花束

藤袴――優しい思い出、ためらい


ꕤ︎︎ ꕤ︎︎ ꕤ︎︎


「いらっしゃいませ」


 少年が店の奥のキッチンから顔を出して言った。開いた扉からは美味しそうなかぼちゃの甘い匂いがした。


「掛けて待ってて貰えますか、今、ちょっといいところで...」


 真船がカウンターに座ると白い箱が目に付いた。綺麗に包装してある。


「仮面、完成したんですか」


「はい。なんとか間に合いましたね」


「間に合う?」


 少年はオーブンを開け、パイを取り出した。


「こっちも完成です!」


「かぼちゃのパイですか」


「はい。でもその前にこれを開けてください」


 白い箱を開けると薄い紫の仮面に花の彫刻が施されていた。自分で注文したくせに胸が苦しかった。


「紅藤色っていうんです。ツノさんにぴったりだと思います」


 真船は早速仮面を着けた。すうっと自分が透明になるのがわかった。歪んだ顔は少年から隠れただろうか。


 さて、もうこの店には用はない。また私は透明に戻り、いつもの暮らしを繰り返す。少しだけ寂しいような気がした。


「それじゃあ、ありがとうございました」


 津野との約束の時間まではかなりあるが、ここにこれ以上いたら自分が仮面をつけていることへの不自然さに気づいてしまうような気がした。


「あ、ちょっと待ってください」


 少年は真船を呼び止めた。そしてカウンターの下から1束のそれを取り出した。


「ライラックは売ってなかったので、紫の藤袴を贈ります。誕生日おめでとうございます」


 真船は息を呑み込んだ。ただ、馬鹿みたいに綺麗だと思った。


「……どうして知っているんですか」


 やっと絞り出す。


「一度、そんな話をしたじゃないですか」


「覚えてたんですか」


 彼は当たり前のように続ける。


「もちろんですよ。見てます。あなたには、素敵な色が付いてるんですから」


 視界がぼやけて雫が落ちた。


「ちゃんとお金は払いましたか」


「もちろんですよ」


「ちゃんとお礼は言えましたか」


「はい。―ツノさん、どうして泣いてるんですか?」


 真船は眼鏡を外した。彼と自分の虹彩を遮るものが煩わしかった。仮面を外した。


 彼は微笑んでいた。――色が付いてる。


 店も、彼も、花も、私も、色がついている。


「眼鏡も調子悪いですか?」


 あの日の言葉を思い出す。


 誰にも理解されないままで、透明になりましょう。


 そんなことしなくてよかったんだ。あなたが透明を望むなら、私はその補色になればよかったんだ。二人で透明を不器用に目指さなくてもよかったんだ。


 ねえ、今、やっとわかったよ。他人の色を認める。それだけでよかったのに。


「うん、調子悪い」


 眼鏡を握ったまま真船は笑った。少年も満足そうに笑った。


「それで、仮面は要りますか」


「……本物の職人さんが品質を保証してくれないと心配で使えませんね。今日は受け取らないで置くので、次来る時まで預かってて貰えませんか」


「はい、承りました。パイとお茶をしていきませんか?もちろん、サービスで」


「いただきましょう。―お礼に、昔話を一ついいですか?」


 お茶の良い香りが店いっぱいに広がっていった。

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