第60話 私の彼氏なんですけどっ⁉

 ホームルームを終えた足で図書館に踏み入る。今日は読書の時間を楽しむために訪れた。


 簿記は三級を取得した。

 次は二級といきたいところだけど、もう急ぐ理由は無くなった。いずれ取るにしても、今は学生の内にしか積めない経験を取る。文化祭を経てその価値観に思い至った。


 俺はテーブルと擦れ違って本棚に歩み寄る。足を前に出しながら背表紙に視線を走らせる。


 これにしようと思って腕を伸ばす。

 視界の隅で迫る白を見た。


「っと」


 とっさに腕を引く。眼鏡のレンズの向こう側にある目が見開かれる。


「びっくりした。ごめんなさい、よそ見をしていたわ」

「いえ、それは俺もなのでお相子ですよ」


 すっと伸びた背筋、凛とした佇まい。文化祭で文実委員長をやっていた生徒会長だ。名前は……忘れた。

 会長でやり過ごせばいいか。


「会長は読書ですか?」

「ええ。後数か月で卒業だし、読んでない書籍に目を通しておこうと思って」

「奇遇ですね。俺もちょうど似たようなことを考えてました」

「市ヶ谷さんってどんな本を読むの?」

「特にこだわりはないですね」

「隠さなくてもいいじゃない。それとも言いにくいジャンル?」

 

 大人びた美貌にニヤッとした笑みが浮かぶ。意地悪なその表情が、記憶にある男子の膝をなぞる系悪女と被る。俺には女難の相があるのだろうか。


 いや、ないな。先日奈霧と結ばれたばかりだ。女難の相なんてあるわけがない。不本意だけど、俺がいじられ体質なだけなのだろう。

 

 俺は平静に努めて口を開く。


「言いにくいジャンルって、例えばどんなものですか?」

「ほう、私に舌戦を挑む気? 言っておくけど強いよ私」

「挑む気なんてありませんよ。誤解させたなら謝ります」


 文実での手際は目の当たりにした。初対面に等しい生徒を相手に、物怖じせずはきはきとした声で指示を出していた。聞けば去年もやっていたと聞くし、人付き合いに慣れているのが見て取れる。俺が口で勝てるとは思えない。


 会長が満足げに口角を上げる。


「引き際がいいね。それとも勝負どころをわきまえているのかな? さすが舞台上で一世一代の告白を成功させた猛者だけはある」

「それは忘れて下さいよ」


 俺は苦々しく口角を上げる。

 告白が成功したのは良いけど、今でも思い出すと発火しそうなほど顔が火照る。人間恥には弱いのだと痛感する。


「あ、恥ずかしがってる。可愛いね」

「勘弁してください」

「今のうちに慣れておいた方が良いよ? きっと卒業までこのネタでいじられるから。下手をすると請希高校の伝説になるまである」


 それは分かる気がする。


 文化祭以来、俺に敵意を向けていた女子の俺を見る目は変わった。小畑さんはともかく、その友人に睨まれることもなくなった。嫌われ者の地位をひっくり返すほどの人気エピソードだ。生徒会長の想像通りになっても可笑しくないインパクトがある。


