影遊び
「やっこ」
俺が遠くから手を振ると、彼は控えめに小さく手のひらをかざした。
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進学を口実に家から離れて二年。十代の最後の歳だが、幼馴染が小うるさい。
おかげで毎月里帰りをする羽目になっている。
一度、里帰りせずに逃げようとしたら電話口で言い合いになり、その月は両親と共に幼馴染の家に菓子折りを持って謝りに行ったくらいだ。
田舎というのも良し悪しで、町の人とは全員顔見知りだ。少し年配になると、俺がまだおしめをしていた頃の話まで始める始末。幼馴染も例外ではなく、鏑木佳奈子は里帰りのたびに口うるさくこういうのだ。
「佐治郎、いつ帰ってくんの?」
六月も半ばだというのに夏日。山林の盆地にある町は都会と違って死ぬほど暑い。
「大学終わったらそのまま東京出るけど」
断定口調で話すが、まだ二年生だ。就職活動は公的には四年生からだが、実際には三年生のインターンで就職先が内々定、四年生になった瞬間に内定扱いとなる。
だから、俺が東京に出ると断言できる人間はどこにもいない。
けれど、東京に出る、少なくともこの町で燻るつもりはない。
ふうん、とつまらなそうに唇を尖らせた佳奈子は、二人のマストアイテムが溶けていくのも気づかないようだった。
「アイス。溶けてる」
「えっ、嘘、ほんとだ! 佐治郎、もっと早く言ってよ!」
神社の境内で軒を借り、二人で幼い頃のように言い合う。変わったところはお互いあれど、根っこの部分は変わらないのだろうな、とも思う。
青いアイスが滴った指を舐めている彼女を見てなんとなくそう感じる。
だから、今回も一応聞いてみることにした。
「佳奈子さぁ。お前好きな人とかできた?」
普通なら、幼馴染同士のこういう会話は、双方ないし片方が相手の変化に気づいて行うものだろう。だが。
「んーん。言いつけどおり佐治郎と結婚する。そもそもここに適齢期の男なんて他にいないし」
これだ。
都会に出てわかったが、佳奈子の顔立ちはかなり目立つ。
大抵の男性は「言いつけどおり」の枕詞さえなければ小躍りで喜ぶかもしれない。
彼女は良くも悪くも古風というか、因習村みたいなこの町にかなりつよいこだわりがあるようで、ここから出ていくつもりはないらしい。
だから、俺みたいに出ていきたいやつよりも、ここで一緒に暮らそうと言える人と一緒になって欲しい。
多分、そうなったらなったで後悔する自分がいるのも見えてはいる。
可愛らしくて、俺のことを無条件で好意的に見てくれる、そんな女性。外にそんな人はまずいない。自分の身なりや人となり、氏素性が裁定され、計量される。ふるいにかけるような真似をする人までいた。幸か不幸か、恋愛事情は佳奈子の件があり、避けている。
でも彼女とこの町から本格的に決別するのであれば、外で女生と付き合っても良いわけだ。
だが、ここで彼女に向かって「俺は好きな人ができたぞ」なんてカマをかける真似はしない。それこそ不誠実だろう。
だからいつも、この会話は次の言葉で終わる。
「そっか」
「そう。待ってるからね、佐治郎」
二人で「はずれ」と木の棒を眺めて、しばしの沈黙。あと一月もすればセミの声でうるさかったろう。今はただ葉擦れの音がさわさわと寂しげにそよぐだけだ。
「なぁ。いっつも思うんだけどさ」
「なに?」
覗き込んできた大きな瞳に視線を返し、アイスのついていた木の棒を見せる。
「これ、当たったことないよな」
「そうそう当たってたら駄菓子屋のおじちゃん困っちゃうよ」
「十年以上買い続けてるんだから、一回くらい当たっても良いのになぁ」
俺が足を投げ出してつま先で陽の光を感じていると、真横から佳奈子のからからとした笑い声が聞こえてくる。
「博打は必ず胴元が儲かるようにできてんの。めげないしょげない、挑まない」
正しい。賭けなんてするもんじゃない。
彼女の笑顔を見ていると、フルリモートかそれに近い状態でできる仕事を探して、この町でのんびり暮らすのも悪くはないのかな、と思ってしまう。そうすれば少なくとも恋愛で賭けをする羽目にはならない。
「そういやさ」
日が傾いで来る前、気だるい午後。
「適齢期の男がいないって言ってたけど、やっこは?」
「ちょっと、私今年で二十歳だよ? 七つ下の子をターゲットにしたら、それはそれでまずくない?」
それもそうか。
いやでも、許嫁の幼馴染なんて因習が残る町だ。おかしなことになってもおかしくはない。
例えば、鏑木の家と我が家で許嫁を組んだとして、そこの子どもが仮に七つ違っていたら婚約破棄もあり得るのだろうか。だったらその逆もありだよな。
あれ?
