第57話 奈霧とわんこ

 夕焼けで照らされた道に靴跡を刻む。

 

 何度も奈霧と歩んだ通学路。あの時は友人として肩を並べたけど、今隣を歩くのは恋人だ。二人きりで涼しい外気を突っ切っていると、どこかこそばゆい気持ちになる。


「全く、あれがなければ良い先輩方なのに」


 恋人の方はちょっとむくれていた。校門前で揶揄からかわれたことを引きずっているのだろう。

 栗色の瞳が俺を見る。


「釉くんもそう思わない?」

「さ、さあ、どうかな」


 俺は答えをはぐらかす。何だかんだで、先輩方のああいう性格に救われていたところもある。表立って迷惑とは言えない。

 奈霧が目を細める。


「釉くんの方は満更でもないみたいだね」

「そんなことない」

「どうだか。美人な先輩方だし、気持ちは分からなくもないけどねー」


 俺は視線を逃がす。頬に突き刺さる視線が痛い。何か別の話題が欲しくなる。


「ところでさ」

「あ、話題逸らした」

「……ところでさ、奈霧は先輩方とどんな経緯で知り合ったんだ?」

「文実の委員会だよ。あの人顔が広いんだね。近隣住民に挨拶回りをした時の話なんだけど、ちょっと高めの菓子を出されちゃったよ。美味しかった」


 端正な顔立ちが子供っぽさを帯びる。感想が小学生じみていて、思わず苦笑いが込み上げる。


「コミュニケーション能力が高いのは確かだな。俺も放送部に属していた頃は世話になったし」


 あるいは揶揄うこと自体が、先輩なりのコミュニケーションの取り方なのか。菅田先輩は口を閉じていれば美人だし、同年代は気後れする。ああでもしないと周囲と関わりを持てなかったのかもしれない。もちろん、人を揶揄わずにはいられない性分な可能性も否定できないけど。


「ん」


 近付く人影を見つけた。小麦色の毛をまとう四つ脚の動物が、舌を出しながらぺたぺたと地面に足を付ける。首輪から伸びたリードを握るのは品の良さそうな老女。ボランティアで知り合ったお婆さんだ。


 俺は口角を上げる。


「こんにちは」


 お婆さんが目をぱちくりさせる。


「あら? よく見れば市ヶ谷さんじゃないの。久しぶりねぇ。髪が黒いから誰かと思っちゃった」


 お婆さんの視線が横にずれる。 

 大きな目が丸みを帯び、口元が手で覆い隠される。


「まぁ、まぁまぁまぁ! 綺麗なお嬢さんねぇ。もしかして市ヶ谷さんの?」


 黄色い声色。奈霧を抱き寄せた時に悲鳴を上げた女子グループを想起する。女性は何歳になってもそういう話が好きなのだろうか。見た目も若々しい方だし、今も恋に生きていそうな人だ。


「ええ、まあ」


 微かに頬が熱を帯びる。改めて他者に指摘されると照れくさい。

 俺の後方で、奈霧が姿勢を正す気配があった。


「初めまして、請希高校一年の奈霧と言います。以後見知りおき下さい」

「ご丁寧にどうも。フシクラです、こちらこそよろしくね」

「フシクラってどういう字を書くんですか?」

「伏すの『ふ』に倉庫の『そう』よ」

「釉くんの旧姓と同じだね」

「ああ」


 名字が被るなんて珍しくもない。佐藤や田中と比べれば被りにくいだけで、日本人は世界に一億人以上いるんだ。一人や二人同じ名字の人がいてもおかしくない。


「あら、あなたの旧姓って伏倉なの? 奇遇ねぇ。これを機に仲良くしましょうね。ところで、どうして奈霧さんはそんなに離れているの? もっと近くでお話ししましょう?」

「私もそうしたいのは山々なんですけど……」


 奈霧が栗色の瞳を下げる。視線の先にはゴールデンレトリバー。後ろ足をたたみ、尻尾を左右に往復させて舌を垂らしている。

 

 愛苦しさを感じる光景だけど、奈霧には幼少期のトラウマがある。同じ犬というだけで怖いのだろう。

 お婆さんが悟ったように笑みを引っ込める。


「もしかして犬にアレルギーがあるのかしら?」

「いえ、そういうわけじゃないんですけど、子供の頃に押し倒されてから犬が怖くて」

「あら、そうだったの。何も知らずにごめんなさいね?」

「いえ、伏倉さんは悪くないですよ」


 奈霧が苦々しく口角を上げる。手をもじもじさせている辺り、触れてみたい本心がうかがえる。


 可哀想。

 思うと同時に悪戯心が湧き上がった。

 

「伏倉さん。ちょっと撫でてみていいですか?」

「ええ、もちろん。撫でてあげて」

「では失礼します」


 犬との距離を詰め、くりっとした瞳の前で腰を落とす。手の平で頭をさすると、指先がふわっとした感触を得た。次いで首元を両手でわしゃわしゃ。頭よりも毛の量が多いのか、よりふわふわした感覚が何とも心地いい。


