1章 はじめの一歩

プロローグ~芽吹き~

 剣先から溢れているのは、紛れもなく殺気だった。


 重厚な防具に身を包んでいるはずなのに、まるごと叩ききられてしまうかのような気迫。そんなものを前にしたら、身に着けているものなんてただの拘束具でしかなくって、さっさと脱ぎ捨てて試合場から逃げ出したい気分だった。


 しかし、それは許されない。

 試合時間が過ぎるか、どちらかが二本先取するまで、およそ十メートル四方のコートから外へ出るわけにはいかない。もっとも、場外へ出ても相手の点数になるだけなんだけど、それは剣士として、もっとも恥ずべき負け方だと、小さい頃に初めて剣道を教えてくれた先生が言っていた。

 その言葉は、先生のもとを卒業して部活に入ってからも、ずっと私の中に芯として残っている。


――負けるなら、堂々と真正面からぶつかり合え。


 そのおかげもあってか、私の剣道人生の中で、場外による得点を相手に与えたことは一度たりともない。ただの一度も。それだけは、唯一胸を張って言えることだ。

 他にも、担ぎ技の仕掛け方が上手いとか、引き技の思い切りがいいとか、先生や仲間から褒められた「いいところ」が沢山あったはずなんだけど、目の前で試合っている彼女の前にして、すべてが霞んでしまっていた。


 試合開始から二分ほど。私はもう勝ち筋が見えなくなっていた。どこに打っても負ける気しかしない。それが純然たる力の差だと試合中に気づけるほど、脳みそは回転していない。酸欠だ。ぜーぜーと、喉の奥がぺったり張り付いてしまいそうなほど、息があがっていた。


 仕掛けたら、必ず返される。それだけははっきりと理解していた。


 どこに打ち込んでも相手に掻い潜られて、がら空きになった私の身体に打ち込まれる。だから動けない。

 これが団体戦だったら、諦めて、残りの時間をしのいで引き分けに持ち込むのも作戦だ。消極的ではあるけれど、その引き分けが勝敗を分けることもある。

 でも、あいにくこれは個人戦の舞台。トーナメント戦に引き分けはない。どちらかが先取するまで延長戦が続く。決着がつくまで何度でも。何度でも。この地獄のような時間は続く。

 

 いっそ、楽になってしまおうか。

 適当にどこかに打ち込めば、相手は綺麗に返しの一本を取ってくれるだろう。まだ一回戦だけど、この舞台に立っているだけでも十分頑張ったよ。これが地区予選の一回戦だったら、ふざけんなって気持ちで、いくらかは悪あがきをするかもしれないけど、ここは全国の舞台だ。日本一を目指す剣士たちがひしめき合う、頂点の世界だ。足を踏み入れただけでも、会場の空気を吸えただけでも、この夏一番の経験と言っていい。

 そして幸いなことに、一年生である私にとってはこれが、競技人生最後のチャンスではないということ。もう二年ある。その間に、私はもっと強くなることができる。身体だって大きくなると思うし、身長が伸びれば間合いも伸びる。

 だから、これは経験。これからの競技生活を充実させるための、最初の一歩。

 それが、全国大会一回戦負けなら、汚点ではなくむしろ美点――


 すっかり脳みそが自己肯定モードに切り替わろうとしていたところで、試合前のコーチとの会話が過った。


――初戦は同じ一年生だ。チャンスはあるぞ。気持ちで負けずに仕掛けていけ。


 そうだった。この子も一年生なんだ。

 じゃあ、なに?

 私はここで終わって、経験になって終わりだけど、彼女の夏はまだ続くの?

 私は悔しさをバネに会場を後にする中で、彼女は全国の猛者たちと剣を交え続けるの?

 

 それって、なんかずるい。

 

 同じ経験なら、一回戦負けよりは、もっと先に進んだほうがいいに決まっている。

 もっと強い人たちと戦って、それこそ今の三年生――優勝候補たちと剣を交えて、たぶん負けちゃうと思うけど、真っ向から技を受けて、学んで。深く考えなくたって、その方がいいに決まっている。


 勝たなきゃ。

 倒さなくっちゃ。

 

