ブラックスワン
スマホを取り出してどこかに連絡を取った前園さんは、再び大きなあくびをひとつ溢すと、今度こそ机に突っ伏して、動かなくなってしまった。
「えっと……それで、須和……さんのクラスってどこなのかな?」
問いかけるが反応がない。本当に居眠りしてしまったんだろうか。
「もう放課後だし、早くしないと須和さん帰っちゃうかなぁ……なんて」
「うっさい。ちょっと寝かしてよ」
「ごめんなさい」
思わず平謝りする。そりゃ、見れば分かるけどさ。でもたった今、情報くれるって意気投合したばっかりなのに、待ちぼうけを食らってしまって。そのテンションの落差の方は、サッパリ分からないよ。
「あ……あれかな、甘い物? 買ってきた方が良いのかな?」
「アキちゃんってマグロ? あ、スケベ用語じゃないほうね?」
「え、ど、どういう意味……?」
「動いてないと死ぬのかってこと。わかれ」
「そんなことないけど……てかアキちゃん」
「秋保でしょ? リンちゃんだとそっちと被るし」
「違わないけど……」
私は、助けを求めるように竜胆ちゃんのことを見た。竜胆ちゃんは、苦笑しながら肩をすくめる。ここは我慢って事なんだろう。実際、そうこうしている間に、机の上に投げっぱなしにしていた前園さんのスマホが震えた。
「よし、いくぞー」
前園さんは、うんと背伸びをしながら立ち上がる。そのまま私たちの返事も待たずに教室を出て行ってしまったので、慌ててその後を追うことになった。
「鈴音ちゃんがアキちゃんなら、あたしは何ちゃん?」
「えー? うーん……カベちゃん?」
廊下に出るなりそんなことを訊ねた竜胆ちゃんに、前園さんは話半分で答える。
「やっぱそうなるかぁ……クサはどこに行っても相手にされない可哀そうな子」
そう言えば〝りんりん〟の方が良いからって、〝くさりん〟は却下されたんだっけ。てか〝くさ〟かべ〝りん〟どうだから、竜胆ちゃんひとりで〝くさりん〟だし。私はいずこかへフェードアウトしてしまうような気がして、頑張って〝りんりん〟を維持するべきだなと心に決める。
でも、〝アキちゃん〟も可愛いね。地元じゃあだ名で呼び合うことはなかったから、ちょっと嬉しい。願わくは、そう呼んでくれる前園さんが、もうちょっと好意的だったら良いんだけど。
「そう言えば、奢るっていつ奢ればいいのかな?」
「対価は達成報酬としてもらうのが常識だよ」
それはつまり、後で良いってことかな。ついさっきマグロ呼ばわりされたばっかりだし、腑に落ちた会話はそれ以上追求しないでおく。
「ここだわ」
やがて前園さんは、六組の前で足を止めた。開け放たれた入口から躊躇なく足を踏み入れると、中に居たひとりの女生徒に声をかける。
「おはよー」
「おはよーって、放課後じゃん」
「さっきまで寝てたから、おはよーでいいの。それで?」
実のない挨拶を短く交わした後、そう問いかけた前園さんに、六組の子は親指でクイッと教室の前の方を指さす。前園さんは視線で追ってから「あぁ」と納得したように頷くと、私たちに向かって、同じ席を顎で指示した。
「あ……」
いた。
本当にいた。
須和黒江。彼女は、あの頃の記憶と全く変わらないまま――いや、年月の分か、多少大人びた姿で座席に腰かけていた。
――綺麗な子。
第一印象――ではないけど、久しぶりに生で見た彼女は、やっぱり綺麗だった。腰まで伸びたサラサラのストレートヘアーは、窓から差し込む春の陽気を受けて、美しい艶を纏っている。そこから覗く横顔は、どこか深窓の令嬢を思わせるような気品に溢れていた。
「じゃ、イチカは帰るから。ガンバレー」
「あ、ありがとう。前園さん」
全く心のこもってない声援を送りながら、前園さんは教室を出て行った。彼女の背中を見送ってから、私はもう一度、須和さんの方へ視線を向ける。
本当に居ちゃったよ……噂なら噂のままで済めば良かったのに。なんて声をかけよう。久しぶり、はなんか馴れ馴れしいよね。かといって初めまして、でもないし。私のこと覚えてる、はちょっと自意識過剰すぎるかな。むしろ、知らないって言われた時のダメージがでかそう。
「黒江~! 探したよ! ほんとに南高入ってたんだ?」
手をこまねいている私をよそに、竜胆ちゃんが果敢に第一声を浴びせていた。流石です。なんとなく、全くの初対面ではないんだろうなっていうのは察しているけど、それでも入学したばかりのこの時期に、他クラスに乗り込んでの第一声がそれとは恐れ入る。
「日下部さん?」
須和さんが顔を上げると、頬にかかっていた髪の毛が、さらさらと胸元へ零れ落ちた。動きのひとつひとつが、なんて絵になる子なんだろう。ずるい。
「いつになったら竜胆って呼んでくれるの? せっかく同級生になったんだしさ」
「日下部さんも、ここだったんだ」
「うん、あたしの要望は聞く耳なしと」
頑なに呼び方を変えなかった彼女に、流石の竜胆ちゃんもたじたじだった。
……いやいや、私は何を傍観者になっているんだ。
せっかく竜胆ちゃんが作ってくれた突破口だもの。飛び込まなくちゃ。
「あ、あの、須和さん!」
とりあえず、名前を呼ぶのが最初の一歩。一度声を出してしまえば、多少は緊張がほぐれる。試合開始直後に放つ、気合の第一声が大事なのと一緒だ。当然、須和さんの双眸が私を捉える。わずかに臆しかけたけど、ここは空気に飲まれず、どうにかこうにかもがくことにした。
