ! ちなみに、当然のことながら顧問の許可なんて取ってないから、見つかったら大目玉」
安孫子先輩の言葉に、中川先輩含む全員の顔がさっと青ざめた。その意味を理解できずに首をかしげるだけだったのは、私と竜胆ちゃんくらいだ。
「準備できました」
気づくと、須和さんが面までつけ終えてゆっくりと立ち上がるところだった。
経験者の所作は、立ち姿ひとつから現れる。まっすぐ自身に満ちた須和さんの姿は、美しいを通り越して、神々しさすら感じてしまった。あんなに気が引けていたはずなのに、二年ぶりのたったひと目で、すっかり目を奪われてしまう。
「よ、よーし! 先鋒、熊谷いくッス! なんだかんだで全国レベルとやれるチャンスッス!」
無理矢理やる気を奮い立たせて、熊谷先輩が先陣を切る。
今回、須和さんから出された条件はたったのひとつ「試合形式で須和さんに勝つ」ことだけ。試合は公式ルールの四分三本勝負。二本先取した方が勝利。
剣道部側は、何人選手を出しても良い。須和さんは、その全てに、連戦で戦い続ける。普通に考えたら、負けるつもりで挑んだ勝負としか思えない。だけど須和さんは、きっと全てに、当たり前のように勝つつもりだ。
「……手も足も出なかったッス」
試合開始一〇秒程度。SNSの即オチ漫画みたいなスピードで、熊谷先輩がとぼとぼと帰って来た。
「ヤベーッスよ日本一! 何されたかも分かんないうちに、息を吸って吐いたら負けてたッス!」
かと思えば、面を外した瞬間に興奮した様子で語る。もちろん外から見ていた私たちには、出会いがしらに「メン」を取られて、二本目は捨て身で打ちに行った先輩の竹刀を華麗に躱して「コテ」を取った瞬間がバッチリと見えていた。
でも、面をつけて視界の狭い状態で対峙していると、本当に消えたように見えるんだ。それが、強い選手を相手に試合をするってこと。
「次鋒は私かな? できるだけ体力削って、次に繋ぐね」
女神――五十鈴川先輩が、両手をぎゅっと握りしめて、気合を入れながらコートへ向かう。消極的な意気込みだけど、勝ち抜き戦なら取ってしかるべき戦法だ。
彼女は、半ば防戦一方ではあったが、熊谷先輩とは違って二分ほどの時間を打ち合って見せた。しかしながら、見立て通りに日の浅い経験者だ。須和さん相手では、徐々に手玉に取られるように崩されて、最後は瞬く間に二連取されてしまった。
「もうちょっと頑張りたかったな」
帰って来た五十鈴川先輩は、ちょっぴり寂しそうに語る。部の良心とも思える彼女のそんな表情を見せられると、戦った当事者でもないのに、ちょっぴり心が傷む。
「よし、こっからは先輩に任せなさい。中堅、早坂は……そうだな……三分は耐えて見せるよ!」
三人目となる早坂先輩が、頼りなるんだかならないんだか分からない意気込みで、だけど頼りになる笑みを浮かべて、コートへ向かった。
が、結果は宣言とは程遠く、熊谷先輩と同じくらいの瞬殺だった。
「気持ちが先走り過ぎたか……!」
戻って来た先輩は、もちろん残念そうではあったが、それ以上にどこか楽しそうだった。熊谷先輩と同じ、高校から剣道を始めたばかり。単純に、試合することが楽しいんだろうなと思った。少しだけ羨ましかった。
「え……この流れ、私もいくの? 嘘でしょ?」
「不動の副将、副部長お願いするッス!」
「えぇ……言っとくけど、期待しないでね?」
全く気乗りしない様子で、安孫子先輩がコートへ向かう。普段はあんなにテンション高くて図々しいのに、面を付けると急に消極的で現実的だ。これもまた、長年の経験者だからこそ分かる実力の差ってやつを理解しての言葉なら、私にも身に覚えのある感情だ。
試合開始直後、しばらくの間、互いに微動だにせずににらみ合う。向け合った剣先だけが、時おりカチカチとこすれ合う音を立てて、静まり返った道場に響く。