 先生の言っていた通り、同じ一年生だ。チャンスはある。仕掛けて行こう。

 仕掛けて、崩して、真っ向から一本を取る。それが私の剣道じゃないか。

 目前の子は、典型的な、応じ技のセンスが抜群に良いタイプ。だったら担ぎ技でリズムをずらしていこう。

 できることも、試してないことも、まだある。それなのに終わっていられない。こんな、一回戦なんかで舞台を降りるわけにはいかない。

 殺気を振り払うように、面の向こうから相手を睨みつける。気合で――気持ちで負けたら終わりだ。身体の震えを吹き飛ばすみたいに、おもいっきり声を張り上げた。


 不思議と相手の顔が良く見えた。ううん、むしろ、これまでずっと私は相手のことを見ていなかった。殺気を放つ切っ先ばかりを気にして、次はどう動くのか、どうやってしのぐか、そればっかりで頭がいっぱいだった。


――綺麗な顔。


 それが第一印象だ。試合中に何言ってんだって話だけど、思ったものは仕方がない。単純に顔立ちが整っているってのもあるんだろうけど、今この場では私のことしか見えていないんじゃないかってくらい、集中して、研ぎ澄まされた視線。その切れ長の眼に、心を奪われそうだった。

 事実、コートの上には私たちしかいない。まあ、審判が三人いるけれど、それは数には入れない。

 観客も、他のコートの試合も、視界から放り出す。十かけ十の試合場だけ世界から切り取られて、その中にふたりっきり。やっていることが戦いじゃなければ、何やらドラマが始まりそうだ。

 だけど、今は試合中だから。ドラマは竹刀が織りなす。


 私の闘志が戻ったせいか、彼女のまつげがぴくりと揺れる。それまで、どこかつまらなそうにしていた表情に、にやりと、引きつるような笑みが浮かんだ。

 なにそれ、怖い。

 でも、戦うって決めたから。

 〝今〟の私を、ここで絞り出す。全霊をぶつけて、目の前の子を倒す。

 この会場に花を咲かせるのは、私だ――




「――よく諦めずに戦ったな」

 コートの外で面を外すと、すかさずコーチが試合の指導を行ってくれた。

「応じ技が上手い相手に、リズムをずらしていったのは良い判断だった。確実に、あそこで流れが変わった」

「はい」

「劣勢でも、相手の出方を考えて、やるべきことをやる。それが〝諦めない〟ということだ。本当によくやった」

「ありがとうございます」

 外した面に、汗を拭いた手ぬぐいと小手を詰め込んで、竹刀と一緒に抱える。ちょうど次の試合待ちの選手がやってきたので、入れ替わるように場所を明け渡した。

 飲み物が欲しい。喉がからからだ。とりあえず試合場を出て、控室に戻ろう。すっかり乳酸が溜まりきったのか、脚が異様に重かった。

「あっ」

 出入口のところで会場に向かって一礼すると、顔をあげたところで他校の選手と目が合った。思わず声がこぼれたのは、その姿に見覚えがあったから。

 面を外した彼女は、コート上と同様に、いや、それ以上に綺麗だった。ひと試合終えて紅潮した頬が、色気を増しているんだろうか。これで同い年だなんて、やっぱりずるい。

 彼女も私のことに気づいたのか、互いに視線を交したまま動けなくなってしまう。なにせ、たった今まで竹刀を向け合っていたんだから、どこか牽制しあう空気になってしまうのも仕方がないのかもしれない。

 膠着状態を解くように、先に動きを見せたのは彼女の方だった。身体をふっと弛緩させて、うっすらと笑みを浮かべた――かと思えば、〝うっすら〟を通り越して、おもいっきり歯を見せた満面の笑みを覗かせる。


「私の勝ち」


 言いながらVサインまで掲げて見せた彼女は、どこか大人びて見えたそれまでの印象とはうってかわって、初めての試合で勝利した子供みたいに無邪気なものだった。

 不意にこみあげた熱い吐息をぐっと飲み込んで、彼女に向かって無言で頭を下げた。それから頭も上げ切らないうちに踵を返して、逃げ出すように会場を後にした。

 彼女に背を向けてから、箍が外れたように涙があふれだした。


 悔しい。


 悔しい。


 悔しい悔しい悔しい悔しい!


 次は絶対に私が勝つ!

 技を返される前に畳みかけて、私の剣道で勝つ!


 同じ一年生なんだもん、これから先の二年間、何度だって再戦の機会はある。

 全国大会ばかりじゃなくて、地方の錬成大会とか、いっそ玉竜旗でも。

 とにかく、リベンジの機会はまだまだある。

 私の競技人生は始まったばかりだ。これが芽吹き、まだまだ最初の一歩。


 こっから始まるんだ。

 もっと強くなれるんだ。


 そのためにも〝須和〟――垂ネームに縫い付けられた彼女の名前を、白星を勝ち取るその瞬間まで、私は生涯忘れないと誓った。

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