第55話 誓い


 や ら か し た。


 俺がやらかしたことに気付いたのは上演後だった。カーテンコールを済ませて戻るなり、クラスメイトに生温かい視線を向けられた。男子はニヤニヤして、女子は黄色い声を上げた。理由を聞いたら芳樹から茶化されて、俺はようやく自分がやらかしたことに気が付いた。


 俺は体育館から逃げた。教室に着くなり私服を脱いで制服に着替え、自分の荷物をまとめて速やかに教室を後にする。人気のない廊下を疾走し、人目を忍んで昇降口に踏み入る。


 思わず目を見張る。


「あ、実行委員の仕事忘れてた」


 頭からサーッと温かみが引くのを感じた。


 文化祭実行委員には後始末がある。校舎内のごみを拾ったり、出し物のセットを片付けたりと作業には人手がいる。


 今頃他の実行委員は作業に当たっている。文実仲間に背を向けて帰るか、戻って赤っぱじに耐えながら作業に取り掛かるか。二つの選択肢が心の天秤をグラグラさせる。


「やっぱり来たね」


 心臓が口から飛び出すかと思った。

 バッと振り向くと、廊下にたおやかな姿が佇んでいた。


 喉が渇く。何か話さなきゃと思うのに、思考がぐるぐるしてまとまらない。


 公開告白は聞かれてしまっただろうか。直接耳にはしていなくとも、友人経由で俺のやらかしを聞いた可能性がある。痛いところを突かれる前に言うか? 俺は羽桐はぎりと叫ぶつもりだった、間違えただけなんだと。


「帰るの?」


 問われて天秤が傾いた。俺は観念して肩を落とす。


「戻るよ、文実の作業があるし」


 奈霧も実行委員だ。作業せずにこんな所にいる辺り、俺を探す役割でも担わされたに違いない。今さらではあるけど、完全にサボって心証を損ねるよりはマシか。


「手伝いはしなくていいってさ」


 俺は目を瞬かせる。

 あまりにも都合のいい言葉だ。何か裏があるんじゃないかと勘繰ってしまった。


「誰がそんなこと言ったんだ?」

「会長だよ。菅田先輩がお願いしてくれたの。エンディングセレモニーまでは自由に動いていいみたい。その、積もる話もあるだろうからって」


 奈霧が視線を逸らす。

 一難去いちなんさってまた一難いちなんだ。早速自分がしたことに向き合わざるを得なくなった。


「釉くん、少し歩こうよ」


 奈霧が背を向けて廊下に踏み出す。

 逃げ出すわけにもいかない。俺は渋々後に続く。


「壇上での格闘凄かったね。釉くんがあれだけ動けるなんて知らなかったよ」

「中学の頃に空手をやってたからな」


 佐郷の身柄は警備員を介して警察に引き渡される。じきにパトカーが駆け付けるだろう。演劇を観た観客は、佐郷の介入をパフォーマンスか何かだと勘違いしていた。警察の人が来たらギョッとするかもしれない。


「中学の頃、ね」

「意味有り気な言い方だな。何か気になることでもあったのか?」

「うん。もしかしてなんだけどさ、空手って私が逆上した時の備えだったりする?」

「それは……」


 言い訳が思い付かずに言い淀む。


 奈霧の予想は当たっている。入学当初は奈霧を復讐の対象と定めていたし、自棄になって襲い掛かって来た時には空手で沈めるつもりだった。奈霧に拳を叩き込めたかどうかはさておき、そういうプランを立てていたのは事実だ。

 

 小さな笑い声が廊下の静寂をかき乱す。


「ごめん、ちょっと意地悪言った。でもその備えでストーカーを撃退できたと考えると、釉くんに誤解されたことも無駄じゃなかったね」

「そう言ってもらえると助かるよ」

 

 俺は苦笑いするしかない。状況が違えば、暴漢を沈めた一撃を受けるのは奈霧だった。誤解されていたことを知って恐怖を覚えなかったわけがない。展望台で見せられた怯えの表情は今も鮮明に思い出せる。


