第59話 奈霧父との会食


 俺は自宅に戻るなり廊下を駆けた。自室のハンガーラックに腕を伸ばし、鏡の前に立って私服を吟味する。

 

 いさおさんは高い所には行かないと言っていた。

 だからってラフ極まる格好で赴く勇気はない。それなりに見栄えの良い衣服を握って身なりを整え、出掛ける準備を終えてポーチの中身を確認。満を持して玄関を後にする。


 待ち合わせ場所に脚を立てること十分。黒いタクシーがウィンカーを光らせて道路の隅に停車する。

 鼓膜に溶けるような声色が鼓膜を震わせた。自然と靴先が前に出る。

 

 後部座席に乗り込んで奈霧の隣に位置取る。ふわっとシャボンの香りが漂って心臓が跳ねる。助手席にはジャケットをまとった勲さん。二重の意味で心の臓が鼓動を速める。


 背中が背もたれに押し付けられた。ガラス越しの景観が後方へと流れる。

 助手席にいる勲さんが振り向く。


「早かったね。何分前から待ち合わせ場所にいたんだい?」

「ニ十分くらい前です。思ったより早く着いたもので」

「そんなに会食が楽しみだったのか。いや、有紀羽と会うのを楽しみにしていたのかな?」

「ちょっと、お父さん」


 隣から抗議の声が上がった。勲さんが小さく笑う。


「冗談だよ。今日はかしこまった場じゃないんだ、気軽に楽しんでくれ」

「はい」


 とは言ったものの、楽しめるかなぁ俺。

 奈霧と二人だけならまだしも、今回は奈霧の父親が同席する。緊張するなという方が無理な話だ。気を抜くと筋肉が強張りそうになる。

 

 大人しく時が過ぎるのを待つ。できる限り勲さんの五感に入らないよう努める。俺の緊張を悟ってくれたのか、言葉は俺に飛んでこない。時折父と娘の会話が車内の空気を震わせる。


 運転手の腕がいいのか、想像した以上に揺れが無い。ボランティアのキャビンにて、尾形さんが奈霧の父は社長だと告げていた。お抱えの運転手というやつだろうか。


 思考を巡らせるうちに、ガラス越しの景色が止まった。促されるがままにドアを開けて、久しぶりに外の空気を吸う。


 勲さんが足を前に出す。大きな背中に続いて入店し、照明の光を受けて店内の床を踏み鳴らす。


 確かに過度な高級感はない。天井を仰いでもシャンデリアはないし、店員はありふれた身なりをしている。

 しかし暗褐色の木材でこしらえられた内装は品がある。シックとモダンを両立させた雰囲気は小洒落こじゃれている。

 

 二人の奈霧と同じテーブルを囲み、メニューを開いて注文を終える。


 気まずい沈黙が漂った。盛り上がっている他のテーブルがやけに遠く感じる。まるで俺達だけが世界から切り離されたみたいだ。


 父が隣にいるせいなのか、正面に座している奈霧もどこかそわそわしている。今さらになって髪型が変わっていることに気付いた。頭の上で二つの円を描くお団子ヘアー。普段の大人びた雰囲気とは裏腹に子供っぽさが押し出されている。


 可愛い。

 なんて口にできるわけがない。斜め前、とにかく斜め前だ。大きな人影が気になって仕方ない。


「どうしたんだ有紀羽? いつもはこんなに静かじゃないだろう。咲羽さわといる時はもっと楽し気に喋るじゃないか」

「咲羽?」


 思わず呟いてしまった。

 勲さんが瞳をスライドさせる。


「ん? ああ、私の伴侶だよ。今は友人と旅行に出掛けていてね、ずるいから私達も食べに行こうって話になったんだ」

「そういう経緯があったんですね」


 奈霧家は仲睦なかむつまじいようで何よりだ。

 微笑ましく思うと同時に羨望の情が込み上げる。


 俺と奈霧は佐郷に小学生時代を蹂躙された。


 一方で、俺と奈霧とでは違うものがある。その一つが両親の末路だ。俺の父は消えて、母は心労が祟って鬼籍に入った。


 対して奈霧の両親は生きている。耳にした事情からも良好な関係がうかがえる。

 一体何が違ったんだろう。俺はどうすれば良かったんだろう。

 考えても意味のないことだけど、考えずにはいられない。


「私からも一つ聞かせてくれ。君と有紀羽は、学校でもこんなに無口なのかい?」

「いえ、そんなことはないですよ。学校に関する話題だけでも、話すことは山程ありますから」

「ふむ、では口数が少ないのは私のせいか。緊張させて済まなかったね。今からでも席を外した方が良いだろうか」


 店員に相談してこよう。勲さんがチェアから腰を上げる。

 俺は反射的に手をかざす。


「待ってください! それは逆に罪悪感が湧きそうなので、できればやめていただけると」


 俺がいなければ、今頃勲さんは娘と談笑していたはずだ。俺という異物が混じったせいでこんな気まずい空間ができ上がっている。席を外すなら俺であるべきだろう。


 とはいえ、俺を誘ったのは他でもない勲さんだ。俺が席を立つと彼の面子を潰すことになる。


 勲さんが着席して微笑を称える。


「ありがとう、市ヶ谷さんは優しいんだな」


 店員がテーブルの傍で足を止めた。食器の底でテーブルをコトっと鳴らし、レシートを置いて背を向ける。

 香ばしい匂いに鼻腔をくすぐられた。緊張で忘れていた食欲がよみがえる。


「さあ、冷める前に食べよう。今日は私のおごりだ。デザートでも何でも、好きに追加で注文してくれ」

「ありがとうございます」

 

