雪椿
「一番の親孝行はね、パパたちよりも長生きすることだよ。」
お父さんが妹のモモをそっと抱き上げて言った。病気のために瘦せ細ったモモの身体は、今にも壊れてしまいそうだ。
「オヤコウコウって、なあに。」
モモが首を傾げて言った。
「パパとママを幸せにすることよ。」
お母さんがそっとモモの頭を撫でた。その眼には少し、涙が光っている。
「じゃあモモは、オヤコウコウするよ。」
モモが嬉しそうに言った。
「ありがとう。優しいのね。」
お母さんが泣き出すのは時間の問題だ。
「モモ、お姉ちゃんと一緒にお昼寝しよう。」
私は三人に近寄って言った。
「はあい。」
お父さんの腕の中で、私に向かって手を伸ばすモモを抱きかかえ、私は寝室に歩いて行った。五歳児とは思えないほどの軽さで、抱き上げる度にいつもヒヤッとしてしまう。
布団に入るとモモはすぐに眠ってしまった。今日はいつもよりもお喋りだったから、疲れてしまったのだろう。
リビングに戻ると、両親の話す声が聞こえた。
「なんであの子が。」
やはり、お母さんが泣いている。
「なにも悪いことなんかしていないのに。どうしてあの子はあんなにも苦しまなくちゃいけないの?」
「でも死ぬわけじゃない。そうだろう?毎週病院に行って治療をしてもらえば、生きられるんだ。」
「だけど、外で走り回ったり、他の子と遊んだりはできないわ。」
「代わってあげられるなら、いくらでも代わってやりたいんだがね…。」
お母さんが鼻をかむ音が聞こえた。
「チカはあんなに元気なのに―」
私の名前が聞こえて、私はリビングに背を向け、自分の部屋へと戻った。
両親がモモの病気の心配をするとき、私は決まって申し訳ない気分になる。私は普通の子以上に元気で、高校はスポーツ推薦だって狙えそうなのに、モモはほとんど寝たきりだ。私がお母さんのお腹の中で、エネルギーを全部吸い取っちゃったんだ。モモが生まれたとき、そう思った。そう、思っていた。
「私、推薦されて応援団長やることになったの。」
ある日、私は家に帰って夕飯を作るお母さんに報告した。
「あと、選抜リレーの選手に選ばれた。」
「すごいじゃない!お父さんも昔から足が速かったわ。きっとお父さんに似たのね。」
お母さんが嬉しそうに言う。
「その日はモモの検査もないし、見に行けそうだ。」
お父さんが夕刊からひょっこり顔をのぞかせて言った。
「うん。」
私はワクワクして言った。中学最後にして初めて、両親が私のことを学校に見に来られるのはとても運がいいと思った。
これほどまでに運動会を楽しみにしたのは生まれて初めてだった。
運動会当日の朝、まだ起きる時間じゃないのに家中が騒がしくなって私は目を覚ました。
「モモが熱を出したの。」
起きてきた私に向かってお母さんが言う。
「チカは自分で何とかできるわね。じゃあ、お母さんたちは病院に連れて行くから。」
慌ただしく出かけていく両親を見送り、私はお弁当の準備を始めた。
仕方ないじゃない。私は自分に言い聞かせる。モモの方が辛いんだから。
洗いかけのミニトマトの上に一つ、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「この春休み、おばあちゃんの家に泊まらせてもらおうと思うの。」
夏休み直前、私は両親に向かって言った。
「おばあちゃんがね、農業体験させてくれるって言うの。」
もうおばあちゃんの許可は取ってある。親が反対しないのも知っている。
「いいじゃないか。行ってらっしゃい。」
お父さんが言った。
「きっとおばあちゃん喜ぶぞ。じいさんが亡くなってから、一人で寂しいだろうからね。」
「お義母さまがいいっておっしゃるならいいわよ。」
お母さんも言った。
「うん。」
私は頷いて部屋に戻り、荷造りを始めた。
「いいなぁ、お姉ちゃん。モモも行きたい。」
服をかばんに詰める私を見てモモが言った。
「モモもきっといつか行けるよ。」
私はモモの頭をそっと撫でた。
「ほんと?」
「うん。」
私は言った。
「お姉ちゃんが言うんだから、絶対だよ。」
「やったぁ!」
モモが笑った。
「あ、そうだお姉ちゃん、お庭の雪椿、一つ大きくてきれいなの咲いたの。」
モモが大きさを表すのに手で大きく丸を描いて言った。
「でね、そのすぐ近くの葉っぱがね、茶色くて枯れてるように見えるんだけどね、どんなに強い風が吹いてもぜぇーったい落っこちないの。」
「そうなんだ。」
私は荷造りする手を休めてモモの隣に座った。
「強いんだね。」
「うん。落っこちないで欲しいなぁ。」
「落っこちないよ、きっと。」
そう言って私は優しくモモを抱きしめた。
「モモ。」
私は言った。
「お姉ちゃんね、モモのこと大好き。」
「知ってるよ!」
モモがニコニコして言った。
「モモもお姉ちゃん大好き!」
私はそれを聞いてにっこり微笑んだ。
「親孝行、するんだよ。」
「するよ。モモ、約束したもん。」
