第3話 迎えた朝

「トンちゃん、朝よ? 起・き・て」

「ふあっ!? びっくりした!」

 俺の眼前には、相変わらず映えない魔王の顔。魔王は寝ている俺の頬を突ついていた。

「昼寝のつもりが、しっかり寝ちゃったわね~」

「……そ、そういえば」

 俺はおでこの辺りに触れる。そこには乾燥したよだれがあった。

「もう魔王とは寝ない! よだれは垂らすし、いびきはうるさいし!」

「アラ、そうだったの。それもアタシのチャームポイントね!」

「どうしてそんな風に前向きなんだ……?」

「ウフッ、アタシは魔王、この世に君臨する魔族の王よ! 怖い感じでしょ! そんなアタシの、いびきとか……ギャップが最高じゃないの!」

 この魔王には何を言っても無駄らしい。俺が溜め息をついていると、寝室のドアが控えめにノックされた。同時に静かで、でも鈴のような声。

「魔王様、トン様、お目覚めですか……?」

「起きてるわよ~! 朝の支度を頼むわ」

「はい、ここに」

 少し音を立ててドアが開いた。まずはメイド、それから二台のワゴンが入室してくる。

 それぞれのワゴンの上の段には、銀色の洗面器、タオル、ブラシが存在していた。下の段には衣類が見える。

 魔王は手慣れた様子で顔を洗い、寝ぐせで乱れた髪を整えていた。その後、ローブを脱ぎ着替えを開始したのだが、よくもまぁだらしない全裸をメイドに晒せるものだなと思う。

「トン様、こちらをお使いください」

 魔王をじーっと見ていたので、すっかり自分の事を忘れていた。でもまぁ、見ていたからこそ解る。魔王がやっていたように、俺も身づくろいすればいいのだ。

 さて、まずは洗面器。手を浸してみると、何かの花の香り。おそらく香油を使ったぬるま湯が入っていた。

(ちょうど良かった)

 魔王のよだれが不愉快だったので豪快に洗うと、俺のモフモフはべしょべしょだ。タオルで拭き取っても濡れているが、よだれとサヨナラ出来たのは幸いだった。お次はブラシで頭をチョイチョイして、俺は自分で着替えて終わり――と思ったら全然違った。

「待ってくれ! 俺は一人で出来る!」

「トンちゃんのブラシ係はアタシ!」

「ぎゃああああ!!」

 俺は裸に剥かれてモフモフというモフモフをブラッシングされた。大事なところだけ断固拒否したのは、我ながら頑張ったと思う。

「……長年一緒にいるけど、初めての反抗期かしら、アタシ寂しい」

 大いに憂いている魔王がちょっとだけ可哀想だったので、着方が判らない獣人用の服について尋ねたら大喜びしている。

「これはね! 尻尾をこの穴に通せば簡単なのよ~!」

「ふむふむ……へぇ、ずいぶんカッチリしたスーツだな」

「トンちゃんが普段着ている服よ。黒いタキシードとネクタイ、白シャツ……っと、いけない、懐中時計と靴もあったわね」

 そういえば俺は執事だった。つまりこのタキシードは俺の制服と言っていい。それが用意されているという事は。

「……俺の記憶は戻っていないが、仕事をした方がいいのか?」

「そうねぇ、執事の真似をしていたら思い出したこともあったし、だからメイドがタキシードを用意したんでしょ。でも好きになさい。服装も私服で構わないわ」

 私服がどういう物か判らないけれど、タキシードよりは気楽に決まっていた。でもまぁ何というか、俺の制服だっただけあって、このタキシードはしっくり来る。目覚めとやらを促進するのにも一役買いそうだ。なので――。