 いただきますを口にして食器を握る。


 相変わらず場を繋ぐ話題は浮かばない。注文した品が届いたのは幸運だった。食べ物で口内を満たし、喋りたくても喋れませんオーラを身にまとう。先に食べ終わらないようにスプーンですくう量を調整し、デミグラスソースが掛かったオムライスを口に運ぶ。


 美味い! はずなのにあんまり味がしない。たまに外食して食べた時は美味しかったのに不思議だ。


 勲さんが横目を振る。


「有紀羽、頬にケチャップが付いているぞ?」

「え、嘘⁉」


 繊細な指がせわしなく頬に触れる。


 俺の席だとケチャップの赤は見えない。勲さんからじゃないと見えない箇所に付いているのだろうか。

 勲さんが愉快気に身を震わせる。


「ははは、そこじゃないよ」

「どこ⁉」

「もうちょっと上。いや行き過ぎ、違う違う惜しいなぁ」

「ちゃんと教えてよ!」


 白い頬に茜色が差す。耳たぶに至ってはそれこそケチャップのごとく真っ赤だ。栗色の瞳と目が合って、奈霧が椅子から腰を上げる。


「お父さんの意地悪! もういい、自分で見て来る!」

「いってらっしゃい」


 勲さんがにこやかに手を振る。恋人の背中が遠ざかり、化粧室へと繋がる通路に消える。

 恋人の背中を見送って視線を戻すと、勲さんが俺を見ていた。



「さて、やっと二人きりで話せるな」

「ケチャップが付いてるというのは嘘だったんですか?」

「ああ。全ては君と二人で話すためだ」


 思わず息を呑む。

 勲さんが苦々しく口角を上げる。


「そう怖がらないでくれ。君は会った時から私を警戒しているみたいだけど、私は君に感謝しているんだよ」

「感謝、ですか?」


 俺は目をぱちくりさせる。てっきり娘と別れろ的なことを言われると思っていた。驚きもひとしおだ。

 

 目を見張る俺の前で、勲さんが言葉を続ける。


「有紀羽がまだ小学生の頃に、不登校の時期があったことは聞いているかい?」

「不登校って、奈霧がですか?」

「ああ。君の転校を知ったことでショックを受けてね。大嫌いと言ってしまったことを謝れなかった、君に嫌われてしまったといていたんだ。高校生になっても、たまにかげのある表情をしていたよ」


 請希高校に入学してからの奈霧を思い返す。

 俺と和解する前から笑顔はあった。廊下や教室でも何度か見掛けたことがある。基本微笑は絶やしていなかったはずだ。


 自宅では違ったのだろうか。それとも校舎にいる間は、周囲を気にして笑顔に努めていたのだろうか。


「でもね」

 

 逆説を告げられて思考を中断する。

 勲さんの表情が明るさを増した。


「最近になって自然な笑顔を見せてくれるようになったんだ。私にはあまり話してくれないが、妻にはよく君の話をしているらしい。聞けば、ストーカーから娘を守ってくれたというじゃないか。遅くなったが礼を言わせてくれ。娘を守ってくれてありがとう」


 勲さんが頭を下げる。

 頭の中が焦燥と罪悪感で埋め尽くされた。衝動的に両腕を伸ばす。


「そんな、顔を上げて下さい! あれは体が勝手に動いただけです。当時の俺は奈霧を恨んでました。見捨てようと考えたばかりか、最低な嫌がらせもした。勲さんに礼を言われるような人間じゃありません」


 黙っていた方が良いことは分かっている。


 でも無理だった。こんな誠意を見せつけられたら秘めておけない。告げてしまった後悔で視線が落ちる。


「私は顔を上げた。君も顔を上げてくれ」


 俺は恐る恐る視線を上げる。

 勲さんの顔には微笑が浮かんでいた。


「そんなこと黙っておけばいいのに、君は不器用なくらい真面目な男なんだな。聞いていた人物像とそっくりだ。難しい年頃のせいか、直接聞いても教えてくれなくてね。今日夕食に誘ったのも、一度君と二人で話したかったからなんだ。これからも娘と仲良くしてやってくれ」

「……はい。そのつもりです」


 負い目はある。犯した罪は消えない。

 それでも一緒に居て良いと言うなら、俺に断る理由は無い。それこそ俺の望むところだ。


 内心ほっと胸を撫で下ろす。街で会った時は威圧的に見えたから、てっきり奈霧と別れさせられると思っていた。大方俺の悪評を耳にして、見定めずにはいられなくなったのだろう。これからは素行に気を付けないと。


 靴音が聞こえて視線をずらす。


 化粧室に繋がる通路から奈霧が出てきた。心なしかこっちを睨んでいる。勲さんの嘘に気付いて立腹りっぷくしているようだ。


「あ、そうだ。君に言い忘れていたことがあった」

「何ですか?」


 俺は勲さんに向き直って口角を上げる。

 用件は察しが付く。奈霧に怒られる未来に備えて、俺にフォローを頼むつもりなのだろう。


 協力するのはやぶさかじゃない。せっかく勲さんと打ち解けられたことだし、彼女をなだめるくらいはしてあげよう。


 勲さんがテーブルに両肘を突き、顔の前で手を重ねる。


……あれ? 


 違和感を抱くと同時に、勲さんが目を細める。


「君は有紀羽を俺のだと宣言したようだが、勘違いはしないでくれたまえ。有紀羽は私の、娘だからね?」

「……はい」


 なごんでいた空気はどこへやら。圧がこもった視線に牽制けんせいされて、俺は声を絞り出すことしかできなかった。

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