戦略級英雄の討伐論
犬山テツヤ
虐殺の準備期間
プロローグ
「もう、この大陸に未来はないのかしら」
大陸最古の大学――フィルべルティア学院にある一つの食堂。テーブルの一席にはカトラリーを上品に使う女性と、無造作にフォークを突き立てる男性がいた。男が立てる咀嚼音と金属音のせいで周囲には人はなく、古びた食堂には静寂が広がっている。二人が座るのは、誰もいない食堂の決まって端のほうであった。それも扉から一番遠く、蜘蛛の巣が張っていそうな暗鬱な隅である。男が毎日寂しく、ここで一人飯を食べていることを知って、彼女はたまにやってくる。うるさく、下品な食事をともにしてでも彼には聞きたいことがあった。
「ねえ。聞いてるの?」
室内の端に灯る小さな蝋燭の明かりを見据えながら、鈴のような声音で言った。女性は名誉ある公爵家の令嬢である。身分平等を謳っている学園といえど顔を拝むことすら有り難く、言葉をかけられれば一生物の思い出になるほどの権威がある。さらに彼女は優等生で、学院において知らぬ人はいない才媛であった。そんな彼女は眉間にシワをよせて、普段の凛とした表情を一変させている。憂鬱と不安の混じったその表情は、まるで国の未来を憂う老練な政治家のようであった。
「また下らない話をしに来たのか」
「ごめんなさいね。生憎あなたとは違って魔法も数学も苦手だから」
「知っている。専攻は帝王学と礼儀作法だろう」
彼女は頬を引きつらせた。学問に差がないことなど百も承知である。しかしこの無遠慮な、不格好な男に指摘されるのは女性として屈辱であった。なぜなら公爵令嬢――エリナローゼにとって、専攻を選んだ理由が実家に由来するからである。学問を学ぼうとする彼女とその才覚を持ってしても、実家の意向に逆らえるはずがなかった。本当に、遠慮のない指摘である。奥歯を噛み締め、ぐっと堪え、過去に泣いた後悔を思い出さぬように蓋をする。
「話を逸らさないで。私が聞きたいのは、この大陸の未来と、人族の生存に関する話よ」
「井戸端会議や雑談なら国中で毎日やっているだろう。政治家も貴族も商人も、奴隷さえも話し合っている事だ。そんな話題は今と何の関係がある。俺はスープを冷めないうちに飲みたいんだ。悪いが他所を当たってくれないか。エリナローゼ様」
果たして男は無礼だった。天下の公爵令嬢を前にしても態度を変えず、不敬罪を鼻で笑うような言葉遣いをする。エリナローゼは拳を握り、今にも頬を殴ろうとした。だが礼儀作法を学ぶ彼女である。なにより名誉ある公爵家の令嬢である。不審な噂を立てないためにも、ここでは堪える必要がある。大きく息を吸って、怒りを吐いた。こんな男でも、こんな男だからこそ、頼りにするしかない。
「暇そうなあなたに問題よ。魔人と獣人、亜人の連合軍は王国二つと共和国三つを地図から消した。さらに海洋国家や都市国家の諸国家が開戦したものの、こちらも敗戦し、畑は荒らされ、街は燃え、人は奴隷として扱われている。無法地帯では傭兵が皆殺しをして回っている。もう人族には時間がない。抗う術がないのよ。大陸の三分の二があの野蛮人に奪われた。力では獣人に負け、魔法では魔人に負け、異能や知力でも亜人に劣る。なかでも絶対的な存在がいる。七賢人、四天王、五戦神、三将。たった一人で万の大軍を殺す――化け物の存在。さらには彼らの頂点に立つ魔王や女王なんて存在もいる。ここから逆転する手段を、あなたはお持ち? それともあなたも傍観者のままでいるつもり?」
指揮棒を振るように華奢な指が踊る。シルクに包まれた指がしんと男を指した。挑発のつもりでいたが内心は己が言葉に諦念と大きな不安を抱えている。これは威勢である。実家や学園で学んできた交渉術の初歩的な実技だ。エリナローゼは不敵な笑みを浮かべたまま、内心で冷や汗をかきながら彼の返事を待った。どうか期待を持たせてほしい。患者が死の淵で神に祈るような心持ちで静寂に息をのんだが、回答には一瞬の時間すらいらなかった。
「持っているわけがないだろう。誰も、何も、救えなかったんだ。だから奪われたんだよ、全部」
