第1話【ヒト族】
テーブルにはティーポットがある。
扉の前で待機していたメイドの一人が、高価な茶葉を入れた紅茶を、注いでから部屋を辞した。侍女の振る舞いは流石は公爵家の使いである。彼女の出身は下位貴族の次女三女なのだろうが、なるほど紅茶は大変美味であった。エリナローゼは微笑んだ。ハルバートは残り香を舌で転がしながら、静かに瞠目する。
「あなたの言葉、信じていいのかしら」
「信じる前に、前提の話をしよう」
「前提? 負け戦が確定していること?」
「そうだ、なぜ人族は負けているかだ」
ハルバートは礼儀のない男である。肘を机に突き立てて顎を触るように紅茶を飲む。そして適温になると豪快に飲み干すのだ。初めて見たときは、これが平民の流行なのかと疑うほどであった。しかし単純に比較する平民などいない。公爵令嬢と対等に話せる平民はこの男、たった一人だからである。
「単純に弱いからではなくて?」
「弱い、とはどんな状態だろう」
「力がなく、富もなく、名声もなく、根気や体力すらない。弱者の典型は病人や貧民ね」
「確かに一理ある。では人族は弱者か?」
彼の言葉は理論や理屈がある。だから言葉を伝えるようにじっと視線を合わせた。深い紫の瞳がハルバートを捉えて離さなかった。彼はそっと目を流して床の染みに視点を当てる。怒りの感情はいまは鳴りを潜めているように思えた。
「弱者ではない。決して、強者でもないけれど」
「そうだ、俺は人族は極めて普遍的な種族だと思っている。だから名付けた、幹種族と」
「幹? 平凡、一般、全般、根底。なんでもでもいいじゃない。どうして幹になるの?」
「人族が中心にあるからだ」
意味不明な説明である。人族を表す言葉として唯一の例外を示しているような、珍説を述べているようだ。エリナローゼは頭を抱えた。だがハルバートと会話する時に大事なのは、自分の常識と彼の思考を妥協させることである。一旦は幹という言葉に宿った感覚を問わねばならない。
「人族が中心なら今頃、大陸は人族のものよ。でも現実はどう? 連合軍はたった十年で巨大な大陸のほとんどを支配した。文字通り支配したのよ。そんな人族が中心なんて、幾らなんでもありえないわ」
「これは哲学と魔術の話だ。力の話ではなく種族の話だ。世界を形作っているのは人族で、その派生。あるいは枝にエルフやドワーフがいる。すべては人族がいるからこそ世界が成り立っているんだ」
「とんだ流言ね。素人の詐欺師みたい」
彼女はあえて拗ねるような態度をとった。しかしハルバートは何の表情も変えずに、注いだ紅茶を煽るように飲む。ワインを咥える酒豪に似ていた。こんな大胆な真似をする詐欺師を世間では馬鹿というのだろうか。あるいは狂人と。
「これが前提に来ると話が変わる。なぜ人類が弱いのか。それは原生した幹でしかないからだ」
「変異した姿が亜人である、と?」
「動物が交わり獣人となり、魔獣と交わったことで魔族となった。エルフやドワーフは極地の先に生った果実だ。こうした種族を高枝種族と名付けた」
「幹と枝ね。幹のほうが強そうだけど」
皮肉を述べたつもりであったがハルバートは意気揚々と頷いた。まるでそれが正解と言わんばかりに顔を上下させた。エリナローゼの思考が加速する。私は何かを見落としているのではないかと。
「寿命の話? 人間は獣人と同じく五十年ほどしか生きられない。けれど魔族やドワーフは二百年生きる。エルフに至っては五百年の寿命がある。それとも魂の話? 精霊や悪魔に愛されることが、ここでいう幹と高枝の説明につながっている? ねえハルバート。人族はなぜ中心にいるの?」
「もう答えを言うのか。まあこれを言わなければ先に進めないのも事実だ。はっきり言おう。人類において人族だけが特殊な力を持っている。あるいは人族しか持ち得ないからこそ、他の全種族は人類ではないとも言える。その重大な要素は、死である」
続けて「人族だけが死と向かい合っている」と口にした。エリナローゼにとって、その言葉は思考放棄に似ていた。生と死が対等にあるように、人は死に愛されている。当然の話だが、それが中心と言われると、呆れて言葉が出てこなかった。それを言ってしまえば敵も同類だからである。
「死? それがどうかしたの?」
「人族以外の彼らは寿命を克服している。到底生きることのできない時間を生きている。それは生命体にとって極めて歪なことだ。さらに上位者と呼ばれる人智を超えた能力を獲得したものがいる。彼らはいつだって寿命の倍を生きてきた。あるいは超越者と呼ばれる神に近い存在もいる。彼らは寿命を完全に無視しながら生命活動を維持し、千年の時を経ても君臨する至高の存在へと昇格した」
「ま、待って。少しだけ、整理させて」
人族に必ず訪れる死。対等にやってくる呪縛が最大の中心点だとでも言うのか。同時に万の大軍を相手する上位者たちは寿命の倍を生きるというのか、さらには怪物を超える神に近い存在までいるのか。エリナローゼにとって、羅列された情報は困惑と不気味さを誘うに充分だった。なにか悪いことをしているみたいだった。聞いてはいけない言葉を知った感覚だ。ありえない、と叫び出したかった。
「ね、ねえ。その理屈だと矛盾があるわ。人族にも上位者がいるもの。勇者やオリハルコン級の冒険者よ。どこかの国には一騎当千の騎士団長もいたはずよ。彼らは、彼らこそが上位者ではないの?」
「上位者は自己治癒力が格段にあがる。もう死んでいる時点で上位者ではない。人族は等しく、公正な種族だ。誰も壁を越えられず、死すからだ」
一つずつ玩具が組み上がっていく。悍ましい妄想に背筋に冷や汗が流れた。紅茶の味がしない。手の感覚がない。指先に熱を感じない。私が、私であるという意識が薄く儚くなっていく。
言いようのない気分だった。
「なら。上位者に勝つには、どうするの?」
「だから言っただろう。持ってない」
「持って、ない」
「ああ。上位者と争うにはそれと同等の上位者か超越者を連れてくるしかない。だが人族には上位者を創造することはできない。それは幹としての使命だからだ。人は、人のまま戦うしかない」
エリナローゼは冷静になろうとした。彼女が考えていた最も簡単な戦争こそが、一対一の真剣勝負だからである。しかし、その妄想はハルバートという青年によって打ち砕かれた。もしこの妄想を実現しようとすればハルバートに勝る、天才のなかの天才を連れてくるしかない。そんな時間などない。
究極的な選択。それは――
「続けるしかないのね。抵抗を」
「そうだ、抵抗だけが人族に残された唯一無二の手段だ。だから諦めてくれ。敵に英雄はいても、国を一日で滅ぼす悪魔がいても、我々人族にはどうすることもできない。ただ逃げて、逃げて、抗うことしか選択肢はないんだ。なぜなら我々には英雄も、勇者も、神に近い存在もいないからだ。そしていないからこそ、我々は人族たるに至るのだ」
この瞬間に大陸の命運は確定したのかもしれない。あるいは狂気が始まる合図だった。すべての人族は死を持ってして、死を受け入れるしかない。
死は必ずやってくるのだから。
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