「私ね、釉くんが庇ってくれた時に小学生の頃を思い出したの。覚えてる? 私が犬に吠えられて動けなくなった時、釉くんがそっと手を引いてくれたよね。ストーカーの前に立った背中が、あの頃の釉くんに重なったんだ」

「だからあの時俺の名前を呼んだのか」

 

 奈霧が振り向いて目を丸くする。


「聞こえてたの?」

「ああ、距離が近かったからな」

「それなら勇気を出して聞けば良かったかな?」

「どうだろう。水族館で昔話を聞かされたから逃げたわけだし、廊下で問われてもすっ呆けて終わったと思うぞ」

「そっか。じゃあ水族館に行って良かったんだね」

「クラゲも見れたしな」


 踊り場を経て新たな段差に足を掛ける。窓から差し込むオレンジの光が温かい。まるで俺達を労ってくれているみたいだ。


「ごめんな、あの時は逃げ出して」

「いいよ、終わったことだし。でも待ち合わせをすっぽかされた時はさすがにこたえたかな」

「待ち合わせ?」

「ほら、図書館とファミレスだよ。加藤さんがセッティングしてくれたでしょ?」

「あーいや、あれはちゃんと」


 時間前に来ていた。

 そう告げようとして口をつぐんだ。過ちを洗いざらい吐き出しても得することはない。先輩に教えてもらったことだ。知らぬが仏、知るが煩悩。この世には優しい嘘というものがある。


「もしかして来てたの?」

「……はい、テーブルの下に隠れてました」


 罪悪感に負けて白状した。先輩の教えを、こんなよこしまなものでけがすことははばかられた。


「テーブルの下って、え? 何でそんな所に?」

「奈霧が見えたから隠れなきゃと思ったんだ。隙を見て脱出しようと思ったんだけど、そのテーブルに奈霧が来て、そのままと言いますか」


 奈霧が振り向いて足を止める。栗色の瞳がすぼめられ、白い頬に仄かな茜色が差す。


「……えっち」


 ぎゅわっ! と噴き上がるものがあった。


「ち、違う! 邪な考えがあってテーブルの下に隠れたわけじゃない! それは信じてくれ!」

「そこまで疑ってるわけじゃないけど……見たの?」

「見てない。天地神明てんちしんめいに誓う」

仰々ぎょうぎょうしい言葉を使うところが怪しいなぁ」

「本当に見てないんだって!」

 

 それは事実だ。俺は自分に打ち勝った。形のいい太腿は見たけど、それだって凝視したわけじゃない。奈霧の懸念は事実無根だ。


「ま、そういうことにしてあげましょうか」


 実際そういうことなんだけどな。口を突きかけたその言葉を呑み込み、廊下の床に靴裏を付ける。


 奈霧が立ち止まる。俺と並んだのを機に、再び階段に足を掛ける。もしや今の話でのぞきを警戒されたのだろうか。可能性が脳裏をよぎって、お風呂でのぼせたように頬が火照る。


 俺は仕切り直しの意図で咳払いする。


「どこまで行くんだ? できれば教室には戻りたくないんだけど」

「気恥ずかしいんでしょ? 分かるよ、私もすっごく居辛いづらいもの」


 声は嫌味成分たっぷりだった。体育館で公開告白した俺は言わずもがな、奈霧も大衆の面前で『俺の女』呼ばわりされた。元々俺達の関係は注目されていたのに、今回の件で周囲がさらに色めき立った。おめおめと教室にも戻れない。


