最初で最後のチャンス

 竜胆ちゃんは、あっという間に防具を装着して、身体をほぐすように跳躍素振りをはじめる。正眼の構えから、前後に飛び跳ねるように、ビュンビュン。はじめはゆっくりと、踏みしめるように。次第に素早く、息を弾ませるように。

 スポーツにおけるウォームアップは、心拍数をあげて、全身の血流を促すために行われる。血の流れが活発になれば、それだけ肺から酸素が運ばれるわけで。身体を動かすための栄養を行きわたらせているようなものだ。

 だから、ちょっと疲れて汗ばむくらいがちょうどいい。竜胆ちゃんは、一〇〇本ほどの素振りを終えると、弾んだ息を軽く整えながら、コートで待つ須和さんを見つめた。

 そう言えば、竜胆ちゃんが試合するところを見るの初めてだな。そもそも剣道をするところを見るのも。あやめによれば、東北の錬成大会で会ったことあるんじゃないって話だったけど、残念なことに記憶に残っていない。印象の薄い選手ってわけじゃなく、あの頃の私は、たぶん須和さんのことしか見ていなかったからだと思う。

「去年の全中県予選、個人戦準決勝の借りを返すよ」

「返してくれるのなら喜んで」

 言葉を交わして、互いに開始線に腰を下ろす。正眼の構えのまま蹲踞(そんきょ)。互いの呼吸が整ったら、相撲の「はっけよい」みたいに、主審の「はじめ!」の合図で試合が始まる。

 合図と同時に、竜胆ちゃんが動いた。試合は、蹲踞を解いて立ち上がるところから既に始まっている。中腰の姿勢で間合いに飛び込んだ竜胆ちゃんは、勢いのまま鋭い一刀を須和さんの面に打ち込む。須和さんも、ぼーっと突っ立ってはいない。すぐに竹刀の腹で受け流すと、突っ込んでくる竜胆ちゃんの体当たりを、真正面から受け止める。

 竜胆ちゃんは、すぐさま飛びのいて引き打ち。かと思えば、また正面から打ち込んで、休む間もなく連撃を浴びせる。まともに構え直す暇もないほどの攻勢。ものすごくペースが速い。まるで掛かり稽古のようだ。

 そんな彼女に、須和さんは防戦一方だった。とはいえ焦りはなく、冷静に竜胆ちゃんの太刀筋を受け流している。必勝の機会を伺っている。そんな防戦。

 中学のころからそうだった。須和さんは、応じ技のセンスが抜群に良いタイプの選手。応じ技というのはすなわち、相手が打ち込んで来たのに対して、カウンターで一本を狙うということ。

 剣道というやつは、真っすぐ構えていれば、基本的に一本を取られることはない。というか、隙がない。正眼の構えこそが、最大の防御の形なんだ。そして打ち込むということは、その構えを解くということ。最強の状態を崩して、自ら隙を作るということ。

 相手が自ら作り出した隙に、カウンターで一本を奪う。それが応じ技主体の須和さんの剣道だ。

 もっとも須和さんは、仕掛け技――自ら打ち込んで、積極的に一本を取るのだって上手い。現に、明らかな実力差がある熊谷先輩たちに対しては、仕掛け技主体の戦術で危なげなく勝ち星をあげてみせた。

 対する竜胆ちゃんは、見るからに仕掛け技が得意そうなタイプ。しかも、圧倒的な運動量で相手を叩きのめすような、超攻撃的な剣道。その点においては、須和さんを上回ってすらいるかもしれない。だから須和さんも、相手の土俵にあがる仕掛け技ではなく、自分の得意とする応じ技で迎え撃つつもりなんだろう。

 ちなみに私も、中学のころまでは仕掛け技に一日の長があると自負していたけれど……竜胆ちゃんの戦いを見せつけられたら、そんなこと口が裂けても言えなかった。

 竜胆ちゃんは、相変わらずの勢いで打ち込みまくる。まさに猛攻。かといって甘い一撃はなく、一つ一つが鋭く、力強い。それは、須和さんがカウンターの機会を決めあぐねていることからも明白だった。

「いいよ! 圧してる圧してる!」

 安孫子先輩の檄が飛ぶ。当然ながら、彼女は竜胆ちゃんを応援しているようだった。竜胆ちゃんが勝てば、須和さんが部に入るんだから当然だ。私だって、一応は、そのつもりで見守っている。


 だけど、心のどこかでは、須和さんに負けて欲しくないと願う自分もいた。須和さんは、負けないからこそ須和さんなんだ。私が目標として、ライバルと位置づけて、そして心を折られた彼女は、こんなところで負けて良いような選手じゃない。

「ドウあり!」

 スパンと気持ちのいい音が響いて、審判である熊谷先輩の手が上がる。瞬きひとつの間に、須和さんが竜胆ちゃんのメンを掻い潜って、お手本のような「抜きドウ」を決めていた。

