第13話【第三王子】


 この王国は腐敗しているのだろうか。

 第三王子オルトロスは窓を見ながら、鳥たちに問いかける。快晴の日も、雨の日も、雲が足早に流れていくときも同じように窓から外を眺めていた。それを邪魔するものはなく部屋には古い絵画と書籍だけがあった。


「坊ちゃま。夕餉の時間です」

「その言い方を止めるまで食べる気はない」

「はあ。駄々をこねないで下さいませ。殿下」


 オルトロスに仕える侍女や執事たちの顔は生まれたときから、あるいは物心付いたときから同じであった。日々変わることなく、鳥が飛ぶのと同じように彼らは世話をしてくれる。


「今日は肉料理か?」

「いいえ。野菜が主役にございます」

「姉上に伝えてくれ。もっと肉を寄越せと」

「坊ちゃま。我儘はよしてください」


 彼は舌打ちをして立ち上がった。勢い余ったせいで椅子まで地面を叩いた。そんなつもりではなかったのに臆病になる侍女に申し訳なくなった。


「すまない。別に、野菜でもいいんだ」

「……申し訳ありません」

「謝る必要などあるものか」


 父である国王と優しくしてくれた兄が前線へと向かってから、どこか王城の様子がおかしい。特に昨今は嵐の前のようにざわついている。まるで情報が入ってこないのに、かつて優しくしてくれた姉も、誰もかもが近寄って来なくなった。


「腹が減った。食事にしよう」


 オルトロスの日常に変わりはない。変化のない毎日は退屈であると思う。特に自分だけが放置された環境は窮屈である。奥深い味のスープと濃厚な野菜の鮮度と食感、味覚を堪能する。腹がいっぱいになるほどの野菜は、どう作るのかさえオルトロスは知らなかった。これは神が与えた恵みなのだ。


「母上は? 様子は大丈夫なのか?」

「本日も体調に変化はございません。ただ強いて言えば王女殿下が招いた医師団のおかげで、活路が見出だせるかもしれません」

「それは本当か? なら確かめに行こう!」


 側室の子であるオルトロスに権威はない。権限もなければ愛想笑いする貴族もいない。そんな環境のなかで愛してくれたのは、母だけだと信じているのだ。彼の思惑に侍女と執事は通路を塞いだ。


「何の真似だ? 子が親に会いに行くだけだ」

「いまは会議の最中です。お静かに」

「静かにしてられるかっ! 母上はいつ亡くなるか分からない大病なのだぞ! 黙ってみていろと、じっとしていろと何時ものように言うのか!」


 泣きそうな表情をしていた。お互いがそんな顔をしている。血の繋がっていない相手だが、世話をして世話された仲ではある。恩だけが彼らを結ぶからこそ彼らは立ち塞がることを選んだ。


「邪魔だ、頼むよ。通してくれ」

「これは命令なのです。母君であるナターリア様には近寄ってはいけない。行ってはならないのです」

「それが王子に対する命令か! 子が親に会うのに理由がいるのか! 僕が何をしたって言うんだ!」


 オルトロスは初めて雄叫びを上げた。生まれてから誰もが興味のない瞳で見つめてきた。披露宴は身内だけのささやかなものだった。愛を知ろうと奴隷を呼び込んだこともあったが、結合部から血が垂れただけであった。教養として施された性教育など通用せず、女子を泣かせたことを後悔した。

 いまは母親にすら会えないという。


「僕は仮初の王子かもしれない! 兄上のように姉上のように役に立たないかもしれない! 妹よりも王位継承権の低い男が僕だ。でも、いいじゃないか。会いたいだ、話したいんだよ。母上と」


 一歩前に踏み出した。誰かが肩を掴んだ。初めて抵抗をした。身体を押し込んで手を振り払った。無我夢中で柵から抜け出そうとした。誰かが抱きついて止めても、オルトロスは吠えつづけた。


