金平糖
私が彼女に出会ったのは、数年前のことだ。五年前だったか六年前だったか、正確なことは覚えていない。初めて会ったとき、彼女は私の行きつけの喫茶店で本を読んでいた。私がその本が何なのかを知ったのは、私たちが知り合って随分経ってからのことだった。それまで、私が本の題名を聞いても彼女はただ微笑むばかりだった。
彼女はいつもコーヒーを飲んでいた。コーヒーについてくる金平糖を彼女は毎回一粒だけ残す。そしてそれはいつも白色だった。なぜなのかは分からない。出される金平糖の数が違ったって、いつもその一粒だった。食べても良いかと尋ねると、彼女はじっと私を見つめて、その視線に耐えられなかった私はそれを口にすることはなかった。
彼女の正確な歳は分からない。私と同い年くらいに見えたから、おそらく十代後半から二十代前半といったところだろう。大学生かもしれないし、社会人かもしれなかった。ただ、勉強をしているところとか、会社の電話やメールに応えているところは見たことがなかったから、どこかのお嬢さんでのんびり毎日を過ごしているのかもしれないと思った。彼女は、自分のことについてあまり語りたがらなかった。私がそれらしいことを聞くといつもにっこり微笑んで、そのまま本に顔を戻してしまうのだ。でも私はそれが嫌ではなかった。私は幼いころから色々と想像するのが好きだったから、彼女という謎の存在についてあれこれ勝手に想像するのが楽しかった。分からないと言えば、彼女の正確な名前も私には分からない。何度か聞いてみたことはあるのだが、教えてはくれなかった。
「名前、なんていうの?」
「なんだと思う?」
彼女はお得意の質問返しで私の顔を覗き込む。
「さあ。なんだか、可愛らしい名前な気がするけど。」
「例えば?」
「うーん、桜子とか?」
私が言うと、彼女はにっこりと微笑んだ。
「あなたのこと、なんて呼んだらいい?」
「桜子でいいよ。」
結局、私が折れて彼女の名前は桜子になった。しっくりくるような気がするときもあれば、なんだか違うような気がするときもあった。それでも名前を教えてくれないので、私は彼女を桜子と呼ぶほかなかった。
「探検ってしたことある?」
ある日、桜子は私に尋ねた。
「うーん、小さいとき、友達と良く茂みの中入ってみたりはしたけど。」
「そう。」
桜子は近くの窓からどこか遠くを見つめた。
「私は小さいとき、探検をしたことがあるの。」
「どんな?」
「河原で遊んでいたときにね、おじいさんと犬がいつも一緒に散歩していたの。私は犬が好きだから、すぐに仲良くなった。あるときね、河原の近くに大きな穴があって、私は入りたいって言った。おじいさんは犬も連れて行きなさいって、リードを貸してくださったの。私は一人と一匹でその穴に入った。」
「そこに何かあったの?」
私は息を飲んで身を乗り出した。彼女は相変わらず外を見つめている。
「思っていたよりも奥まで穴は続いていて、とっても暗かった。少し歩くと、目の前に水たまりがあったの。」
私は桜子が話を続けるのを待った。桜子はそのまま口をつぐんで、じっと空を見つめている。
「それだけ?」
私が聞くと、桜子はゆっくりと私を振り返った。
「水たまりが、あったの。」
私はがっかりして椅子の背もたれに寄りかかった。桜子は窓の外に視線を戻す。彼女はよく空を見つめる。そこに何かがあるかのように。何か見つけなければならないものがあるかのように。でも私が同じように空を見上げても、いつもと同じ空が広がるばかりだった。
また別の日、桜子は私に言った。
「バベルの塔って知ってる?」
ある日、桜子が突然読んでいた本から顔を上げて私に聞いた。
「バベルの塔?」
「うん。昔、人々が天までとどく塔を建てようとして、そしたら神様が怒って人々の話す言語を変えてしまったの。驚いた人々は世界中に散らばってしまったっていう話。」
「へぇー。」
世界史でやったような気がしないでもない。ブリューゲルの絵であったような。
「面白いね。」
桜子はじっと外を見つめた。しばらくして桜子が私を振り返り、真っ直ぐに私の目を見つめた。
「もし、人々が塔を建てなかったら、桜って何色だったと思う?」
突然の質問に私はやや面食らった。
「えーっと」
私は頭を捻った。桜子が妙に期待した面持ちでこちらを見てくるので、背中が何だかむずがゆくなった。
「どうだろ。桜色じゃないの?」
桜子はがっかりしたように視線を外に戻した。もっと気の利いたことを言うべきだったのだろうか。でも私には何が正解なのか、そのときはさっぱり分からなかった。
桜子と喫茶店の外で会ったことはない。桜子はいつも私よりも先に喫茶店に来ていて、気がついたらいなくなっていた。私が課題に頭を抱えているときとか、お手洗いのために席を立ったときとか。桜子がどこから来て、どこへ帰って行くのか私は知らない。別に知ろうともしなかった。知ろうとするだけ、時間の無駄だという気がした。
冬が過ぎて春が来て、私はなかなか喫茶店に足を運べなくなった。留学の準備のため目まぐるしく毎日が過ぎていき、それから彼女に別れを告げる間もなく、私はアメリカへ飛び立った。ようやく私がもう一度あの喫茶店に足を踏み入れたのは、最後に桜子に出会ってから一年ほど経った後のことだった。
私は少し期待して喫茶店の中を見渡した。一年経って、容姿が少し変わっているかもしれないと思い、じっくりと一人一人の顔を見つめたが、少しも似ている人はいなかった。私は少し寂しい気持ちで席に着く。そして、飛び切り甘いキャラメルマキアートを注文する。
飲み物を口に運んで、私はぼんやりと外を見上げた。澄み渡った空に、桜の花びらがひらひらと舞っている。空の奥には飛行機雲がかかっていて、多くの人をどこか遠くの地へ運んでいる。真っ直ぐに続くその飛行機雲が何故だかすごく気になって、私は長いことそれを見つめていた。
「あなたの名前、桜子じゃなかったのね。」
私は外を見つめたまま呟いた。静心なく散る桜の花は、一瞬その動きを止めたように見え、また次の瞬間には同じように宙を舞っていた。
しばらくして、私はようやく顔を店内に戻した。手にしたカップをソーサーに置こうとして、机の上に小さな金平糖がひとつ、転がっているのを見つけた。真っ白で雪のような金平糖をつまみ上げ、私はじっとそれを見つめた。それから少しして、その金平糖を口に運ぶ。
口の中いっぱいに優しい甘さが広がって、誰かが明けた喫茶店の扉から、暖かい風が流れ込んでくるのを感じた。
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