第3話【分岐点】

 彼の言葉は辛辣だった。かつてエリナローゼは説教をされたことがある。父や母から何度も叱られた話だ。だがそれは血縁ゆえの行為であって、他人から叱責されたことは一度もなかった。たったの一度もである。理由は述べるまでもなく、エリナローゼだからであった。


「私はただ、人を助けたい」

「人なら救える。君は子を産めばいい。そうすれば人族は途絶えることなく続くだろう」

「それでは遅いの。もう軍が迫っている。私は奴らを殺すために、前に進みたいの」


 子供の言い分であった。何をするわけでもなく上に立って参謀役をしたいという。義務や権利を放り投げてやることが参謀ごっことは、片腹痛い話である。ハルバートは失笑を返した。普段なら従う侍女たちもどこか呆れたような顔をしていた。


「君になにができる?」

「あなたを戦略会議に参加させる」


 波紋のようにどよめきが広がった。王女が主催する王政最高峰の会議に、学生でしかない平民を連れて行くと言う。また可笑しな話である。


「会議の参加権などないはずだ」

「お父様を説得する。必ず」

「それで? 参加してどうする」

「あなたに作戦を立ててほしい。奴らを殺す方法を提案してほしい」

「残念だがもうやっている。論文を書いて王国に渡している。実用もしているはずだ」


 一本の短剣に目を向けた。魔術相反は歴史を塗り替えた大功績である。同時にハルバートが研究を認められた足跡だ。こうして王政がまともに向き合っている以上は参加する意味などはない。


「確かに実用化はしている。でもあなたが近くにいれば、もっと早くできた。一日でも実用が早ければ戦死者が一割減っていたかもしれない」

「理想論だ。それは机上の空論だエリナローゼ」


 背を向けたハルバートは静寂の響く部屋に、小さな足音を立てた。そうして椅子に座ると軋んだ音が無様に響く。功績など霞むような音である。


「俺は所詮、平民だ。いくら功績を積んでもその事実は揺るがないだろう。これは世間の話だが、俺を神聖視するあまり処刑された平民がいたらしい」

「それを変えるわ。必ず」

「簡単に言うな。理想主義者め」


 彼は眉間を摘んで目をつむる。処刑されたと聞いたとき、湧いた感情は困惑であった。なぜ功績を喜ぶだけで人が死ぬのだろうか。あるいは感情の片隅に憤怒や侮蔑があったかもしれない。人族存続の危機に、馬鹿をやる貴族に呆れたかもしれない。

 もう終わった話だったが。


「君は行ったことがあるか。墓場に」

「……ないわ」

「処刑者は一つの墓場に入れられる。罪人墓地というものがある。王都からずっと離れた場所だ。雑草は生え放題で、虫の楽園のような場所だ。そこに小さく名前が彫られていた。汚くて読めなかったが」

「名前も、わからないのね」

「調べようとしたが誰も名を口にしなかった。彼らと同じ目に合うのが怖かったからだ。俺はどうしようもなく街を彷徨って、一つの酒場を見つけて安酒を煽った。俺は弱くて惨めだった」


 彼は背を向けて汚い壁を眺めていた。もしくは泣いていたのだろうか。自分を褒めてくれた誰かと会話すら出来ぬままに、無残に殺されたことを嘆いている。エリナローゼは抱き寄せたい衝動に駆られてしまった。あなたを癒したいと思った。


「残念だが俺は強者ではない。賢者にもなれないだろう。俺はこうして研究をしながら、そのうち家庭を持って、亜人に殺される運命にある。抗うことに変わりないが、これも揺るぎない事実だ」

「先の言葉は何だったの? 相手は生命体だと格好つけて、私を騙したつもりにでもなった?」

「言っただろう。学者は理屈で語ると。俺は先程から本当のことしか言っていない。抗い負ける。絶対に勝てない、無残に殺される。すべて事実だ」


 今度は彼が目を背ける番だった。戦争という無理難題を前に、理不尽がやってくる未来を前にして立ち向かう勇気などない。まだ学び舎に籠もって勉強していることが証左である。熱気、興奮、憤怒を持ち合わせていれば、立っているのは最前線だ。

 長いため息を彼は吐いた。


「君に説教をしたことを謝ろう。不敬だと思うなら処刑してくれ。俺は彼らと同じ墓に入るのは嫌ではない。功績も、もう充分だろう」

「あなたも怖いのね」

「当たり前だ。抗うしかない未来など、不安と恐怖で頭が狂いそうだ。必死に取り繕っていたがいらない配慮だったな。人族はどうしようもない」

「味方にも、敵がいるのね」

「そうだ、敵ばかりに囲まれて生きてきた。俺は見えない連合軍よりも、君のほうが怖かった。最初来た時は処刑されると覚悟したほどだった」


 驚愕する彼女を眼前に回顧をはじめた。

 あれは二年前の春であった。魔術に関する功績をあげたとき同じ平民が集った教室で、出世祝いのパーティーをしていた。そこに踏み込んだエリナローゼにハルバートは恐怖を抱いていた。公爵家の重みと貴族が紡いだ歴史を知っていたからである。

