第9話【御前会議(前)】
空は快晴であった。王城がそびえ立つ王都中央は静謐さが満ちている。花畑には蝶が舞い、健やかな朝を出迎えていた。庭園を一望できる半屋外の一室でシルフィーナ専制公とエリナローゼは、会議に備えて茶を嗜む。これから行われるのは大陸全土に前例のない「専制公」の権利と義務を決める会議である。落ち着きのないシルフィーナと同様に、エリナローゼも不安であった。こういうとき、頼りになる男が元老院からの指名で出禁になったからである。
「一応。話は合わせているけど……」
「大丈夫よ。リーゼ。今回の主役は貴女と私だもの。そこに変更はないわ」
彼女は健気で悲哀な少女である。王女という重荷を背負わされ、国王代理として覚悟を求められ、今も専制公として権力の行使を余儀なくされている。
本音を言えば逃げたかった。
早く王国が襲われればいいと夢見たことは一度や二度ではない。生きたいけれど、自由でなければ彼女は、囚われた魔物と同じなのである。顔に影を差す彼女にエリナローゼは口を開いた。
「別に主役にならなくてもいいと思うの」
「なに? 彼からの助言?」
「いいえ。友人としての言葉だけど」
一度紅茶で喉を潤した。シルフィーナは顔を合わそうとはしなかった。紅茶の水面を見据えていた。
「シルフィーナは無理しすぎだわ。一人抱えられなくなって歩けなくなったら、相棒を探して頼ればいいと思うの。誰も、一人では生きれない」
「嫉妬するわね。あれだけ誰とも関わろうとせず孤高だったリーゼが、こんな綺麗な笑顔を見せるなんて。彼のこと、相当信用しているのね」
「もちろん。彼以上の男はいない――」
咄嗟にエリナローゼは口を覆った。いま自分は何を言ったのだろう。周囲を見渡すとシルフィーナだけでなく侍女たちまで微笑ましく見守っていた。
沸騰するように顔が赤くなっていく。
「男っていうのは学者としての意味よ! 彼以上の学者はいないし、彼より頼りになる知見もない。だから私は、信頼してるって言いたいの!」
「はいはい。可愛いわね、リーゼ」
「もう!」
怒るエリナローゼに周囲は和やかだ。どれだけ残酷な未来が待っていようと、現実は平和で幸せなのである。シルフィーナは羨望の眼差しを向け、そして思い出したかのように突拍子もなく言う。
「私も会って話してみたいわ」
「ダメよ」
「どうして? 優秀な学者なのでしょう」
「だって。シルフィーナは綺麗だもの」
頭に疑問符を浮かべる。ハルバートは野性的でも蛮族でもない。襲いかかったり、乱暴を働くことはないだろう。つまり彼女の嫉妬であった。
「女好きなの? その男は」
「それはわからないけど……、シルフィーナだもの。王国一の淑女でしょう。あなたは」
王女は不意に昔の光景を思い出した。挨拶にやってくる貴公子と煌びやかなダンスホール。花束を贈られた本数、手袋に口づけをされた回数は枚挙がない。それこそ小国の王子から求婚されたことも何度だってある。だが王女の血脈と彼女の美貌は表裏一体だと考えていた。
「淑女ならリーゼのほうが相応しいと思うけど。私はこの数年で随分と醜い女になったわ」
「シルフィーナ……」
エリナローゼは覚悟を決めた。右手を挙手してイーナを呼ぶ。早速イーナと侍女たちは王城で待機しているハルバートを呼びに行った。彼は御前会議の召喚人でしかなかったが、王室図書館の閲覧権と引き換えに時間を頂戴していたのである。
「いいの? 好きなのでしょう」
「好きでも叶わない恋よ」
「ここにいるのに勿体ないわね。私が長よ」
「いいえ。叶わない恋でいいの」
成長する乙女には似つかわない大人の雰囲気を纏っていた。エリナローゼは自己の知性から貴族制の維持と身分階級の徹底は、絶対的なものであると信じている。たとえ教皇や覇王が認めようが、これは叶わない恋なのだ。最初から決まっていることだ。
「お連れしました。ハルバート研究員です」
「お入りなさい」
「失礼いたします。専制公閣下」