 どくんと心臓が高鳴る。これは落胆ではなく興奮によるものだ。須和さんの実力が、私のイメージする通りであったことによる――

「まだまだぁ!」

 竜胆ちゃんが、自分を奮い立たせるように叫ぶ。これが大会なら、無用な威嚇行為と取られてしまいかねないけれど、仲間内の練習試合ならご愛敬といったところ。そしておそらく、叫ばなければ身体が強張ってしまうと思ったんだろう。

 だって、今の須和さんの一撃は、傍から見ていた私たちですら、始終を目で追うことができなかったのだから。

「気に食わねぇ」

 中川先輩がボソリとつぶやく。審判のジャッジに不満があるわけじゃなく、須和さんの実力を認めるしかないことに対してといった様子だった。


 竜胆ちゃんと須和さんが開始線へもどり、すぐに二本目が始まる。審判の試合再開の掛け声と共に、再び竜胆ちゃんが須和さんを攻めたてた。

 カウンター主体の須和さんに先制されてしまった場合、たいていの選手は委縮して、慎重になる。不用意に打ち込めば、また簡単に応じられてしまいそうだから。だから、当然の対策としてじっくりと間合いをはかるようになる、先ほどの安孫子先輩が得意としていたような剣道に。

 だというのに、思い切りのいい竜胆ちゃんはその逆を行った。これは練習試合だから、「負けたら終わり」というプレッシャーがないせいかもしれない。だけど私には、意地でも自分の剣道で勝つんだっていう、竜胆ちゃんのプライドというか、挑戦心のようなものが感じられた。

「あの子、まだギア上がるんだ。底なしの体力かよ」

 安孫子先輩が、驚きと感心の入り混じった声でつぶやく。その評価に応えるように、竜胆ちゃんの打ち込み速度がさらに上がって行く。これじゃあ、本当に掛かり稽古だ。

 掛かり稽古っていうのは、ほとんど棒立ちの相手に、一定時間の間休む間もなく打ち込むっていう、心拍トレーニングみたいな練習だ。たいてい、試合前の練習でウォームアップのために行ったりするけど……それを試合でやっちゃうっていうのは、聞いたことがない。というか、何やってんだって監督やコーチに怒られるからやらない。

 なぜやらないかって理由を考えたら、掛かり稽古はとにかく心拍数を上げることが目的であるぶん、一打一打の気持ちが散漫になって、一本に値する有効打を放てないから。


 剣道は〝気剣体の一致〟が認められて、初めて一本――得点となる。


 気――十分な気合を発しているか。

 剣――竹刀を正しく扱えているか。

 体――的確な身体捌きができているか。


 つまるところ「誰が見ても、今のはキマった!」と感動できるような一打であれば、得点となるわけだ。こが世間様から「勝敗基準が曖昧な競技である」と評される原因であり、その一方で試合結果や審判のジャッジに不服を持つことが少ない理由でもある。見事な一本を、審判も、選手本人たちも、みんなが認め合うことで成り立つ。それがこの競技の一番の特徴だと思う。

 要するに、掛かり稽古みたいなことをやっていたら、疲れて気合は弱くなるわ、竹刀の扱いは雑になるわ、姿勢は崩れるわで、とてもじゃないけど一本にならない。

 〝普通〟の人ならそう。

 だけど、竜胆ちゃんの技は至極丁寧で、力強く、そして覇気に満ちていた。圧倒されるっていうのは、こういうことを言うんだろうか。気剣体の高いレベルで打ち込めるなら、掛かり稽古じみた絶え間のない連続攻撃は脅威でしかない。

 ちなみに〝気剣体の一致〟は、昇段審査の試験で必ずと言って良いほど出題されるので、学生剣士は誰もが勉強して理解する概念だ。


 けど……それもまた、相手が〝普通〟の選手ならと言う話だ。

 今、竜胆ちゃんが立ち向かっているのは全中日本一の須和黒江だもの。防戦にこそなっているものの、猛攻をしのぐ姿に焦りはない。

「こいつは、もしかすれば、もしかするんじゃないか?」

 中川先輩がどこか愉し気に――完全に観戦モードで語るが、私は頷くことができなかった。そうじゃない。ダメだよ竜胆ちゃん。須和黒江に勝つために必要なのは〝疾さ〟じゃない。だって、疾さの勝負なら――

「コテあり!」

 審判の旗が上がり、勝敗が決する。勝負は一瞬。見事に試合を決めた須和さんは、涼しい顔で竹刀を収めて、対戦相手に一礼した。

「届かなかったぁ!」

 コート外で面を外した竜胆ちゃんは、息を弾ませながら悔しそうに叫んだ。あれだけ動いて、まだ叫べるだけの耐力が残っているのが恐ろしい。高一でこれだけのフィジカルを持っているのなら、まさに逸材だ。