「俺は頑張ったと思うんだ」

「そうだね、凄く頑張ったと思うよ。最後は明後日あさっての方角に猛ダッシュしたけど」


 その物言いにむっとした。こみ上げるもやもやを抑え切れなくなって口を開く。


「それを言ったら、奈霧だって努力の方向性を間違えたじゃないか。芳樹に仲裁ちゅうさいを頼まずに、直接俺のクラスまで来ればよかったんだ」

「よく言うね。校舎で私を見るたびに逃げてたくせに」

「仕方ないだろう、君に合わせる顔が無かったんだから。いじめられた時の経験も照らし合わせて、視界に入らないのがベストだと思ってたんだよ」

「それは釉くんの考えでしょう? 結局は、面と向かって私に聞く勇気が無かっただけじゃない」

「加害者の分際ぶんざいでそんなことできるわけないだろう⁉」

「難しくてもやるのが加害者の責任でしょう⁉」


 互いに言葉をぶつけ合って廊下を賑わせる。


 口喧嘩を交わす内に屋上まで辿り着いた。ひんやりとした外気に身を晒し、熱くなった頭を風に当てて冷やす。

 

 屋上はがらんとしていた。天文部の写真がボードに貼り付けられていたはずだけど、今はボードごと撤去されて跡形もない。


「私達、変わらないね」

「そうだな」


 小学生の時も、どうでもいいことで奈霧と口論した気がする。佐郷の暗躍がなくても、いつか大喧嘩して疎遠になった可能性は否定できない。


「関係が変わっても、このままかもしれないね」

「そうかもな」

「私達、上手うまくやれるかな」

「できるさ。悪意で引き裂かれても、俺達はこうしてめぐえたんだから」


 和解した現在でも口論は絶えない。何かがきっかけで決裂することもあり得る。


 それでも俺達は肩を並べて立っている。けじめを付けて関係をっても、心の奥底では共に歩む未来を思い描いていたからだ。その気持ちを互いに抱き続ける間は、何度ぶつかり合ってもまた歩み寄れる。俺はそう信じている。


 俺は幼馴染を正面に据える。


 空気の変化を感じ取ったのか、奈霧も体の向きを変える。


「壇上では勢いで告白しちゃったけど、あの気持ちに嘘偽りはない」

「自分で言うのも何だけど、私結構面倒な女だよ?」

「知ってる」

「きっと喧嘩もするよ。ちょっとしたことでねたり、ふとした弾みで言っちゃいけないことを言うかもしれない。そんな私でも、いいの?」


 俺は力強く頷く。


「それでも奈霧がいい。奈霧じゃなきゃ、駄目なんだ」


 初恋が悲惨な形で終わっても、眼前の幼馴染は曲がらなかった。過去にとらわれずに今を生き、未知を恐れず服飾の世界に手を伸ばした。


 素直に格好良い。尊敬できる。


 同時に悔しいと思うからこそ、俺も負けたくないと奮起ふんきできる。復讐に囚われて時間を無駄にしても、そのことで不貞腐ふてくされることなく前を向ける。そんな相手は奈霧だけだ。他にはいない。

 

「奈霧こそいいのか? 俺はわるだぞ。変な異名がくっ付いてるし、最近一部の女子を敵に回したばかりだ。変なトラブルに巻き込まれるかもしれない」

「いいよ。釉くんが誤解されやすいことは知ってるもの。そういうことをわざわざ言ってくれる生真面目きまじめさも、不器用だけど優しいところも大好きだから」

 

 奈霧がふっと微笑む。


 俺は一歩前に出る。そっと腕を伸ばして、華やかな笑顔を抱き寄せる。


「私のこと、離さないでね」

「離さないよ。もう、二度と」


 互いにくちびるを突き出して口付けを交わす。


 夕焼けの下、高所にて。


 シチュエーションの類似がトリガーになって、渋谷スクランブル交差点を見下ろした時のことが脳裏をよぎる。


 当時も、あの瞬間こそが人生において最上の時だと疑わなかった。今も同じことを思うけど、これから先も最幸さいこうな思い出が更新されていくのだろう。


 だとしても。


 今腕の中にある温かさを、くちびるから伝わる瑞々みずみずしい感触を、そして泉のごとく湧き上がるこの幸福感を、俺は一生忘れない。

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