 う~~っ、とうめき声。

 振り向くと、奈霧が恨みがましく口を引き結んでいた。


「いいなぁ釉くんだけ」

「奈霧も触ればいいじゃないか」

「それができたら苦労しないって」

「このわんこ大人しいぞ? 近付いても飛び掛かったりしないと思うけど」

「そうね。うちのしっぺは大人しいから、いきなり飛び付いたりはしないと思うわ」


 しっぺって名前なんだな、このわんこ。罰ゲームの一つなのに、響きが妙に可愛らしく聞こえるから不思議だ。


「これを機にトラウマ克服といかないか? いざとなったら俺が止めるからさ」

「本当に? 信じていいの?」

「ああ」

「また意地悪とか無しだよ? 怒るからね?」

「分かってるって」


 予想以上に念を押されて苦笑する。

 一度は奈霧の手を引いた身だ、恋人がどれだけ犬を怖がっているか知っている。破局なんてしたくないし、もしもの時は体を張るつもりだ。悪戯で犬を押し付けたりはしない。


 奈霧がじりっと靴裏を擦る。足を前に出して、しっぺの様子をうかがってからまた踏み出す。贅沢ぜいたくに時間を使って俺の横まで来た。


 俺は腰を上げて身を引く。

 奈霧が息を呑み、空いたスペースにしゃがみ込む。ガラス細工にでも触れるように腕を伸ばし、ぎゅっと目を閉じて小麦色の頭に手を乗せる。


 しっぺは飛び付かない。はっはっ、と舌で体温を逃がしつつ、ふさふさの尻尾をぶんぶん振る。

 

 奈霧が恐る恐るまぶたを上げる。目をぱちぱちさせて、今度はしっぺの頭を撫で撫でする。俺がさっきやったみたいに、首元の毛もわしゃわしゃする。

 桜色のくちびるが弧を描く。


「犬の毛ってこんなにふわふわしてるんだ」

「ゴールデンレトリバーは毛が柔らかいからな。柴犬は少し固めというか、むくむくした感じだぞ」

「そうなんだ。いつか触ってみたいなぁ」


 奈霧が身を乗り出し、大胆にしっぺの背中をさする。すっかりもふもふのとりこになっていた。

 

「可愛い子ねぇ」


 いつの間にか伏倉さんが隣に立っていた。


「あの子は将来美人になるわ。手放しちゃ駄目よ?」

「俺達はまだ交際してるだけですよ?」

「何言ってるの、将来を見据えることに早い遅いもないわ。しっかりなさい、男の子でしょ?」


 声が微かに張り上げられた。


 何故俺は、名字しか知らないお婆さんに叱られているのだろう。もしや俺は年上に可愛がられるタイプなのだろうか。波杉先輩や菅田先輩にもお世話になったし、信ぴょう性はある。


「離しませんよ。二度と離さないって誓いましたから」


 もちろん奈霧に愛想を尽かされた場合はその限りじゃない。

 俺は周囲と比べて出遅れている。関係を築いたからといって、ぼーっとしていては距離が広まる一方だ。邁進まいしんする姿勢は崩せないし、努力を続けるには相応の労力が要る。並大抵の覚悟じゃ務まらない。


 気絶するくらいのことならやってやる。今後俺達を引き裂かんとする者が現れても、奈霧を離さずにいられる握力が欲しい。そういう意味でも立ち止まってはいられない。


「いい顔をするようになったわねぇ」

「そうですか?」

「ええ。ボランティアで会った時とは別人みたい。若い頃の主人を思い出すわ」

「主人はご自宅ですか?」

「いいえ、今は喧嘩して別居中なの。あの人ったら、いくつになっても頑固なところが変わらなくてねぇ」


 嘆息され、俺は苦笑いで無難に応じる。

 何と答えるのが正解なのだろう。同調するのは簡単だけど、自分以外の人が主人を愚弄ぐろうするのは許さない! ってタイプだったら面倒だ。


 しかし頑固か。伏倉さんだけじゃなく、俺と奈霧の両方にも通じる欠点だ。それが原因で大喧嘩に発展する可能性は否定できない。そのまま破局に至ろうものなら最悪だ。想像して思わず身震いする。


 話を聞くに、伏倉さんとその伴侶はんりょは破局していない。仲直りする際のエピソードは参考になる。言い方は悪いけど良い反面教師。伏倉さんとは縁を繋いだ方がいいかもしれない。


「伏倉さん。連絡先を交換してくれませんか?」

「ええ、もちろん」

 

 嬉々とする伏倉さんと連絡先を交換する。

 そのお礼を告げたタイミングで、ぎゅ~~っと声が聞こえた。奈霧がしっぺを抱き締めて満面の笑みを浮かべている。


 俺は写真を取ろうか逡巡しゅんじゅんして、スマートフォンをポケットに戻す。撮影時の音で水を差したくない。恋人が満足するまで、微笑ましいたわむれを温かい目で見守った。

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