はじめの一歩
荷解きしたばかりの全身鏡を前に、セーラー服のタイを結ぶ。なかなかいい感じに纏まらなくて、結んでは解いてをかれこれ三〇分ほど繰り返している。
中学校がブレザーで飽きたからという理由でセーラー服に憧れはあったけれど、こればかりは慣れるのに時間がかかりそうだった。タイじゃなくてスカーフのところにすればよかったかな。夏服はスカーフだったから二度おいしいじゃんなんて、安直な考えをしていた入学前の自分に喝を入れたい。ブレザーのワンタッチで装着できるリボンが、既に恋しかった。
恋しいという意味では、既に故郷の空気がやや恋しい。ついこの間まで住んでいた北海道の北斗市は、函館湾から津軽海峡を望める港町だった。あの町と比べてしまうと、この春から暮していく山形の中心街は、四方八方を山に囲まれた陸の孤島だ。
県内に海はあるけれど、ここからじゃ車で一時間以上はかかるそうだし、電車の接続も悪い。車を持っていない高校生にとっては、ほとんど旅行感覚の距離だ。潮風の代わりに、新緑の若々しい香りに慣れて行くしかないんだろう。そして同じ移動時間で、しかも電車一本で、お隣は宮城県の仙台市街に出れると考えたら、年頃の女の子にとってはそっちの方が魅力的だった。
北海道なら札幌があるじゃんなんて、内地の子にはよく言われるけど、北斗市はほぼ函館だ。そして函館から札幌はというと、特急で四時間以上かかる距離である。北海道はでっかいどう。
そんなこんなで――父親の転勤に祖母の体調不良が重なって、両親と私の三人、一家総出でこの地に引っ越して来たのが三月末のこと。まだまだ慣れない新天地で、今日は高校の入学式が待っていた。
「鈴音、準備できた? 遅れるわよ!」
「まって、あとちょっと!」
ドアの向こうから、母親の急かす声が響く。私は、ようやく妥協点に収まったタイに見切りをつけると、改めて鏡に向かい、身体を揺らして着こなしを確認する。うん、やっぱりセーラーは可愛い。目論見通り、中学で急激に伸びた身長は、モデル体型とまでは言わないけど、何を着てもそれなりにサマになる。丈夫な身体に育ててくれた両親には、一生分の感謝を捧げよう。
時間が無いのは分かっているけど、足元に放り投げていたスマホを取り上げて、手早く自撮りを一枚。撮り終った写真を、地元の親友に送った。
――入学式行ってくる!
――セーラー可愛い!
――こっちも今、寮の部屋出るとこ
――荷解き終わらない(TT)
泣き言と一緒に、段ボールに腰かけて自撮りした制服姿の写真が送られてくる。
「ブレザーはブレザーで、やっぱ可愛いね」
つい先週お別れしたばっかりだけど、ちょっぴり大人になった気がする友人の姿にホッコリする。
「鈴音~!」
「いくって~!」
また母親の声が響いて、私もスクールバッグ片手に部屋を後にする……かと思ったら、急いだものだから、散らかしたまんまになっていた段ボールに足の指先をぶつけてしまった。
「いったぁ!」
脳天まで突き抜ける痛みに耐えつつ、半開きの段ボールで溢れる部屋の惨状を見渡す。荷解きが終わらないのは、私も同じだった。
家を出ると、両親が玄関先につけた車の中で待っていた。運転は、唯一土地勘のある父親だが、彼は私たちを学校まで送ってくれたらそのまま仕事へ行くらしい。娘の入学式くらい休めばいいのにと思うところもあるけど、仕事のために越して来たんだし、そこは大人になって堪えることにした。
「何にそんな時間かかってたの?」
「タイが決まらなくて。あと、あやめも今日入学式なんだって」
私は、免罪符代わりにさっきの写真を母親に見せる。ちょい『おこ』モードだった母親も、その写真を見てやんわり頬を緩ませた。作戦成功だ。
「あやめちゃん、寮なんでしょ? 鈴音も寮だったら道内に残っても良かったのに」
「あやめはスポーツ推薦みたいなもんだから……私はもう、剣道続けるつもりないし」
「そっか」
母親は短く答えて、それ以上突っ込むようなことはしなかった。多感な年頃の娘の言葉に、下手な詮索は辞めることにしたんだろう。そんなに気を遣わなくったっていいのにと思うけど、詮索されたらされたで、実際のところ嫌な気分にはなるんだろうなと、自分でも思う。
「せっかくの新生活なんだから、鈴音も何か新しいことを始めるのもいいわね」
「そういうこと。部活のオリエンテーション楽しみだな」
「部活も良いけど、勉強もね。せっかく進学校に入れたんだから」
「分かってるよ。引っ越しでばたばたする中でも、春休み課題はちゃんとやったんだから」
勉強は嫌いじゃない。十分な結果が伴うかと言われたら、また別の話だけれど。だけど中学のころは部活中心で、他のことはお座なりになってしまったから、高校は学校生活らしいことをいっぱいするんだと心に決めていた。勉強も、部活も、イベントも、恋――はどうだろ。女子校だし、あんまり期待しない方が良いのかも。
