甘く見るなよ

 そうして、カミルは行ってしまった。


 心は彼を追いかけようとしていたのに、足は止まっていた。

 そして、私とカミルの間に横たわる人生経験の差を見つめていた。私がルチア島から出ることができず、書物ごしにのみ世界に触れていた三年間に、カミルが現実の世界でぶつかってきたであろう、さまざまな壁について。


 カミルは強い。私は知っている。打たれ強くて、頭も賢い。だから、自分の出自を嗤われても受け流せるし、偏見もうまくかわせる。いつか見返してやると決意して、現在の理不尽に耐えられる。そうやって慣れていったのだ。

 慣れざるを得なかった、のかもしれない。


 私は文化資料室から出ると、静かな廊下をとぼとぼと教室に戻った。午後の授業には、もちろんカミルの姿もあったが、彼と言葉を交わすタイミングはなかった。


 代わりに、リズたちが私の席まで話しかけに来たので、私は慌ててカミルから彼女たちを遠ざけるよう、教室の外の談話のためのラウンジまで連れ出した。かといって、教室に他の友人がまだいない私を気にかけてくれるリズたちを、無下に追い返すこともできなかった。


 ……私は、なんてどっちつかずな人間なのだろう。


 カミルと視線が合わないことにやきもきし、リズたちの対応にまごまごして、放課の鐘が鳴った頃には気疲れでぐったりとしていた。


「アルバ・ルチアーナ君、ちょっといいかしら」


 エレオノーラ先生が小声で私を手招きした時も、ぼんやりして反応が遅れてしまった。

 「あっすみません、なんですか!」と教卓まで駆け寄ると、エレオノーラ先生は可愛らしく小首を傾げて、


「貴方と同室のカミル・アジャール君から、一人部屋に移りたいと申請が来ているの」


 え、と私は口を開けたまま、固まった。


「確かに上級生で、個人研究などに集中するために一人部屋に別れたいと申し出がある例もあるから、おかしな話ではありませんわ。ただ、一年生の初めの時期にそんな申請があるのは、だいたいルームメイト同士のトラブルが原因だから……」


 先生は心配そうに私の様子を見ている。私は、カミルのように外面の演技が上手くないので、気持ちが簡単に表に出てしまう。


「……やっぱり、ルチアーナ君は知らなかったのね。アジャール君は『自分が騎馬民族の慣習や異教の礼拝を部屋で行うと、ルームメイトを気味悪がらせてしまう』って言うの。自分だけ物置同然の古くて狭い一人部屋に移っても大丈夫だと主張しているのよ」


 まあ異教の風習を怖がる生徒もいるだろうし、そんな子に無理強いすることはないけど、と先生は付け加えて、


「でもそんなの、ルチアーナ君の意見も直接聞かないことには分からないですもの。どうかしらルチアーナ君、アジャール君のことは怖い?」


 ここブランシェ帝国の国教は、創世の光明神を崇めるクレール教だ。光明神クレールが司る光は、生命の源の光であり、人間にもたらされた知恵の光であり、罪を裁く正義の光でもある。

 そしてクレール教は、魔族をそんな正義の神への「反逆者」であり、神の敵と見做す宗教である。


 ……つまり、ここで私が敬虔なクレール教徒のふりをして「カミル・アジャールのような異教徒と暮らすのは嫌だ」と言いさえすれば、私は魔族の出自を上手に隠しつつ、カミルから自然に距離をとることができるのだ。


 意地悪で、ひねくれていて、幼馴染のくせに薄情で、誹りを受けやすい異民族のカミルから。


「エレオノーラ先生」


 私はもう迷わなかった。

 あれこれ考えるのも、どっちつかずもやめだ。私は自分のために動く。


「カミル・アジャールに決闘を申し込みます。彼との喧嘩に立ち会ってください」


 先生が、長いまつげで縁取られた目をまんまるく見開く。


 ――甘く見るなよ、カミル。


 私は君ほど強くも賢くもないが、君ほど意地悪でひねくれていて、薄情でもないのだ。

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