第14話【王子の世代】

 あの日。三人の給仕が殉死した。記録では事故扱いになっているが妙な雰囲気が流れる王城では、一部の関係者が事実を知って口を噤んだ。オルトロスは灰色の瞳で外を眺めていた。飛ぶ鳥たちのように王城を抜け出して、母に会いたかった。

 探し出すまで羽を動かす自信があった。


「オルトロス殿下。昼食の時間でございます」

「置いておけ」

「……失礼します」


 いつもの場所に食事を並べる。オルトロスは何時間かすると勝手に食べて、綺麗に食器を並べる。健康状態も悪くないことから侍女と執事たちは遠巻きから観察するに留め、食事を置くとすぐさま部屋を後にした。今日も野菜中心の料理だった。


「……味がしない」


 すべてのものが薄く感じる。空の青さも、雲の心地よさも、書斎の静謐さも、何もかもが水で薄まったワインのようだった。食事も味がなく、初めは食べるのに苦労したが、母を襲う大病を思えば、この程度の苦痛は耐えられた。耐えはしたが、時折襲ってくる急激な恐怖と悲哀で毎日泣いていた。


「泣き虫王子か」


 あれ以降に広まった噂である。毎夜泣いているせいで子供みたいだと王城で笑われている。たまに晴れた日には外の庭園を歩いたが、今では引きこもってばかりいる。外に出る時は、決まって早朝か夜である。その時間に抜け出して魔術や剣の練習をしていた。これは何か動機があったというよりも、ただの習慣であった。戦えて当然という父の言葉を受けて王子全員には魔術と剣を教えられた。当時は筋がいいと褒められはしたが、それが王子のなかだけだと気付いたのは十二も満たぬ時であった。

 修行の帰りに歩いていると見慣れぬ女性の後ろ姿があった。だが横顔を見て近づくことを決めた。


「……姉上、ですか」

「ええ。貴方の姉よ。オルトロス」


 シルフィーナの微笑みは花のようである。久しぶりの優しい笑みに、オルトロスは泣きそうになるのを必死に堪えた。まだ弟でいたくなかった。


「どうして、こんなところに?」

「それはこちらの台詞よ。貴方こそどうして?」

「私は、日課の修練です。無駄なことですが」

「……そう。私は無駄とは思わないけれど」


 ただ剣を振るだけの時間が、絶え間なく魔術を行使するだけの時間が無駄でないのなら、有益な時間とはなんだろうか。宰相を殺すことならば、と考えてオルトロスは咄嗟に口元を手で覆った。


「変化は少しずつやってくるものよ。唐突に訪れるのは奇跡。あなたが積み重ねているものはいつか来る奇跡に役に立つためにあるのよ、きっとね」


 そうして頭を撫でてくるシルフィーナに彼はたじたじであった。全く男になれていない。いつまでも泣き虫のままで、母や姉に依存してしまう。掌が厚くなっても、姉の優しさには敵わなかった。


「役に立つのでしょうか、私は」

「もうすでに立っているわよ」

「ええ? それは勘違いではなくて?」

「今日、顔を見れて良かった。あたしには家族がいることを思い出せた。ありがとうオルトロス」


 抱き締められたと分かるまで時間がかかった。温かい熱と柔らかい身体。成長した姉の優しさに呆然とした。姉がどんな表情をしていたのか分からなかったが、ついオルトロスは涙を流した。


「あら? どうしたの? 泣くなんて珍しい」

「うぅ……、……うっ!」


 声を抑えようとしても咄嗟に出てきた。なぜ泣いているのかオルトロスにも理解できなかった。唐突に涙が溢れてから制御できないのだ。感情が叫ぶように、大粒の涙があふれだした。