「いっそ、私の手で伝説にしてから卒業ってのも有りか」

「無いですよ! 人の失敗を置き土産にしないでください!」


 整った顔立ちが破顔する。

 揶揄われた。悟ってさらに顔の熱が増す。


「委員会の時の会長は格好良かったのに、今の会長はまるで子供みたいですね」

「私はまだ子供だよ。少なくとも世の中ではそう扱われてる」

「屁理屈ですね」

「いいじゃない屁理屈。それとも市ヶ谷さんはあれかな? 全然の使い方間違ってるって指摘するタイプ?」

「全然そんなことないですよ」

「否定しなくても全然大丈夫だよ。私はそんなことで見る目変えるタイプじゃないから」

「今わざと使ったでしょう?」

「まあね」


 二度目の苦笑を禁じ得ない。


 初対面時の知的な印象が大分薄れた。憧れが砕かれた感じとでも言うのだろうか。複雑な気分だ。


「ところで、君文実の頃から一回も私の名字を呼んでないけど、もしかして人の名前覚えるの苦手?」

「苦手ではないですけど、積極的に覚えようとするタイプではないですね」

「そう。じゃあそこにある本お勧め。結構役に立つよ」


 本棚に横目を向ける。背表紙に記された題名からしてナポレオンが出てきそうだ。

 視線を戻すと、生徒会長が背を向けて踏み出していた。


「会長、名前聞いてもいいですか?」

「花宮沙織。別に覚えなくてもいいよ。もう少ししたら卒業するし」


 じゃあねー。間延びした声を残して、花宮会長の姿が図書室から消えた。


 ◇


「お待たせ」


 廊下から恋人が顔を覗かせる。

 俺も挨拶しようとしたところで、奈霧の背後に人影を見た。名を呼ぶよりも早く新たな笑顔が入り口を飾る。


「市ヶ谷さーん!」


 金瀬さんが腕を振る。

 尾形さんと佐田さんもいる。男子二人はともかく、俺は金瀬さんを振った身だ。気まずさが心にのしかかる。


「や、やあ、三人とも」


 取り敢えず口角を上げて応じる。


 金瀬さんの表情から笑みが消える。言葉もなくじーっと見つめてきた。何か言ってくれと願いながら言葉を待つ。

 金瀬さんがふっと微笑む。


「市ヶ谷さん、遅くなったけど告白成功おめでと!」


 呆気に取られた。

 我に返ってとっさに口を開く。


「あ、ありがとう」

 

 これでいいんだろうか? 嫌味に聞こえなかっただろうか?

 尾形さんが苦々しく表情をくしゃっとさせる。


「なーにビクビクしてんだよ市ヶ谷。俺達が嫉妬に狂うとでも思ったのか?」

「いや、そういうわけじゃないけど」

「どうせ俺達に気を使ってんだろ? 見損なうなよ。俺も金瀬も、一回の失恋で崩れ落ちるほどやわじゃない。そりゃ悔しさはあるけど、友人の成就を喜ぶくらいの度量はあるつもりだよ」

「……そうか」

  

 体の強張りが解ける。

 正直な所、彼らを気遣っているつもりであなどっていたのかもしれない。反省しないと。


 金瀬さんがぷくーっと頬を膨らませる。


「わたしまだ失恋してないよー?」


「……え?

 ……え?」

 

 尾形さんと声が被った。

 金瀬さんが小首を傾げる。


「わたし、何か可笑しなこと言った?」

「いや、だって市ヶ谷は奈霧さんと付き合ってるだろ?」

「うん」

「うんじゃなくて」

「そうだね?」

「そうだねでもないって。奈霧さんがいるんだから諦めろって話だよ」


 金瀬さんが目をぱちくりさせる。


「何で諦めなきゃいけないの?」

「はぁ?」

 

 素っ頓狂な声が図書室の空気を震わせた。奈霧と佐田さんも目を丸くしている。

 金瀬さんが理路整然と言葉を連ねる。


「尾形が言いたいことは分かるよ? 奈霧さんがいるから、市ヶ谷さんの彼女にはなれないって言いたいんでしょ?」

「何だ、分かってんじゃん」


 尾形さんが安堵のため息をこぼす。


「だけどそれって、わたしが市ヶ谷さんを諦める理由にならないよね?」

「何で⁉」

「逆に尾形は何で諦めたの? 恋人ができたって、それこそ結婚したって可能性は尽きないよ? だったら他に好きな人ができるまで想い続けたって良くない?」

「それは……」

 

 尾形さんが口をつぐむ。


 法律で禁止されているわけでもない。線引きさえしっかりしているなら、誰かを想い続けるのは各自の自由だ。声に出さないだけで、いまだに奈霧に想いを寄せる男子は多い。金瀬さんの考えを否定するなら、彼らにも諦めろと通告して回らなければならない。


 金瀬さんがにこっと笑む。


「というわけで! 市ヶ谷さん。土曜日お出掛けしない? 二人で!」

「釉くんは私の彼氏なんですけどっ⁉」


 眼前での誘いは看過できなかったらしい。静かな空間に奈霧の抗議が響き渡った。


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