第2話【方法の模索】
ならば一体。どうするのだろう。
エリナローゼはその一言を紡げずに昼間の彼と別れを告げた。華麗で幻想的な学院の校舎も、彼女の悩みの前にしてはちっぽけなものであった。ハルバートと相談するときはいつもこうだ。自分が思考の渦に飲み込まれ、悪夢に近い模索を強制される。
「イーナ」
「どうかしましたか。お嬢様」
「いつみたいに相談にのって」
「ええ。私でよければ」
公爵令嬢を支える侍女たちは、エリナローゼと年の近い者が選ばれる。なかでも心から打ち解けられたのはイーナが初めてであった。それから彼女は事あるごとにイーナと会話をするようにしていた。
「勝てない戦いがあるの」
「最近よく聞く話でございますね」
「絶対に勝てない、最終的に負けることが確定している戦いがあるとする。貴方はどう抗う?」
「難しい質問でございますね。私は救いようのない話が嫌いでございます。ですがリーゼ様の質問に答るのであれば“自死”でしょうか」
やはり、と頷く。これはどこの国の、どのような立場の女性でも同じことを言うだろう。一本の短剣を逆手に持って、勢いそのままに喉に突き刺す。それが安易な方法である。未来で苦痛や絶望に比べれば、覚悟はいるが単純な解決策であった。もしエリナローゼが野盗に襲われることがあれば、彼女と同じように自死を選ぶのだろう。
「でも、そういう話ではないの」
「やはり戦争の話でしたか」
「ごめんなさい。でもね、探す必要があるの」
「公爵家の長女たるエリナローゼ様といえど、戦争などに関わる必要はございません。我々は、殿方の無事と帰還を祈ればよいのではありませんか」
そうではない、とは言えなかった。彼女だって怖いのである。目の前に絶望がやってきて死ぬ瞬間を予想することが。もし未来を変える方法があるならば、それを探すために必死になる。だが他人を救済するほど聖人君子ではない。ましてや人を救えるほどの為政者でもない。何者でもない少女であった。
「――リーゼ様?」
不意に立ち止まった。侍女たちは慌てて横に逸れるが迷惑そうな顔をする素人はいない。熟練の侍女たちは不安と困惑の眼差しを向けていた。エリナローゼは唐突に涙をこぼした。一滴の涙を無理やり裾で拭い、また歩き出そうとして足は止まる。
「私は死にたくないわ。みんなをしなせたくない」
「大丈夫です。たとえ天国に行かれようと、必ず見つけ出して、お使えいたしますから」
健気な返事にまた涙を零しそうになった。イーナという少女は共感性が高い。持ち得る知識と感情を駆使して欲しい言葉を言ってくれる。だから頼りにしてしまう彼女がいた。その言葉は卑怯だろう。
「戻るわ。ハルバートのもとに」
「彼に任さればよろしいではありませんか。何もリーゼ様が、手を組む必要はございません」
「あるわ。私は公爵家の長女だもの」
「公爵家だからこそ、です」
「上に立つものは、いつだって先導すべきよ」
踵を返すエリナローゼに侍女たちは、不満そうな顔をした。婚約相手のいる貴族令嬢が一介の平民に会っていれば、異端と噂される下民に会うのは本末転倒である。優秀な貴族はいる。なにより自分たち侍女を頼らないならば嫉妬して当然である。彼女が平民に依存する理由がちっとも分からなかった。
「いつもの癖が始まったみたいね」
「行くわよ。この時間なら書斎にいるはずだわ」
大胆な令嬢にも侍女は従うしかない。早足で進んでいくエリナローゼに、あらゆる生徒や講師が道を譲っていく。あるいは従士は頭を垂れて、その高貴さに尊敬するようであった。彼女の制服の裾が高波のように震えるたびに、侍女たちの静かな忠志も穏やかに揺れている。人波を割って先頭を歩く。
その姿は高位貴族に相応しいものであった。
「私は愚かかしら。イーナ」
「……リーゼ様のお心のままに」
「はぐらかさないで、っていつも言っているでしょう。こういう時に言葉が欲しいのよ」
だからハルバートを頼るのである。不格好で無遠慮ながら、博識で単純な男を。あの男にしかエリナローゼの心労は解決できないから。
「リーゼ様」
「なに。イーナ」
「いまのお姿は。素敵でございます」