「久しぶり。でも、こうして会うのは初めまして。わ、私のこと覚えてる?」
とにかく何か言わなくちゃと思って口を開いたら、さっき考えていた言葉が順番に全部あふれ出た。うわ、考えられる上でサイアクの流れ。須和さんも、「何言ってんだこいつ」って顔でキョトンとしてるよ。
かと思えば、彼女は天井を見上げ、それから手元を見下ろし、一度だけ窓の外にアンニュイな視線を送ると、ポンと両の手を打った。
「岡村さん」
「違います」
緊張と、自己嫌悪と、悔しさと、なんかいろんな感情がごちゃ混ぜになって涙が出そうだった。
「秋保だよ……覚えてないよね。全国大会の……しかも一回戦でボコボコにした相手のことなんて」
「えっ、鈴音ちゃんが敗けたのって黒江だったんだ」
竜胆ちゃんが驚いたような声をあげる。そう言えば、それも話してなかったんだっけ。まあいいよ、どうせそのうち話すつもりだったし。須和黒江が学校生活に絡んできてしまった次点で、いつかは話さざるを得ない情報だ。
須和さんも、怪訝な表情を浮かべながら、私の顔をまじまじと見た。私、そんなに印象が薄い顔してるかな。確かに面金の向こうに覗く表情と、実際に見たのとでは、全然印象変わることってよくあるけど……あの時、素顔同士でも会ってるよね。
不意に、須和さんが席から立ちあがった。そのまま無言で距離を詰めてくるので、私は流石に後ずさる。あの日、ほとんど同じくらいだった身長は、今は私の方がやや見下ろすくらいになっていた。
「あの、思い出せないなら無理しなくても――ひゃわっ!?」
突然、お腹がすーすーした。須和さんが、私の上着をまくり上げたのだ。
いや、厳密にはまくり上げたんじゃなくて、引っ張り上げたというか……小学生の男の子がふざけてよくやる「ジャミラ」みたいな感じで、おもむろにセーラーの襟を私の頭頂部にひっかけた。状況が全く飲み込めない私は、変な悲鳴をあげたまま、すっかり動けなくなってしまった。ただお腹がつめたくて、耳の後ろだけが熱かった。
「そうだ、秋保さん。全国の一回戦でボコボコにした。背、伸びた?」
「さっきそう言ったよぉ!」
今度こそ涙目になりながら、慌ててセーラー服を正す。今のは何の確認だったの。説明を求めても答えてくれなさそうだけど、聞く権利くらいはあるよね。
「あ、ああー、もしかして黒江、顔のここの部分で判断してる?」
何やら理解を得たらしい竜胆ちゃんが、両手で大きな丸を作って、そのまま私の顔の輪郭に当てた。ちょうど髪の毛とか耳とか、隠れるみたいに。
そこまでされてやっと、突然のセクハラの意図を理解する。人のこと、面をつけて見えてる範囲の部分で記憶してるってこと?
だからジャミラにして、顔の輪郭隠したの?
「そうならそうって言ってくれたらいいのに!」
今みたいに手で隠して貰うとかさ、他にもタオルとか手ぬぐいでほっかむりにするとかさ、いろいろあるじゃん!?
私、おへその見せ損じゃん!?
「何か用?」
当の本人は、私のことなんてお構いなしに首をかしげる。なけなしの勇気をすっかり蹴散らされてしまった私は、力なく竜胆ちゃんの肩を叩いた。
「ごめん……私、このメンタルじゃ言えない」
「ご、ご愁傷さま」
竜胆ちゃんは元気づけるように、肩に置かれた私の手をぽんぽんと叩いてくれた。それから代わりに、須和さんのことを見る。
「黒江、もちろん剣道部に入るよね? 先輩が『須和黒江をつれてこーい!』ってうるさくってさ」
「やだ」
「うんうん、当然だよね。じゃあ、今から一緒に道場へ……って、え?」
完全にノリツッコミのタイミングで、竜胆ちゃんが目を見開く。私も、須和さんの言葉がほとんど理解できなくって、同じように目をぱちくりさせて彼女を見つめる。
「やだ……って?」
「剣道部には入らない」
聞き返す竜胆ちゃんへ、須和さんはトドメを刺すように、改めてそう宣言した。
「な、なんで?」
すっかり気力を失っていたはずなのに、彼女の爆弾発言を前にして、思わず声が漏れた。
「なんでって言われても、もう辞めたから」
「どうして? だって、全国で一番強いのに――」
「だから辞めたの」
なんで……訳が分からない。どうして一番強いと辞めるの?
強くなれなくって辞めた人間がここにいるのに。
なのに、なんで〝持ってる人〟が辞めちゃうの?
「ふたりは剣道を続けるの?」
「あ、うん。仮だけど、入部宣言もしてきたし」
「そう。日下部さんならきっと、二年後には全国に行ける」
「それは、誉め言葉ってことでいいのかな?」
流石の竜胆ちゃんも混乱しているらしく、笑ってんだか泣いてんだかよく分からない顔で頷く。次いで、須和さんの視線が私の方を見た。あなたはどう。物言わず、そう問いかけているようだった。
「私は……私も、高校から選手はやめて、マネージャーをしようかなって」
何を言っても見透かされるような気がして、私は素直にそう答えた。すると、一瞬だけ彼女の表情が険しくなったような気がした。ぞくりと、悪寒が背中を伝う。
だけどほんとに一瞬のことで、瞬きひとつの間に、須和さんはもとのアンニュイな表情に戻っていた。
「話は終わり? 私はもう帰るから」
そう言って鞄を持ち上げた彼女を止める言葉を、今の私たちは持ち合わせていなかった。
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