「竜胆ちゃん、惜しかったね」

「次はもっと疾くする。あたしの武器は、それしかないからさ」

 竜胆ちゃんは笑顔で答えてくれたけれど、私の労いは、試合を終えたばかりの選手に対する社交辞令みたいなものだった。竜胆ちゃんが〝疾さ〟で勝負を選んだ時点で、負けるって分かってしまったから。

 〝疾さ〟では、須和黒江に勝てない。だって、カウンター剣道は「先に動いた相手よりも先に打って勝つ」ものだから。何を言ってるのかよく分からないと思うけど、事実、そういうものなんだ。

 こういうの〝後の先〟って言うんだっけ……なんか違う気がするけど、分かりやすいからそういうことにしておく。対する竜胆ちゃんは「先に動いて先に打つ」という〝先の先〟で勝ちに行った。それ自体は良いのだけれど、相手が悪かった。


 ――カウンター剣道で日本一を取った須和黒江は〝日本一疾い剣士〟なんだ。


「ナイスファイト。でもダメだったかぁ……ここは諦めるしかないかなぁ」

 同じく竜胆ちゃんをねぎらった安孫子先輩は、次の瞬間にはがっくり項垂れて恨めしそうに須和さんを見た。感情を押し殺すみたいにぐっと顔をしかめて、やがてため息交じりに両手をすいっと振り上げる。ちょうど、釣った魚をリリースするみたいに。

「気が変わったらいつでも待ってるから! 高校生活楽しんで!」

 言葉は未練たらたらだけど、流石に無理に入部させるほど、先輩も鬼ではないようだ。勝負の結果は結果だしというのもあると思うけど……でも私は、ほとんど無理矢理だったよね。この待遇の差はなんだろう。やっぱり日本一かどうか?

「いえ、まだです」

 ところが須和さんは、面を外すことなく首を横に振った。宣言通りに部員全員をなぎ倒したはずのに、何を言ってるんだ。先輩たちも私同様に、ぽかんとしながら彼女を見つめる。

「確かに部長と、あともうひとりが今日来てないけど、いつ来るか分からないよ? それに、そろそろ顧問が来るからタイムアップ――」

「違います」

 安孫子先輩の言葉を遮って、須和さんがじっと中川先輩を見つめる。

「……んだよ、俺はやらねーつったろ。てめーには興味なし」

「違います」

「あぁ?」

 須和さんが再び首を振り、中川先輩はキレ気味に返す。だけど、そのやり取りで理解してしまった。彼女が見ていたのは中川先輩じゃなくて――その向こうにいる、私のことだ。

「え……いや……」

 戸惑いがそのまま言葉になってこぼれた。やらないよ、私。だってもう剣道はやめたんだし……それに、今の私が彼女と競い合えるなんて、これっぽっちも思えない。竜胆ちゃんでさえああだったのに、私なんて――

「鈴音ちゃんお願い! 今日だけで良いから! あともう、選手やらなくていいから!」

 安孫子先輩にぎゅっと手を握られてしまった。完全に、藁にも縋る神頼み。私は、今度こそハッキリと首を横に振る。

「む、むりむり! むりです! それに今日、道着も防具も持ってきてないですし……」

「授業用のがあるから! ちょっとかび臭いけど!」

 そうだよね……どこの部にも、そういう予備はあるものだから、そんな気はしていたけど。どうやって断ろう。どうやれば、断れるんだろう。

「確かに、全国経験あるならウチらの中じゃ一番可能性あるッスよね。てか、部員全員ひっくるめても、最高戦績じゃないッスか」

 熊谷先輩、そんなこと言わないでくださいよ。三年前と今とじゃ、何もかも違うのに。中学で剣道始めたはずの竜胆ちゃんが、これだけの試合をできるようになるくらいに長い時間が経っているんだ。

「戦わないの?」

 須和さんの短い一声が、ザクリと胸に突き刺さる。戦いたくない。勝てるわけがないから。だけど、心のどこかでは同じくらいに――

「戦わないの?」

 私が何も言い返さないものだから、彼女は繰り返し尋ねる。悪気があったり、返事を強いてるわけじゃなく、面越しで聞こえなかったとでも思ったんだろう。そんな無邪気な言葉を、無表情でかけられたら、いろいろと「やらない理由」を考えていたのが馬鹿みたいに思えてくる。

「……やる」

「おお!」

 先輩たちが湧きたつ。竜胆ちゃんも、どこか期待するような目で私のことを見つめる。

 期待されているとこ悪いけど、この部のために戦うつもりは一切ない。これはきっとチャンスなんだ。中学校三年間、彼女のことを追い続けて、だけど再び出会うことができなかった私の元に訪れた、最初で最後のチャンスだから。

 

 須和黒江に勝つため〝だけ〟にやってきた、中学三年間の剣道生活。

 一度も活かされることがなかった研鑽を、今ここで試したい。

 そして、きっと須和さんは、私の努力なんて些細なことみたいに越えてきて、当たり前のように勝つんだ。

 その時私は、今度こそ何の未練もなく、剣道から離れられるのだと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る