「そう。それが答えなのね」
「はい。戻って勉強をしましょう。向かう先は、平民ではなく、未来の公爵令嬢でございます」
歩みは止めなかった。学院の奥まったところにある狭い書斎に向かって進んでいく。いつの間にかあった人波はどこにもなく、無人の廊下を闊歩する。
方法を模索するために、諦めないために。
立て付けの悪い傷だらけの扉を叩いた。
「いるかしら。ハルバート」
『ああ、いまは研究中だ』
扉を開けた瞬間、彼のくたびれた顔を見てホッとしたエリナローゼがいた。ハルバートは疲れた顔を上げて、いつものように肩をすくめた。
「こんな場所。君が来る場所ではないのに」
「あなたに会いに来たのよ」
「またか。さっき別れたばかりだろう。俺は研究と論文を読むのに忙しい。全くいつもいつも」
「――力を貸しなさい」
ごろりと彼の双眼がエリナローゼを捉えた。ハルバートには二つ嫌いなことがある。それは自らの言葉を遮ることと、他人に命令されることである。また、嫌いなものなど例を上げればキリがないが、彼は人生のなかでこの二つだけは拒絶していた。
手に握られた論文がゆっくりと机に置かれた。
「話を聞いていなかったか。あるいは、君と過ごした時間は想像以上に短かったのか」
「あなたのことは知っている。そのうえで公爵家長女エリナローゼとして協力を要請します」
「言い方を変えて誤魔化したつもりか? はあ、話の通じないやつだな」
ハルバートが席を立つと侍女たちは、守りを固める体制をとった。こればかりはエリナローゼも止めることができない。彼女に傷が一つでも付けば、侍女たちは懲戒解雇され、実家同士の縁が切られてしまう。侍女もまた様々なものを背負っている。
「いい魔剣を手に入れたな」
「黙りなさい愚民」
「だがそいつは俺の発明品だ」
懐からイーナが取り出した剣には赤と紫の混じった魔術式が刻まれている。この刻印が施されたものを世間一般では魔剣と呼ぶ。だが彼女の持つ魔術相反の魔剣は、最新式のものであった。
「こんな滑稽な姿を晒すために来たのか?」
「……お願い。助けて」
「助けるとは何の話だ? 俺は最初から最期まで人族に貢献するつもりでいる。君とは、いい相談相手だったが、勘違いを与えてしまったみたいだ」
「違う。あなたには力がいる」
ここにたどり着いてから初めてハルバートと目があった。エリナローゼとハルバートは互いに見つめ合い、思考と感情をぶつけ合う。もしくは火花が散りそうなほど白熱した凝視はつづいた。
「私には人脈と機会を用意できる。その代わりにあなたは人族および王国、公爵家に力を貸す」
「命令、要請と来て今度は契約か」
「あなたを害するつもりはない。でも人族を救うには必ず貴方の力がいる。ハルバートにしか、出来ないことだと思うの。だからお願い」
エリナローゼが頭を垂れた。その重みに侍女たちは蒼白として、彼女と彼に視線を寄せる。ある者はエリナローゼを止めようとして、ある者はハルバートを殺そうとして。だがそんな緊迫も彼女の言葉によって遮られる。
「助けて。私たちを、絶望から救って」
こぼした涙に全員の動きは止まった。通り雨のような涙だった。地面に柔らかな染みをつくるが、色を変えるほどにはならない。だが泣いた証拠が粒の美しさ、斑な模様を残していく。
「俺一人でやる。君は必要ない。いらない責任を背負って、義務をつくる必要はない」
「私には皆を助ける義務がある。その義務の行使のために、力を貸して」
「義務には権利がつきまとう。俺には研究する権利の代わりに学問を修了する義務がある。君にも同じことが言えるだろう。だが貴族の義務は男が背負うもので、君の義務は子を産むことだ」
ハルバートの言葉は止まらない。
「君はまだ義務を終えていない。結婚もしていなければ出産をしていない。パーティーに参加して貴族同士の縁故を深めることもしてない。なのに人族を救う権利を行使したいという。それは我儘な話だとは思わないか。エリナローゼ・ラングレス」
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