私は小指をモモに向かって立てた。
「お姉ちゃんと、指切りね。」
「うん、いいよ!」
豆だらけの私の指が、細くて白い指と絡まった。私はその指を、そっと、ぎゅっと、握った。
「おばあちゃん。」
駅に着くと、おばあちゃんが迎えに来てくれていた。
「よく来たねえ。」
おばあちゃんが嬉しそうに言う。私はにっこり微笑んだ。
「うん。」
おばあちゃんを見て、それから澄んだ青い空を見上げて、私は言った。
「おばあちゃん、私ね、話があるんだ。」
それから真っ直ぐにおばあちゃんを見つめた。
「聞いてくれる?」
おばあちゃんは私を真っ直ぐに見つめ返した。
「もちろん、聞くさ。」
おばあちゃんが私の肩を、ポンと叩いた。
話し終わった後、二人で縁側に座り、星の輝く空を見上げた。
「おばあちゃん。」
少しして私は言った。
「私のこと、好き?」
「馬鹿な子だねえ。」
おばあちゃんが面白そうに言った。
「わたしゃ、あんたのことが世界で一番好きさ。」
「嘘よ。」
私は笑いながら言う。
「おじいちゃんがいるじゃない。」
「じいさんのことは確かに大切さ。あんたの父さんも、モモも、母さんもね。だけど、一番好きなのはあんただよ。」
なんだか涙がこぼれそうになって、私は咄嗟に星空を見上げた。
「おばあちゃんは、怖いものある?」
それから私は聞いた。
「もちろんあるさ。」
「え、ないと思ってた。」
「誰にだって怖いものの一つや二つ、あるもんだよ。」
おばあちゃんが何でもなさそうに言った。
「死ぬのは、怖い?」
ちょっとためらいがちに、私は聞いた。
「自分が死ぬのは怖くないね。」
おばあちゃんがお茶をすすりながら言う。
「そっか。」
私は答える。
「おまえさんは、それでいいのかね。」
突然、ぼそっとおばあちゃんが言った。
「え?」
「さっき言ってたことだよ。」
「ああ、あのことか。」
私はカラっと笑った。
「うん、そうしたいの。私の取り柄は、手のかからない良い子ってところだから、最後まで、それを貫きたいの。」
「そうかい。」
「おばあちゃんは、どう思う?」
私は聞いた。おばあちゃんは少し考えてから口を開いた。
「あんたの好きにしたらいいさ。」
そして、私の手をそっと握った。
「いつでもそれが、正解なんだからね。」
私は頷くと、ぎゅっと手を握り返した。モモの小さな冷えきった手とは違って、おばあちゃんのしわしわした手は温かく、安心感があった。
「おばあちゃん。」
私は横を向いた。振り返ったおばあちゃんと目が合う。
「そばにいて。」
「馬鹿な子だねえ。」
おばあちゃんがまたそう言って、しわっと笑った。
「いつまでも、そばにいるさ。」
「モモ、お姉ちゃんから手紙が来たぞ。」
お父さんがそう言って『桃花へ』と書かれた手紙を手渡した。
「わあい!」
モモが嬉しそうに手紙を開く。間から写真がはらりと落ちた。
「いいなあ、お姉ちゃん、ニンジンいっぱい採ってる。」
写真を見てモモが言った。
「おや、私たち宛にもあるようだね。」
お父さんが手紙を開いた。
「あら、ほんと?」
モモと一緒に写真を見ていたお母さんが言った。
「なんて?」
「えー、なになに。『お父さん、お母さんへ』―」
お父さんが読み始めたのとほぼ同時に着信がなった。
「母さんだ。」
お父さんが言って、電話に出る。
「もしもし、母さん?今チカから届いた手紙を読んでいるところだ。そこにチカはいる?電話に出られるかな?」
お父さんが手紙に目を通しながら言った。その後ろからお母さんも覗き込む。
「それで何か用事が―、母さん、泣いてるのか…?」
お父さんが驚いたように目を見張った。それを聞いてお母さんも不安そうな表情になる。
「あのお義母さまが泣くなんて…。」
「本当だよ。僕も初めてかもしれない。」
お父さんが困ったように言う。
「ねえ、母さん、何かあったのかい?話してくれないと―」
「あなた、この最後の追伸、どういう意味だと思う?」
「え?うーん、よく分からないな。チカは手のかからない良い子だし...」
電話の向こうのすすり泣きはだんだん弱々しくなっていったけれど、お父さんもお母さんも全く気が付いていなかった。
写真を見飽きたモモは一人、窓の近くに歩いて行く。
「あ、雪椿落ちちゃった。」
庭を見つめてモモは言った。花真っ盛りの大きな赤い雪椿が、きれいな形のまま地面に落ちていた。
「あーあ、葉っぱも落ちちゃったねぇ…。」
枝から離れた枯れかけの葉っぱは、モモの目の前でゆっくりひらひらと舞っていき、雪椿のすぐ隣に静かに落ちた。
「いいなぁ、お姉ちゃんは、元気に遊べて。」
モモは地面の上に寄り添いあうようにして並んだ、雪椿と葉っぱを見つめて呟いた。
『ずっとずっと、大好きです。
椿花より
追伸 親孝行できなくてごめんなさい』
拝啓、向後へ 大野心結 @Kokoro-Ono
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