無理矢理着せられた燕尾服は酷く不恰好で、普段を見慣れているエリナローゼは笑ってしまう。その横顔はとても優しくて柔らかかった。ハルバートは少し不快そうに顔を背けて、その頬に甘い反抗心を抱いたのである。シルフィーナは益々二人のことに興味津々だが、本題は恋愛話ではない。
「ハルバート。聴きたいことがあるの」
「恐れ多くも申し上げます。王国には優秀な人材が揃って――」
「単刀直入に訊ねるわ。貴方が答えなさい」
彼女の真剣な視線に答えて、ハルバートは小さく頷くことにした。下座の椅子を引いて誰の許可もなく腰掛ける。あまりの無作法にエリナローゼは呆気にとられ、周囲は殺気立ったが、当のシルフィーナは気に留めなかった。直接会うのは二度目だが青年が無知なことはしっている。今は彼の輪郭を目に焼き付け、彼の知性を試す時間である。
「私は、何者なの?」
「最高権力者でございます」
「私は大陸を救えるのかしら?」
「それがご命令とあらば」
「本気で応えて。私は何ができるのかしら?」
ハルバートは静かに目を閉じた。彼が迷っていると悟った彼女は訥々と言葉を紡ぐことにした。
「王女に生まれ、幸いにも国は残っている。いまは専制公となり、なにかを変える力を手にした。あなたは、私に何を望むのかしら」
切実な悲鳴に聞こえた。孤独な少女が夜更けに泣いた辛い不安のようであった。事実シルフィーナは泣いていたのかもしれない、誰も味方がいない孤独のなかで、一人戦っていたのである。戦場はないが確かにシルフィーナは戦ってきたのだ。
「シルフィーナ王女。あなたは強い人だ、逞しく凛とした大木に似ている。だが同時に持つ弱さは、人びとを救う愛と勇気を与えてくれた」
ハルバートはしっかりと目を合わせた。瞳の奥に優しさを交えながら説教するように言った。
「王女。命令すればいいのです。力になれと。私も助けてくれと。何もできなくていいではありませんか。この十年間人族は……」
「――私は、負けたくないのよ!」
己に打ち勝つ最も簡単な方法は過去の自分を、弱くすることである。言い訳と妄想を並べれば過去を変えることなど容易なのだ。しかしシルフィーナにとっては屈辱である。過去を改ざんすれば、シルフィーナは己と対峙できない。
「連合軍にも、歴史にも、私自身にも負けたくないのよ。私は勝ちたい。いつか笑いたい。そのために頑張っているだけなのに、なんで誰も助けてくれないの! 私はこんなに儚い存在なのに!」
国でもっとも権力を握っている人間が口にする言葉とは思えなかったが、権力者の孤独さを端的に表す言葉でもあった。目の前にいる王女が一人、滂沱の涙を流すとエリナローゼが静かに抱き寄せた。
いるのは二人の乙女だけであった。
「シルフィーナ。ごめんなさい。あなたに全てを押し付けて、でも貴方しかいないのよ」
「嫌よ。私はまだ遊びも勉強もしたいわ」
「ごめん、なさい。私のせいで」
二人の隙間にため息を吹き入れたのは先ほどから無作法な男であった。ハルバートは菓子を一つ手にとって口に頬張った。この世の中で、もっとも甘く塩辛い菓子である。二度と食べたいとは思わなかった。そして少女を流すのは趣味ではない。
「王女。三つの選択肢があります。一つは専制公を返上して議会制の共和国に移行する道。一つはあなたが専制公をつづけ、貴族を従属させることでこれまで通りの体制を続ける道、そして最後は」
「ハルバート。何を言っているの。その二つしか選択肢はないと言ったじゃない」
「もう一つある。教会と同じです。絶対的な君主が一人、そして支える行政府と大臣、つまり過去の官僚制を復活させて絶対王政を築くのです」
果たしてそれはここにいる全員には到底理解できないものであった。だが同時に、ハルバートの異端さを証明する最善の台詞でもあった。
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