とにかく、中学校三年間を取り戻すみたいに、やりたいことは何でもやろう。そして、今日から通う高校は、それができる場所だと信じている。
「新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。あこや南高校の学び舎で皆さんと共に過ごせることを、在校生一同、喜ばしく思います」
新入生と保護者一同が校内の講堂に集められ、入学式はつつがなく進行した。在校生代表挨拶として登壇した生徒会長だという女生徒の、柔和な声がホール内に響く。私にとっては二個上の先輩となるが、小さくて可愛らしい感じの人だった。ウェーブがかった長い髪の毛を、一本のおさげにまとめているのが、なんだかお嬢様っぽくもあり、小柄な体型を置いておいても彼女を大人びて見せているように感じた。
「学校生活で困ったことがあってもなくても、役員一同、昇降口入ってすぐ左手、放送室の向かいにある生徒会室で待っています。役員も募集中ですので、学校生活を影から支え、盛り上げて行きたい方は、ぜひお待ちしています」
ちゃっかりと勧誘の言葉も添えて、生徒会長は拍手の中で降壇していった。生徒会かぁ……今まで考えたこともなかったけどアリかもしれない。学園ものの漫画じゃ、学校生活の花形だし。主人公の敵役だったりすることも多いけど。
それに、「学校生活を盛り上げる」っていうのが、今の私にとってはすごく魅力的な響きだった。会長さんもいい雰囲気の人だったし。名前を聞き流しちゃったのがどうにも悔やまれた。
入学式が終わって、保護者はそのまま講堂に残って保護者会。新入生は、クラス分けを確認した後、それぞれのクラスで担任との顔合わせとなった。
「三組か」
秋保鈴音(あきうりんね)。出席番号の三番以内には収まるこの名前のおかげで、自分のクラスを探すのに苦労はしなかった。ちなみに番号は一番。ついでに同じクラスの子たちの名前を眺めてみるが、当然ながら知っている名前はひとつもない。周りでは、同中同士なのか、友人同士でクラス分けの内容に一喜一憂している声があちこちから響く。このうえないアウェイ感。
いやいや、落ち込んでいる場合じゃない。学校生活を楽しむには、友達作りが何よりも大事だ。受験の時点で、知り合いが居ないことはそもそも覚悟しているんだから。これからこれから。まずは、そうだな、隣の席の子と仲良くなろう。なんなら、その子と同中の面子とか一緒だったらいいな。一気に友達の輪が広がりそうだ。
なんていう甘い期待は、あっという間に砕け散った。ホームルームが始まった時、隣は空席だった。
ええー、なんで?
入学式なのに風邪とか?
それはそれでお大事にだけど。
出席番号一番に収まった私の席は、廊下側一番前の角の席。左と後ろという、二席しかない「お隣さん」のうち、既に半分が空振りという惨状である。流石に心が折れかけたけど、いやいや、まだまだへこたれちゃいられない。担任の先生の話を横目に聞き流しながら、肩越しにこっそり後ろの席を覗き見る。
寝ている。
組んだ腕の中に顔を収めて、机につっぷして、静かな寝息を立てている。
え、ほんの数分前に教室に来たばっかりだよね?
それで爆睡する?
空席よりはマシだけれど……後ろの子との初対面は、艶やかなショートボブから覗くつむじを記憶に残すだけとなった。
「――すみません! 遅刻しました!」
不意に、教室の扉が勢いよく開け放たれて、生徒がひとり飛び込んで来た。当然、教室中のみんなの視線が一斉に彼女を向いて、ホームルームも一時中断する。
「出席番号……ええと……七番だったっけ? 日下部竜胆(くさかべりんどう)です! 学校間違えて遅くなりました!」
日下部と名乗った彼女の挨拶は、ハキハキと教室中によく響き渡った。勢いであっけにとられてしまったけど、最後にすごいこと言ってたような気がするのは気のせいだろうか。学校間違えたって?
「日下部さん、話は聞いているので大丈夫ですよ。長旅でお疲れでしょうが、とりあえず席へ」
「あ、はい。そうですね。すみません」
照れたように苦笑して、彼女は足早に席につく。ここまでくればお膳立てみたいなもので、当然というか、当たり前というか、彼女が腰を下ろしたのは私の隣の空席だった。
よっぽど急いで来たのか、息を切らせながらすっかり汗だくの彼女は、安心したようにひと息つくと、自分の鞄の中身を漁り始める。そこから手ぬぐいを引っ張りだして、額からこぼれる汗を丁寧に拭った。
隣は入学式から遅刻で、後ろは爆睡。なんだろう、私の周りだけ、群を抜いて自由すぎる。こんな調子で高校生活のはじめの一歩をちゃんと踏み出せるのか、心底不安でしかなかった。
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