彼と共感したことに息を飲んだ。共感してしまったのだ。己にある理屈と感情が目の前の男と同じ結論に達しただけだ。それだけに目の前に迫りくる恐怖と不安が、悪夢の足音にうなされた日々が、明日という名の現実となって襲いかかってくる。そんな明確な予感があった。吐きそうな気分や締め付けるほどの頭痛が、今にも倒れそうな衝動へと変わっていく。血の気は引いていき、冷や汗が全身を伝った。まだ何かあるはずだと唇を動かそうとして、この男に話を持ちかけたのも現実逃避であると認識した。エリナローゼはただ、もう目の前に絶望しかないことを受け入れるために、この暗い食堂にやってきたのだ。あるいは何らかの打開策があることを夢見る少女のままで居たかったのかもしれない。
蜘蛛が巣にかかったハエを捕食するように人族は他種族に捕食されていく。
小さな蝋燭がスープの水面に反射して黄金色を放っている。
「そう、そう、よね。あるわけ、ない、わよね」
力のない足取りで席を立った。彼女は帝王学を学ぶ王妃の候補であり、公爵家の令嬢であり、皆の期待を背負った若者である。何度も逃げ出したい気持ちを抑えて、心配する誰かのために自分が必ず解決すると奮起した。虚勢を張ったのは自分ではない誰かや、この先に得るであろう従者が解決してくれる可能性に賭けただけだった。それすら現実逃避だった。だがそれも今日でおしまいだ。彼女がもっとも尊敬する「彼」が言ったのだ。踵を返そうとした矢先、声をかけたのは断言したはずの彼であった。
「まあ待て」
この機に及んで何を待つというのだろうか。エリナローゼは醜さに自嘲した。彼女が自我を持ってから今日に至るまでの人生は自己弁護と現実逃避に埋められている。あと何度同じような状況を続ければいいというのか。彼は知らないのだ。天才という看板を背負って生きてきた人生も、周囲から期待される苦しみも。わかってくれていると信じたかった。
やっと友人になれたと思ったのに。深呼吸をして耳だけを彼のほうに寄せた。
次にくる言葉は「時間が解決してくれる」だろうか。
万人が光のない瞳で宙を眺めるように彼はつぶやいて――。
「方法はないかもしれない、正解もいまのところない。仮にあったとしてもひとつの成果だけで幾千もの難問が解決するわけではない。不可能に近い問題がらせん状に組み合わさっている現状を前に、学者が言える言葉は「無理」の一言だけだ。しかし、まだ未来が確定したわけでもない」
先ほどスープを飲んでいただけの男が、食事すら適当な男が、今は真面目な顔つきをしていた。
無愛想な目の奥に知恵と鋭利さを蓄え、表情筋のひとつひとつが猛獣のようにしなっている。滑らかではない学者の手、平民特有のいびつな筋肉、礼儀すら知らず馬鹿にされてきた男の、それでも成り上がってきた男の生きざまが垣間見えていた。
エリナローゼが信頼を寄せている学院きっての異端児――ハルバートがそこにはいた。
「相手が誰であろうとただ死を待つわけにはいかない。目の前に絶望が待っていようと、戦う意思を捨てず、抗う思考こそが、人の持つ最大の武器だと俺は思う。だから心配しなくてもいい」
エリナローゼは体ごと顔を向けた。優しく微笑む彼は花を用意した不器用な恋人のようで、恐怖と不安を和らげる最大の薬は、人の温もりであると教えてくれる。ここが演劇のなかではないと知りながらも彼女にまとわりついた絶望が、予定調和のようにゆっくりと氷解していった。
「俺は必ず抗う。抗って一瞬でも希望をつくる。無理難題など一つの試練に過ぎない。俺が生きている限りは、いつだって俺が歩みたいように人生をつくる」
彼を見て確信した。最大の信頼をよせるハルバートがそこにはいた。
不格好でも無知でも野蛮でも、信頼に値する「人間」がそこにいた。
目の奥に怒りが宿っているのだ。ハルバートという名の青年は、この眼の色をしたとき必ず力になった。その凄まじい目を、彼はしていた。
「相手はただの生命体だ。そうだろう?」
彼女は確信する。必ず人族は――報復する、と。
ハルバートはそうやって王国一の天才となったのだから。
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