「やっこ、俺と佳奈子みたいに許嫁的なのはいないの?」
「さぁ。家同士のことだから私はよく知らない。けど多分いないよ」
「なんで?」
「やっこのお母さん」
いなくなったから。たぶん。
多分て。
「なんだそれ」
「わからないの。でも、そうだと思う」
いなくなったと思う。なんだそれ。わからないのでもそうなの。
そういう幼馴染の顔は酷く他人行儀で、まるで別人に見える。
声が頭蓋というトンネルの中で反響しているみたいにこだまする。
さわりと頬を生ぬるい風が撫でる。
とろりとした温さが足元にまとわりつく。
日が。少し。かしいできた。
違和感を振り払うよう他愛もない話に切り替えて、二人で家路を歩く。大学に出る前から里帰りのときは同衾だ。当初、俺は思い切り嫌がったが、それを見た佳奈子が傷ついた顔をしてから何も言えなくなった。なんと寝酒まで出される始末だ。
鏑木のおばさんは、我が家に佳奈子を預けるときは必ず「よろしくお願いします」なんて言いながら頭を下げる。
二年も町を離れていると、そんなことはやっぱり異常だと理解が追いついてきて、けれど佳奈子を振り払うのは彼女の生き方すら否定するみたいで嫌だった。だから、きっと俺はそのうち佳奈子に手を出して、この町に居着くことになるんだと思う。
誰かの手のひらの上で踊らされている、そんな感覚。
神様が猿に理解をさせようとどこまでも走らせている。そんな錯覚。
結局、俺が行けるのは誰かの手の上、指の間止まり。
行き詰まりとは思わなかった。
境内で洗ったばかりの手を、彼女が指に絡めて来たからだ。
もしかしたら俺はとんでもなく単純なのかもしれない。
でも、まぁ──
いいか、と口に出す直前に、彼が視界に入ってきた。
今年中学に入ったというのに成長期はまだらしく、線の細い肩と胸。喉仏もまだのようで、遠目には女の子に見えないこともない。逆に言えば、男と女のどちらのようにも見えるし、見えない。
狭間の生き物。影。夕方。指と指の間。
「やっこ」
俺が遠くから手を振ると、彼は口の形を変えてから、小さく手のひらをかざした。
誰かに佳奈子と手を繋いでいるところを見られるのが恥ずかしい、そんな馬鹿げた考えで、思わず佳奈子の指を振りほどいてしまった。
佳奈子は少し不満そうな空気を見せたが、気づかないふりをしてやっこに近づく。
「しゃがんで、何見てたんだ」
辻の隅で、小さくなって。
そこには、
「影」
しかなくて。
でも、今。
「喋って──」
「たよ。影と」
影と。喋って。
やっこは少し不思議な子どもだった。
幼い時分から人と会話するのが苦手で、それでもこの町では受け入れられていた。田舎の良し悪しだ。共同体の枠組みから外れなければ後ろ指を指されることはない。むしろ、俺のほうが外れもの扱い気味だったくらいだ。
それでもやっぱり、母子家庭でいつも影と喋っている、というのは気味の悪い印象を与えていた。
だから、友達もいない。
そもそも同年代がいないのでこれも仕方のないことだと思っていたが、都会に出てから少し彼の印象が変わった。こいつは、やっこは同年代で固まっていても浮く。
影と喋るなんて、普通じゃない。
でも、俺が子どもの頃は「ちょっと変わったやつ」程度の気持ちで付き合っていたから、今でもその感触のまま会話が成立する。していると思う。そう願っている。