 彼は死を自覚して令嬢を見据えていた。


「あのとき君はこう言った。素晴らしい論文だったと、その一言だけ言って帰っていった」


 貴族とエリナローゼを無意味に結びつけていた証であった。彼女はただ単純にハルバートを褒めるためだけに教室へとやってきた。臭く、汚く、うるさいと嘲笑われる平民の集会にである。


「本心だったもの」


 あの頃からエリナローゼには芯があった。


「俺は初めて貴族に興味を持った。結局あのあと来たのは金目当ての商人や、魔術師を雇いたい貴族ばかりで論文の話は講師としかできなかった。唯一、君だけが俺を見てくれた気がした」


 懐かしい話だ。それから互いは褒め合う同士から相談する仲になった。その過程を経て今がある。公爵令嬢と平民という、本来なら交えるはずがない糸はたった一言の褒め言葉から始まった。


「私はあのとき適当に論文を漁って読んでいただけだった。つまらない論文ばかりで寝ようとしたとき平民が出世したと噂を聞いた。どんな論文なのか評価しようと思った。でも読んで納得したの、世の中の広さと、私の視野の狭さに」


 大抵は嫉妬か後悔に耽るものだ。自らより若い者がなした功績に妬み、自らが先に見つけられるはずだったと有りもしない悔いを得る。だが少女は純粋無垢に反省と称賛を取った。誰にでもできる行いではない、まさしく才媛はいた。


「そうか。そんな裏話があったのか」

「この凄い論文を書いた人と会話してみたい、そう思った私はいてもたってもいられず、部屋を飛び出した。でも緊張のあまり言葉が出ずに、一言だけ言って部屋に戻った。あのときは恥ずかしくて会うべきで無かったと後悔したわ。でもいまは違う。会ってよかったと、心から思えた」


 また互いの目が合った。どちらも泣きそうな表情で、あるいは涙のあとを頬に残していた。


「でも、あのときの言葉で今があるなら、私は過去を誇ることができる。ハルバート、私が心から尊敬する貴方。私は、まだあなたと話がしたい」

「そうだな。論文の話は君としかできない」

「だから力を貸してほしい。あなたが凄いことを大陸に証明する。人族が抗った証拠に、あなたの名前を刻みたい。だから助けてほしい」


 その言葉を述べた瞬間、エリナローゼが再び頭を下げる。同時に侍女たちも臨戦態勢を解除してスカートの裾を軽く持ち上げ、会釈をとった。

 ハルバートは席を立って歩みを進める。


「この先は地獄だ。狂気と抗うには狂気を纏うしかない。幾万の軍勢を見殺しにする覚悟はあるか」

「それが勝つためなら」

「味方も死ぬ。大勢死ぬだろう」

「覚悟の上よ。私は行くわ」

「ならば付いていくよ。大きな恩を借りた」


 床に膝をついてエリナローゼの手を取った。彼女の手に口を近づけると目先には手袋がある。しきたりなどわからない。そう考え、そのまま接吻しようとして、手袋はいきなり外される。

 外気に触れた白の手は無垢のまま美しかった。

 どの花よりも可憐な左手があった。一点のシミもない完成された美品に彼は躊躇する。


「これは契約だ。勝つまで抗うための」

「ええ。一緒に勝ちましょう」


 しかし感情が勝る。

 ハルバートはキスを落とした。エリナローゼは頬を染めて、侍女たちはとんでもないことをした二人に、そっと目を背けて知らないフリをする。

 ハルバートがしたのは、求婚のキスであった。


「ん? なぜ笑っている」

「いいえ。なんでもないわ」


 交渉はエリナローゼの圧勝であった。

 そんなことも露知らずにハルバートは頭をかしげる。ただ思考が口から漏れた。


「待ってるよ。吉報を」

「ええ。ここからは私が戦う、あなたは今まで通り研究をしていればいいわ」

「そうだな。正直、参加は難しいと思うが」

「勝つことよりは簡単よ。ただ会議に出るだけだもの」


 果たしてエリナローゼという少女はここまで勝ち気であっただろうか。少し前まで震えていた少女が今ではすっかり乙女のようだ。剣を握り、鋭い目つきで、敵を撃ち倒す味方の英雄のよう。

 あるいは未来の英雄かもしれない。


「そんなことより何時まで手を握ってるの」

「あ、ああ。すまない」


 咄嗟に手を離したが、エリナローゼはこう言いたかった。「ずっと離さないで」と。

 だが感情は表に出ることなく仕舞われた。

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