4章
第56話 市ヶ谷の女
文化祭の後処理はつつがなく終了した。エンディングセレモニーを終えて、文実のメンバーだけでお疲れ様会が行われた。
奈霧と二人で会場を訪れた時には、やたらと生温かい視線が集まった。
菅田先輩に至ってはニマニマしていた。奈霧と口付けを交わす時間を得られたのは菅田先輩のおかげだ。恩義があるから強い態度に出られず、居心地の悪さを
そんな奈霧にも、ついに異名が付いた。
「おーい市ヶ谷さーん! と市ヶ谷の女!」
「奈霧です! 私には奈霧って名字があるんですけど⁉」
亜麻色の髪が
奈霧は俺のだ! と公開告白をしたことで、奈霧には『市ヶ谷の女』という二つ名が付いた。東京に市ヶ谷駅があるから、呼称の響きが団地妻っぽくて気に入らないらしい。俺は満更でもなかったけど、その内心を顔に出したら怒られた。反省した。
菅田先輩が自身の後頭部を撫でる。
「ごめんごめん。奈霧さんの反応が可愛いもんだから、つい」
「勘弁してくださいよ、もう」
奈霧が小さく息を突く。
同じ執行委員として連携したおかげか、奈霧と菅田先輩の間には奇妙な縁ができている。奈霧も菅田先輩に可愛がられているようだ。
「釉くん、顔がニヤついてる」
栗色の瞳がすぼめられた。
俺はポーカーフェイスに努める。
「失礼だな、俺は微笑ましいと思って見てただけだ」
「恋人がいじられる様を見るのはそんなに楽しい?」
「いや、単純にいじられ仲間が増えたから嬉しくて。やっと俺の負担が減る」
「そっち⁉ いじられる恋人を守るとかないの⁉」
奈霧に目を見張られ、俺は視線を逸らして逃げる。頬に突き刺さる恋人の視線が痛い。でも菅田先輩にいじられるのは俺だけだったし、たまには他の人がいじられてもいいと思う。
一方で、ほんの少しだけ寂しさを感じなくもない。だから奈霧は鬱陶しい目に遭うべきなんだ。多分。
「ふーん」
思わせぶりな声が聞こえた。菅田先輩だけでなく、波杉先輩もほぉーと合点したような吐息を漏らす。
「何ですか先輩方、その反応は」
「奈霧さんの前だと、市ヶ谷さんはそんな風になるんだなーと思って」
「俺はいつもこんなでしょう?」
「違うよー。私達だけの時はもうちょっと慎ましいというか、私達を立てようとするじゃない?」
「そうそう、普段はもっと固いよね。カチンコチンとはいかないまでも、カッチコッチみたいな」
「それカチンコチンと何が違うんですか?」
「あっちとこっちくらい違う」
「そだなっ」
「よく分かりませんけど、先輩方には色々とお世話にもなりましたし、俺が二人を立てるのは不自然じゃないと思いますよ」
先輩方が目をぱちくりさせる。二人で顔を見合わせ、再度俺と視線を交差させる。
「もしや市ヶ谷さん、尊敬してたの? 私達を?」
「まあ、多少は」
告げて、頬が微かに熱を帯びる。思い返すと、眼前の二人に直接敬いの念を告げたことはなかった。
俺はバツが悪くなって視線を逃がす。
「お、もしかして照れてる?」
「照れてません」
「顔赤いよ?」
「耳たぶ熟れてる! 美味しそー!」
「熟れてません!」
羞恥に負けて声が張り上がった。
てか美味しそうって、まだご奉仕プリンを諦めてなかったのか。何にでも興味を示すのは波杉先輩の長所だけど、可愛い後輩としてカニバリズムだけは阻止しなければなるまい。
「凄く親しそうですけど、先輩と釉くんって旧知の仲だったんですか?」
「うん。言ってなかったっけ? 私達放送部に属してるの」
「ってことは、かなり前からの付き合いじゃないですか」
「そそ。卵プリンの時からだし、知り合ってから半年以上になるかねぇ」
波杉先輩が腕を組み、感慨深そうにウンウンと頷く。
「俺の頭をプリンに例えるのやめません?」
「ん? おっと失敬、今は彼女さんがいるんだった。ついいつもの調子でいじっちまったい」
「駄目だよ双葉。男の子は彼氏の威厳ってやつを守らねばならんのだから」
「はーいっ」
波杉先輩が満面の笑みで手を挙げる。
『横断歩道は手を挙げて渡りましょう』に対して、元気よく返事をして歩く小学生のごとき微笑ましさだ。
妙に責めにくくて、俺はもう片方の先輩に視線を向ける。
「他人事みたいに言ってますけど、菅田先輩もですからね?」
菅田先輩がウインクしてピンクの舌を出す。
くすっとした笑い声。横目を振った先で、奈霧が愉快気に顔を綻ばせていた。
「私が踏み出せずにいる間、こんな風に釉くんと接してくれていたんですね」
端正な顔立ちから愉快気な笑みが引っ込む。新たに浮かんだ微笑みは、見惚れるほどの優しさに満ち溢れていた。
「本当は、私が話すべきだと思ってました。校舎で見かけた釉くんは、いつも暗い顔をしていたから」
「奈霧さんも気付いてたんだ?」
「はい。でも、私は声を掛けられなかった。手紙の件を許せないって気持ちもあったんですけど、それ以上に怖かったんです。釉くんの中では、私はもう過去の存在になってるんじゃないかって」
「そんなこと――」
思わず反論しようとして、奈霧にかぶりを振られた。
「分かってるよ。釉くんも私を気にしてくれていたんだよね。今は分かってるけど、当時は勇気を出せなかった。だから先輩方にはお礼を言わせて下さい。釉くんが苦しんでいた時、傍で支えてくれてありがとうございました」
奈霧の表情がより一層華やぐ。先輩方に救われたのは俺なのに、まるで自分のことのように歓喜を
二人の先輩が目を瞬かせる。
次の瞬間には、二つの顔がぱぁーっと輝いた。向かい合って両手の指を組み合わせ、年相応な少女のようにキャッキャする。
「双葉双葉! 今の見た!? 聞いた!?」
「見た聞いた! これぞ正妻の貫禄って感じじゃった!」
「さすが市ヶ谷の女!」
「今私真面目な話をしてましたよ⁉ 真面目に聞いてくださいよ!」
茜色を帯びた空の下、奈霧の抗議がむなしく響き渡った。
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