「やっこ、お前もう中学生だろ? 影とばっかり喋ってないで、」
「いこ、佐治郎」
ぐい、と佳奈子が手を引く。
日が傾いでいる。夕焼けが後ろから闇に追い立てられている。
俺はそのまま、引きずられるようにやっこから離されていく。
「なんだよ、佳奈子。邪険に扱わなくたっていいだろ」
「良くない。夕暮れの辻はだめ」
「んな迷信、今どき流行らないぞ」
「迷信じゃなくて」
──本当のことなの。
幼馴染は、幼馴染の顔をしたこの人物は、人の声真似をして何かを俺に告げようとしている。
「あの子は、本物なの」
「は?」
間抜けた声が口から漏れる。
いや、いくら変なやつだからって。
「やっこだぞ? あの」
「うん。私も最近までちょっと変わっただけの子だって思ってた。思いたかった」
引きずられたといっても数メートルだ。聞き耳を立てれば声が届く距離。
そんな場所で、堂々と。
「お前な、」
言っていいことと悪いことがある。そう言いたかった。だが。
「証明してあげる。ねぇ、佐治郎」
すぅ、と佳奈子は息を呑んで。
俺に、聞いてはいけないことを尋ねた。
「やっこの本名、憶えてる?」
何を。
「当たり前だろ──」
言っているんだ。そんなの、
「じゃあ、教えて」
そんなの、
「──あれ」
思い出せない。
やっこ、という音は思い出せる。口に出せる。
けれど。
苗字も。
名前も。
そして、
「どんな顔してた?」
顔すらも。
さっきまで、見ていた。見ていたはずだ。自分の影と遊ぶ、少し変わった年下で。歳が離れているから弟という感触はあまりなくて。でも父親がいないから、町の中で少し浮いていて。そして。
それ以外、何一つわからない。思い出せない。
「あの子は、駄目。喋ったら、持っていかれる」
「持って──」
どこに、誰が。やっこが、誰を連れて行ったというのだ。
「わからないの」
「わからない?」
「連れて行かれたのはわかるけど、誰が連れて行かれたのか、思い出せないの」
だから、駄目だ、と。彼女はきつくそう結んで。
慣れ親しんだ幼馴染を別人のように見てしまった自分が少し恥ずかしくなる。
こいつは、本当に俺のことを心配してくれたのだ。
だから。背中でぼそりと「やっこ」が何かを呟いたとき。
怖くて恐くて振り向けず、塊のようになってしまった両足を、無理に地面から引き剥がして。
「佳奈子。行こう」
「うん」
声に出して、安心できるものを求めて。
夜は町を覆って、空は星空の蓋がされている。都会では見ることのできない暗闇は少しだけ郷愁の念を教えてくれる。
二人で歩くのもなんだか気恥ずかしさが強くなる。お互いの足音だけが響く。
不意に、佳奈子は指を絡めて来て。
「なんだよ」
無言で握り返せばいいのに、驚いて声を上げてしまって。
「いいよね、別に」
「いいけど、別に」
誰に見られるわけでもない。
今日も結局、駄菓子屋のおじさん以外誰にも会わなかった。
人の少ない町なのだ。
うら寂しい場所だが、きっとここで骨を埋めるのだろうな、と俺は腹を括った。
異話観 くろかわ @krkw
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