第15話【最前線】

 地鳴りのような行進が途切れることなく続く。

 革の防具を身に纏い、槍一本を持たされた死兵たちはこれから地獄の戦場へと向かおうとしていた。そこに悲哀はなく、無表情を炎天下が照らす。

 幾万の軍勢は山脈を越えていく。


「なあ帰れると思うか」

「……さあな、俺は期待していない」

「俺は帰って飯が食いたい」

「……喋るのはやめろ。疲れるだけだ」

「母ちゃんの、飯が食いたい」


 人族同盟が定めた最終防衛戦は三つの場所からなる。一つはこの帝国の国境を隔てる皇龍山脈で、人族の生存権を守るためには、必ず守護しなければならない最重要地点である。そのため帝国には総本部が設置され、各国の王や皇太子たちの外交と軍事の交渉場と化している。また避難していた者たちも多く、死兵が多い理由も口減らしのためであった。最大の食糧供給地点である王国から近いこともあってか、餓死者がもっとも少ない当事国である。

 二つ目はダングニル渓谷。ある地方を分断するように刻まれた大陸の傷は、多くの偉人たちによって歴史の表舞台に挙げられた。あるいは主戦場として南東と南西を巡る交戦地にもなった。それは連合軍相手でも変わりはなく、あの渓谷は深い境界線として進軍を足止めする堀と化している。

 最後にバーラル半島。年中を通して激しい海流と着陸が難易な岩礁がつづく。連合軍は移送するための船しか持ち得ない事情から、バーラル半島の海からの侵攻は諦めていた。幾度となく攻略しようと軍勢が仕向けられたが、激流の舞台と岸辺から放たれる拒絶の弾幕が半島の安寧を守っていた。これは唯一人族が勝利した地理的戦略の場である。そのため帝国戦線が崩壊すれば、いずれ人族がバーラルに閉じ込められることは半ば確定していた。

 しかし人族は決して一枚岩ではないことを忘れてはならない。皆が友愛を持っているわけではない。


「おい。もうじき日が暮れる。お前の好きな飯の時間だぞ。早く着いてこい」

「嫌だ。……なんで、こんなことに」

「うるさい。早く歩け」


 日が暮れる。行軍は足を止めて休息の時間へとはいった。山脈越えは三週間の時を要する。慣れた手つきで作業する兵士もいれば、木に寄りかかって死相を浮かべる兵士もいた。彼らは自分たちを平等に扱うことはない。数少ない食料は常に奪い合いのため、働くものが優先的に受け取る。どこかへ逃げようとする兵士たちは見張りの帝国騎士によって、魔術の的にされていた。彼らは何も自らが志願したわけではない。一家を背負って出兵していた。


「おい。食わないのか」

「食欲がないんだ」

「もう戦地は目の前だ。いい加減、諦めろ」

「諦めろってなんだよ。不味い飯を食って、地面に寝ることに、諦めなんてつくもんか」

「そうじゃない。無事に帰れることを期待して飯を食え。黙って食え。それしかできないだろう」


 まだ若い青年だった。彼の右腕には徴兵を示す赤い布が巻かれていた。焚き火が照らした顔は、すべての諦念と絶望を受け入れた暗い目があった。可哀想だとは思うが、明日はまたやってくるのだ。できることは夜を無事に過ごすだけである。


「おい! お前ら! さっきからうるさいんだよ」


 唐突にやってきたのは同じ班に並び歩いた中年であった。彼は青年から食料を奪い取ると、仲間とともに何度も殴り、腹や顔を蹴って踏んだ。


「俺らの頃はなあ。飯にも有りつけず、飢え死にが大量に出て苦い思いをしてんだ! 文句を言うくらいなら俺が食ってやるから今すぐ死ね!」


 青年は吐血して、身体のあちこちから血を流していた。彼は黙ったまま隣で見ることしかできず帝国騎士も止めることはなかった。生存競争はもうすでに始まっている。どうせ死ぬからこそ、生き残ったものは正義である。強いものが勝つのだ。


「治療する。待ってろ」

「……もう、嫌だ。殺してくれ」

「勝って家に帰れ。母ちゃんの飯を食うんだろ」

「母ちゃんは、もう、いない」


 布切れを巻く手が動かなくなった。青年はずっと魘されているのだ。死んだ母の温もりを思い出して死ぬ瞬間まで悪夢をみている。打撲まみれの身体と血の垂れる地面。生きれるだろうが、行軍について行けなければ見せしめに処刑されるだろう。


「そうか」

「俺は、理想郷で。母ちゃんと……」

「もういい。とっとと寝ろ」


 薬などない。治癒魔術などおとぎ話だ。彼はやってきた朝に大罪人として処刑された。したことはただ歩くのが遅く、秩序を乱しただけである。その悍ましい光景を見ないように彼は、遠くの影に隠れて時間が過ぎるのを待った。罵声や怒号が響き渡るなかで何も出来なかった自分を悔やんでいた。何より憤ったのは庇うことの出来なかった己である。


「あいつが罪人なわけ、あるものか」


 朝はやってくる。夜もやってくる。

 それが何度もつづいて戦地へと辿り着く。

 草一本も生えない枯れた大地があった。大量の屍と薄汚れた荒地を見て彼は悟った。

 きっと彼は、母に救われたのだ。この光景と恐ろしい残虐から救うために。


「徴兵は二年である。諸君らは最前線の部隊と合流して二年間の戦闘を実施する。このとき装備品や武器を回収したものには期間を短縮する。また大きな成果や敵軍の首領を獲得したものには特大の恩恵を与える。さあ、進め。仇敵はすぐそこにいる」


 骨だけが転がる大地には、まだ肉のある死体もあれば、骨が乱雑に組み合った団塊もあった。整えられた道をひたすら進んでいく。日に日に大罪人は増していき、同時に恩赦も増えていった。

 最前線にたどり着いたのは帝国の兵站基地を出発してから一月が経った頃であった。皆は痩せて、黒ずんだ頬で、無表情のまま闊歩していく。

 この世に奇跡などない。

 前線基地には夢や希望などなかった。


「――進め! 勝利のために!」


 ただ走る。盾を拾って、死んだ仲間を壁にして。

 エルフから乱射される魔術は夜の星が降ったように綺麗だった。ドワーフのつくる武器は人をレンガのように切ってみせる。なかでも一番恐ろしいのは魔族で、速いものもいれば、強いものもいた。

 特に長い紅色の髪をした女は化け物だった。

 一瞬の炎で全てを焼き尽くすのだ。


「……人族は、負けて当然だ」


 彼に特大の炎が迫ってくる。この熱と迫力をしれば感動的な演説も冷めてしまうだろう。なぜ自分は死ぬのだろうか。灼熱のなかで焦がれていく。

 皮膚と肉が溶けるなか最期の声がもれた。


「――死にたくない」

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