単ににらみ合っているだけじゃなく、これは互いに間合いを牽制しているんだ。お互いに、「相手が不用意に踏み込んで来たら打つ」。そんな一打必勝の気合がぶつかり合う試合で、よくある光景。特に、強い選手同士があたる、大会の決勝戦なんかでは――
「日本一も、流石に警戒してるッスね」
「安孫子先輩は、構えが実直だからな。崩す手を考えねぇと、打ち込む隙がねぇんだ」
中川先輩の言う通り、こすれ合うだけだった剣先が、次第にパチンパチンと弾き合うように変わる。切っ先をずらして、少しでも隙を作るための駆け引き。やがて機が熟し、須和さんが動いた。呼吸の隙間を縫うように、安孫子先輩のメン目掛けて踏み込む。安孫子先輩は、竹刀を引き揚げてそれを防ぐと、そのまま手首をくるりと返すようにしてメンを打ち返す。須和さんは首をひねって躱して、飛び込んだ勢いのまま鍔迫り合いへと持ち込んだ。
ここまで、須和さんが動き出してから一秒足らずの出来事。嫌がおうにも、道場内の緊張感が増す。先の三人とは違う、ちゃんと打ち合っての一進一退。互いに決め手に欠けるのは、実力に思ったほどの開きが無いからだ。
「安孫子先輩、強いじゃないですか」
竜胆ちゃんが、目を丸くして声を弾ませた。初対面からこっち、安孫子先輩にはあまりいい印象を抱いていなかったけれど、私もすっかり手のひらを返す気持ちで試合を見つめていた。
流石三年生だ。実力だけで言えば、たぶん須和さんの方が上なのは確かだろう。安孫子先輩も頑張ってはいるが、次第に相手に速度も精度も上回られはじめている。
だけど、先輩には、私たちよりも二年長く稽古に打ち込んでいただけの、鍛えられたフィジカルがある。それだけで、毎日真面目に部活に取り組んでいたんだろうなって――その姿勢が理解できて、素直に尊敬の念を抱いた。
「コテあり!」
須和さんの切っ先が、安孫子先輩の小手に吸い込まれて、文句なしに審判の旗が上がった。部員たちから口々に「あぁ」とため息がこぼれ、すぐに「まだ行けるよ!」と声援が飛び交う。
だが、「二本目」の掛け声が上がった直後に、時間いっぱいの笛が鳴り響いてしまった。
「ふぅ、こんなもんだよねぇ」
面を外した安孫子先輩は、肩の荷が下りた様子で、安堵のため息をこぼした。それから、後ろに控える中川先輩へ向かって、ビシリと指をさす。
「大将! 後は任せた!」
「いや、オレはやりませんけど」
「えっ、なんで!?」
安孫子先輩は心底驚きながら、勢い余って床に崩れる。流れを思いっきり断ち切った中川先輩は、恨みの籠った目で須和さんを睨みつける。
「ここまでコケにされて、それでもアイツと一緒に部活やりたいなんて気持ち、オレには持てないんで」
「そ、そこを何とか! ね!?」
「すいません。先輩の頼みでも無理です」
珍しく狼狽えた様子で、安孫子先輩が中川先輩の袴に縋り寄る。だが中川先輩は、頑なに態度を変えようとしなかった。
「じゃあ、あたしが大将やっても良いですか!?」
代わりに、元気いっぱいの宣言が道場に響く。みんなの視線が一斉に向く中で、手をめいいっぱいにあげながら、もう片方の手で自身の顔を指さしていたのは、竜胆ちゃんだった。安孫子先輩は、名残惜しそうに中川先輩の顔を見上げてから、諦めたように頷く。
「いってこい、期待のニューフェイス!」
「あざーっす! 勝ってきます!」
その自信がどこから来るのか全く分からなかったけど、竜胆ちゃんは嬉々として防具をつけ始める。須和さんの実力を肌で感じて知っている身としては、友達の挑戦には心配しかない。だけど竜胆ちゃんが手を上げた瞬間、面金の向こうの須和さんの顔が、僅かに笑ったような気がした。
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