「母上! 僕は必ず側にいます!」


 誰もいない夜。眠れない夜に支えてくれたのは母であった。一冊の本を取り出して、王騎士の話をしてくれた。ある日の雷雨が激しいときは泣きながら抱き着いた。乳母にも同じことをしたが、母の温もりだけがオルトロスの味方だった。きっと今もオルトロスは味方が欲しいのだ。あの夜たちのように側によって、ただ手を繋いでいたかった。


「……これは何の騒ぎだ」


 侍女と執事と王子の揉み合いを遮ったのは一人の壮年であった。給仕たちは顔を真っ青にして道を開けた。そしてシワだらけのエプロンや制服を慌てて伸ばした。オルトロスは泣きながら顔を上げると諸悪の根源――宰相らが立っていた。

 塵を見る目で睥睨していた。


「さ、宰相」

「おや。これはオルトロス殿下ではございませんか。このような往来の場で何を?」

「は、母上に会わせてくれ」


 宰相は眉をひそめて給仕を睨んだ。彼女たちはいよいよ生気もない顔で対面を見据えていた。


「なぜ?」

「病気が快癒していると聞いた。生きているうちに会いたいのだ。なあ分かるだろう?」

「会いたい? ナターリア夫人に?」


 睨む目つきは一層に強くなった。オルトロスは気付かない振りをして縋った。脚に抱きついて、這々の体で見上げた。希望の道筋があった。


「ああ。会わせよ、命令だ。宰相」


 一拍。何の音もない時間が流れた。すぐ後で足音のような笑い声が響いてきた。笑う状況などないはずだ。オルトロスは恐る恐る顔を上げると、そこには暗い笑みで破顔した宰相がいた。


「命令とは、結構なことですな。殿下。ただ世の中には理屈の通じないことも多々あるのです」


 宰相はただ首を動かした。すると後ろで控えていた騎士が剣を抜いて銀の煌きを放った。同時に侍女たちの悲鳴が劈いた。目を右往左往させているといつの間にか、血飛沫が舞っていた。

 彼女の首が千切れ飛んだ。


「え?」


 特別親しくはない侍女である。だが言葉を交わしたこともあれば、軽口を叩いたこともあった。過ごした時間が脳裏を過っていく。悲鳴が王城を支配するなかでオルトロスは宰相を激怒した。


「何をした! 外道め!」

「礼儀がなってない。もう一人だ」


 止めようとした手が宙を切る。誰かを確かめる前に首が千切れた。顔に剣が張り付いて、血だらけの顔から肉と白い糸が伸びていった。オルトロスは狂気と、初めての恐怖を抱いた。


「な、なんで」

「おかしなことを言いますな。殿下。あなたが望まれたのではありませんか。母に会いたいと」

「それ、で。なぜ、人が死ぬ?」

「全く。頭の悪い王子だ」


 また一人死んだ。今度は身を庇った執事だった。若い彼の死に、誰かの悲鳴が貫いていった。


「わ、わかった。母とは会えないんだ。一生会えないのに、僕が我儘を言ったんだ」

「その通りですぞ殿下。では離れていただけますかな? 私も騎士も時間が惜しいのですよ」


 オルトロスは腰が抜けて動けなかった。必死に手だけを震わせて宰相からゆっくりと離れた。床に染みが広がっていたが、血潮の前では可愛いものであった。彼は遠い目で宰相が過ぎるのを待った。


「枢密院のあとだと言うのに、不愉快なことだ」

「宰相殿。少ないのではありませんか?」

「殺しすぎてはダメだ。加減があるのだよ」


 彼らは何もなかったように過ぎるまで、いくつもの感情が流れていった。不意に窓を見ると塔にぶつかった鳥が堕ちていく最中であった。オルトロスは堕ちたのだろうか。自問自答しようとして、母の温もりを思い出し、再び涙に飲まれていった。

 できるなら悲しみを受け止めてほしい。寂しさを紛らせてほしい。愛が、ほしい。


「母さん」


 その日。一人の王子は部屋に閉じこもった。

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