「真似でもいいから仕事をする」

 俺は魔王にそう言っていた。紫色の日向でぼーっとしていても良かったが、まぁすぐ退屈しそうであるし。

「とりあえず俺は何をすればいい?」

「そうねぇ……朝食の時に、後ろからアタシをじろじろ見張ってるとか、その辺り?」

「解った」

「アタシとしては、トンちゃんと食卓を囲みたいんだけどねぇ」

「後ろで立っているのにも、何かしら意味があるんだろう」

「……そうかしら?」

 首を傾げる魔王。そこに新しいメイドがやってくる。

「魔王様、トン様、お食事の準備が出来ております」 

「アラありがと! ほらトンちゃん、行くわよ~」

 颯爽と歩き始めた魔王のあとを付いていく。ダイニングで、俺は後ろからじろじろ見る係。だとしたら、俺の食事はいつになるのだろうか。

 その謎はすぐに解けた。朝食後、広いリビングに移動した魔王が、うとうと二度寝したのだ。

 俺はその間に食事。サクサクしたギャスパラのマルメム巻きと、焼き立てのパムが美味だ。

「お待たせしました」

 タイミングよく食後の飲み物を持ってきたメイドに、俺は自分の事を尋ねてみる。

「この後、普段の俺はどうするんだ?」

「事務室へ行かれます」

「案内してくれるか?」

「はい、勿論でございます」

 ぺこーっとお辞儀するメイド。俺が教育したのかもしれないが、ちょっと仰々しい。

(でもまぁ、今の俺が口を出す事じゃないな)

 そう思いながら、メイドの後に付いて歩く。


 事務室は二階、寝室の傍にあった。どっしりした扉を開けると、これまた重厚な机と豪勢と言えるインテリア。俺の銅像もあるのは止めろ本当に。その他は書棚が多い。

 俺はてこてこ歩いて机に向かう。座り心地の良さそうな椅子が見えたので、じゃあ早速と思ったら違った。

「あの、トン様の事務室はあちらになります」

「ん? じゃあこの部屋は何だ?」

「魔王様の執務室です」

「なるほど、執事が使うには豪華だと思った――で、俺の事務室はどこだ?」

「こちらでございます」

 メイドが書棚の脇にある扉を指し示す。なるほど、執務室の一角に俺の仕事部屋があるわけだ。魔王の仕事をサポートするのだろうから適所と言えた。

 メイドが扉を開けてくれたので、俺はそのまま事務室に入る。そこで驚いたのだが、事務室は魔王の執務室の半分、いやそれ以上のスペースが確保されていた。ただ、机がドン! インテリアがジャン! みたいな魔王の執務室とは違い、実務的な雰囲気に包まれる。それでも十分に立派な部屋だった。書棚なんかは魔王の部屋よりも多い。一風変わっていたのは部屋の奥で、魔王が着ているローブや俺のタキシードの替えなどが吊るされている。まるで洗濯屋みたいだ。でもまぁメイド曰く、魔王が出掛ける際には、俺が完璧にコーディネイトするそうなので――メイドには任せられないという事か。なるほどなぁとも思う。試しに引き出しの中身を見たら、ぴかぴかの靴やアクセサリーの類が入っていた。

(魔王は映えないのに無駄な事を。いや、映えないからこそ、せめてもの抵抗をしているのかもしれん)

 一応の結論を得た俺は、椅子に座り、その辺の書類などを見てみる。手書きのソレは、えらい達筆で驚いた。俺が書いたんだろうか。そうメイドに尋ねたら俺の筆跡で間違いないらしい。この肉球でこの文字を綴るとは――やるな、俺。ブサいけど。

 フフン、もしくはニチャァと笑んでいたところ、いきなり事務室のドアが開いた。

「トンちゃーん! 今日は人間界に行くわよ!」

「人間界? 一体どこへ?」

「秘密! トンちゃんを驚かせたいから――ところでトンちゃんコーディネイトできる?」

「いや全然」

「じゃあ、ここにいるメイドに頼みましょ。よろしくね」

「は、はい!」

 いきなり言いつけられ、メイドが驚いている。よく見れば若い子だし、もしかしたら初めての経験かもしれない。俺が出来ないばっかりに可哀想だ。申し訳ないけれど記憶が戻るまでは、もうちょっと人選を考えたメイドのお世話になろう。

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