第54話 俺のだ
黒とワインレッドのカーテンが開かれ、文化祭最後の上演が始まった。
演劇の題名は『愛故に叫ぶ男』。俺や奈霧を始めた登場人物の名前は変えられている。文化祭には一般人も足を運ぶ。外を歩いて絡まれるのも面倒だ。身バレ防止の策を
内容も少し改変されている。プロの演者ならともかく、素人の学生が小学生を演じるのは精神的にきつい。年齢は引き上げられて、俺にトラウマを植え付けた出来事は中学生時代に起きたことになった。
俺は体育館の檀上に靴裏を付けて、過去の自分を演じる。
暗闇を
場面は復讐を越えた。佐郷こと佐坊を破滅させ、俺こと
劇の終わりは近い。このまま何事もなく終わるんじゃないか? 淡い期待が胸の内から湧き上がる。
そんな時だった。階段を踏み鳴らす音に遅れて、一つの人影が躍り出る。
佐郷だ。闇を暴く照明の下、幼馴染が口端を吊り上げてポケットに腕を突っ込む。
俺は目を見張る。
ポケットから引き抜かれた手には、折り畳みナイフが握られていた。グリップに隠れていた銀色の刃が伸ばされ、上から降り注ぐ温かな光をギラリと反射する。
「よぉ市ヶ谷ァ、宣言通り来てやったぜ」
心臓がバクバクと激しく鼓動を打つ。
早く
俺は口元を引き締めて、靴裏を床に押し付ける。
ここで逃げたら、来年も同じことが起こる。学校が佐郷を入れないようにしたところで、敷地内に侵入する方法なんていくらでもあるんだ。今度は俺以外の人に危害が及ぶかもしれない。
俺は両の拳をぐっと固く握り締める。深く空気を吸い込み、次の台詞を思い出して喉を震わせる。
「お前は、佐坊! どうして新宿の街にいるんだ⁉」
こんな台詞はない。俺のアドリブだ。
カーテンの裏に隠れたクラスメイトが、近くの友人と顔を見合わせる。
俺のアドリブがなくても、観客席の方から話題の悪人が躍り出てきたんだ。クラスメイトの頭の中は疑問符で埋め尽くされているに違いない。
ナイフが取り出されたわりに観客は落ち着いている。俺が演技に徹したことで、佐郷の登場も演出か何かだと思ってくれたようだ。凝ってるなぁ、高校生の演劇なのに。そんな言葉が耳に入る。
佐郷はぽかんとしていた。
「さ、ぼう……新宿? 何言ってんだお前?」
呟いて、佐郷の顔に再びニヤついた笑みが浮かぶ。
「なるほど、あくまで演劇を続ける気か。小学校で散々殴られたくせに、お前はあの頃と変わらず負けず嫌いなんだなぁ。いいぜ、後悔させてやるよ。今からその憎たらしいツラに縦線入れてやる。お前も、その他も、観客も、鏡やナイフを見るたびに今日のことを思い出すんだ。震えろよ、一生消えない傷を
俺は全身に力を入れる。
すぐに筋肉を弛緩させて体をほぐし、意識を前方に集中させる。
喧嘩は得物を持っている方が圧倒的に有利だ。リーチの拡張もさることながら、ナイフでの攻撃は殺傷力が高い。致命傷を避けても、切り傷や痛みが意識を拡散させる。そうなれば劣勢は免れない。
初撃だ。初撃さえどうにかすれば俺にも勝機はある。
「さぁ、
佐郷が床を蹴った。狂気に染まった顔が迫り、折り畳みナイフを握る右手が振り上げられる。
佐郷はミスを犯した。顔に縦線を入れると、言葉に出して宣言した。
すなわち狙いは顔。攻撃手段は腕を掲げてからの振り下ろしだ。首を狙わない辺り、堕ちるところまで堕ちても殺人者まで堕ちるのは御免らしい。
その保身こそが勝機。俺は右足を引いて半身を下げ、振り下ろされた刃を眼前でやり過ごす。
「チッ」
佐郷が右手首を返して刃を天井に向ける。
俺は振り上げと読んで軌道上に腹を入れる。
「ぐっ⁉」
口から
鈍い痛みに顔をしかめる中、カーテンの向こう側で悲鳴が上がる。声が抑えめだったのは、演劇の前に俺が言ったことを覚えていたからだろうか。あるいは、芳樹がクラスメイトの口を塞いでくれたからか。
佐郷が目を見開いて数歩後退する。
「な……何してんだよお前、あり得ねえって。普通腕だろ? 腹で受ける奴があるかよ、ヘヘッ……俺は無実だぁッ!」
佐郷が頭を抱えて俯く。殺人に繋がりかねない結果を嘆く。
今、俺への警戒は完全に解かれた。
チャンスと踏んで床を蹴る。佐郷の後退で広がった距離を詰め、ナイフを握る右手目掛けて靴裏を突き出す。
佐郷の手から得物が離れた。凶器が壇上を跳ねる様を見届けることなく、俺は脚を引いて左腕を突き出す。
顔面を狙った突きが左の前腕に止められた。佐郷が顔をしかめて飛び退く。
「なん、でだ……何で動けるんだお前ェッ⁉」
「ガムテープって重ねて巻くと頑丈なんだよ。覚えとけ」
視界の隅で腕が伸びる。芳樹がナイフを回収してカーテン裏に引っ込んだ。