「ごめん、なさい。姉上」

「どうしたの? オルトロス」

「私は、従者を殺してしまいました!」

「……どうして?」

「私が、無知で馬鹿だったからです!」


 霞んだ目で顔を上げた。まだ身長は姉のほうが高かった。柔和な微笑みに涙が止まらなかった。


「誰に殺されたの?」

「私が、私が悪いんです!」

「宰相なのね?」

「……違います。私です」


 顔を詰め寄られて思わず背けた。あの悲劇が記憶から溢れないように宙を眺めた。月夜に照らされた月光草を見据えて、あの光景を消そうとした。


「私が悪いのです。無理やり母上に会おうとしたから道を誤ってしまった。これは神罰なのです」


 そう言った瞬間、乾いた音が響いた。

 涙目で見上げると姉は静かに手を上げていた。


「神罰などという言葉で片付けてはいけません。人の行いは全て人の意思によるものだと知りなさい」

「けれど、私は!」

「あなたは関係ないわ。全部宰相が悪いのよ」


 月光の下で淑女が怒りを背負っていた。立ち上がったのは果たして姉だったのだろうか。姉はあんなにも逞しく、立派だっただろうか。国王代理は嫌だと泣いていた日、一緒に家族全員で寝た。あまりの無配慮に貴族たちは怒り狂ったが、その御蔭で姉は代理を励むことはできた。だがここまで凛々しい女性を、オルトロスは見たことがなかった。


「罪は必ず背負わせます。あなたは、あなたが成すべきことをやりなさい」

「私には行く場所がありません」

「母上に会いに行くのでしょう」

「会えるのですか!? どうやって!」


 一本の光筋が差した気がした。あの宰相が止めてから、忘れようとした感情が湧いてくる。一度湧き出した感情は天高く昇って行きそうだ。


「学園に入学して、学者になりなさい」

「……学者? ですか?」

「たくさん学びなさい。たくさんの友人を得なさい。その力で、貴方の手で、母を治すのです」

「無理です! 私にはそんな力など」

「あります。貴方には努力の才能があるでしょう」


 厚い掌をシルフィーナは握った。誰よりも研鑽と努力に明け暮れた証である。たくさんの王族や貴族に会ってきた彼女だからこそ分かることがある。この手には正義と慈愛が宿っていると。


「私は努力しました。今度は貴方の番ですよ。誰も吠えないほどの騎士になりなさい」


 真摯な瞳が貫いた。吸い込みそうなほど澄んだ瞳がオルトロスの心に染み渡っていく。深呼吸をして悲しみを怒りに変えた。目的が手に届く範囲にあるような気がした。空すら飛んでみたいと思った。


「はい。姉上、私は母上に会いに行きます」

「そう。それでこそ私たちのオルトロスよ」


 果たして優しい手のひらの感触に、シルフィーナの慈愛に、どのような内心があったのかをオルトロスは知らなかった。自身が騎士の道を進むと決意した表情を、どのような目で見ていたかを彼は見なかった。シルフィーナはそのことに安堵して、自らが進むべき道を行くために月下を後にした。

 それから日々が過ぎていき――


「新入生代表。オルトロス・フィルベルティア!」


 王族の名を冠する学院がある。そこに相応しい人物は瞳に仄暗い怒りを携えて登壇した。王子の同年代には第二騎士団長の息子、宰相の孫、王国筆頭魔術師の娘など上位階級のものたちが連なっていた。なかでも許嫁である公爵令嬢ソフィアとは旧知のなかである。オルトロスは演説の最中に、新たに設けられた平民枠の塊にも視線を向けた。どこかみすぼらしい団体のなかで、唯一光っている人物がいた。

 金髪碧眼の天使は眠そうに目を擦っていた。


「……以上を挨拶とする」


 その美貌が脳裏から離れなかった。ソフィアからの挨拶を適当に済ませたオルトロスはあちこちを走り回った。時折、貴族と会いそうになると紳士に挨拶をして、角を曲がってから全速力で走った。

 名前だけでも知りたいと思った。心が高鳴って頭が熱い。落ち着こうにも静かにできない。


「――いた!」


 彼女は下位貴族の男子たちに囲まれていた。鬱陶しそうな目で見るばかりで、男たちを増長させている。周囲の庶民も間に入ろうとして同級生に止められている。オルトロスは聖杖を滑らせた。


「大丈夫か! そこの君!」


 貴族たちを足で踏みつけ。天使に手を伸ばした。彼女は眠たそうな目で見据えると、その手を取ってから口を開いた。


「やっつけてくれてありがとう。それじゃあ」

「待ってくれ!」


 彼女はやや不機嫌そうに顔を寄越した。


「名前を、教えてほし、くれないか」

「……フローラ」


 その神聖な声音と美しい名前を二度と忘れることはないだろう。フローラ。フローラ。フローラ。

 オルトロスは彼女を側室にすると決めた。

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