これで佐郷は得物を失った。肉弾戦なら空手を習った俺に
「クソがああああああああああああッ!」
佐郷が腕を振りかぶる。
いつぞやのストーカーと変わらない単調な攻撃。明らかに喧嘩慣れしていない動きだ。不良と関係を持ったと聞いたけど、手荒なことは他の人員に任せていたのだろう。自身が手を汚さないやり方は実に佐郷らしい。
俺はカッティングを交えて攻撃の隙をうかがう。
佐郷の動きは素人同然。明らかに体力の配分を考えていない。ばてて動きを鈍らせるのが目に見えている。
その時が拘束するチャンスだ。銃刀法違反に傷害罪。警察を動かすネタには十分だろう。
佐郷が悔し気に表情を歪ませる。
「いっつも、いっつも、いっつもッ! お前は俺の邪魔ばかりしやがってッ!」
「俺がいつ邪魔をした?」
「とぼけんじゃねえッ! 奈霧は俺のだった、俺が抱くはずだった! 俺が先に目を付けてたのに、それを横からかっさらったのはお前だろうがッ!」
また人を物扱い。
小学生の時も、高校生になってからも、この期に及んでさえ変わらない。
胸の奥で何かがチリついた。
この感じには覚えがある。復讐に燃えていた時のあの感覚だ。
数か月前に鎮火したはずの憎悪がぶり返す。憎しみの炎に当てられて、黒に染めた髪が金色に戻る錯覚すらある。
壊したい。
眼前でイキり散らす馬鹿をぶん殴って、マウントポジションを取って涙と血でぐちゃぐちゃになるまでボコボコにしてやりたい。ナイフを手放したこいつ相手なら十二分に実行可能だ。
俺は佐郷の手首を叩く。突きの軌道を逸らして
歯を食いしばった佐郷と目が合う。
その表情には不思議と見覚えがあった。憎しみと憤怒に濡れたこの表情、果てさてどこで見たんだったか。
「あ」
思い至った。これは俺の顔だ。
奈霧のロッカーに手紙を入れる
これでは、駄目だ。
そんな直感に頭の中を漂白された。頬に走った衝撃で我に返り、後ろに下がって仕切り直す。
殴られたおかげか、脳内に閃くものがあった。
「やっと分かってきたよ。小学生の時から、君とはどこか話が噛み合わないと思っていたんだ。どうして君は、いつも奈霧を自分の所有物みたいに話すんだ?」
「何度も言ってんだろ! 奈霧は俺が――」
「先に見つけたって? だから自分の女にする権利があると? 笑わせるなよ。相手を選ぶ権利は奈霧にも有る。君は奈霧に選ばれなかった、現実を見ろ」
「黙れッ!」
俺は身を翻して大振りをかわし、引きの遅い腕を取って関節を極める。顔の近くでくぐもった声が漏れた。
「そもそも君は、奈霧に何をしてあげた? 計算高い君のことだ、どうせ好かれるためにポイント稼ぎでもしたんだろう。奈霧のことなんてこれっぽっちも考えずに、良かれと思ったことを押し付けたんだろうが。そんなもの届かなくて当たり前だ」
「なら、てめえは違ったってのか? 奈霧の好みは、向こう見ずな馬鹿だったとでも言うつもりかよ!」
「本当に何も分かってないな。頭の良し悪しなんて関係ないんだよ。立ち向かう背中に歩み寄って、無言で肩を並べるだけで良かったんだ」
奈霧と仲良くなるきっかけになった喧嘩は、お世辞にも接戦とは言えないものだった。尻尾を巻くのが利口なのは、子供の目にも明らかな状況だった。
それでも俺は逃げなかった。相手に苛立っていたこともあるけど、上級生に挑む背中を残して走り去ることに強烈な抵抗を覚えた。
俺は身の安全と天秤に掛けて、奈霧と一緒に戦い抜く道を選んだ。利口ではなかったにせよ、その選択が好意を向けられることに繋がったのは間違いない。
「なのに君はどうだ? 隙あらば人を物扱いして、
「黙れええええエエエエエエエエエエエッ!」
佐郷が拘束から逃れようと
関節技は得意じゃない。俺は左脚を曲げて目元を蹴り上げ、一時的に視界を奪って次の打撃に繋げる。
もう佐郷に体力は残っていない。俺は攻勢に転じてラッシュを掛ける。佐郷がよろめいたのを見て、すかさず右脚を軸にして左腕を引く。
後ろ回し蹴りが
「くそ、が……ッ」
悪態をつきながらも、佐郷の体は微動だにしない。
ここに勝敗はついた。
「いいか、よく聞けよ」
この騒動に幕を引く。そのために空気を深く吸い込み、声を張り上げる。
「奈霧は、俺のだあああアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
まぶたをぎゅっと閉じて拳を握る。全身の力を絞り出して、三ヶ谷としての最後の台詞を響かせた。
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