第12話 罪には罰を


 昼休みに垂れ流した放送によって、俺と奈霧は一躍時の人になった。


 奈霧と二人で言葉を交わすと、周囲が要らない詮索をする。校舎内での交流はチャットアプリを介して行うことにした。まどろっこしいけど、二人だけの秘密って感じがして感慨深い。


 チャットの会話で、俺が自宅謹慎していた時の話を持ち出された。


 全校放送された内容について質問するべく、多くの生徒が奈霧の元には殺到したらしい。俺が謹慎中だったから追及は奈霧に集中した。二日間ほど対応に追われたと、スマホ越しにそのことを愚痴られた。


 俺にはどうしようもないことだ。好きで自宅謹慎になったわけじゃないから勘弁してくれと、苦笑いをしつつ謝罪文を入力した。


 電子的な文字を並べて、親しい人と他愛もない話をする。


 俺はそういった物に縁がないと思っていたけど、使ってみると意外に便利だ。周りの目を気にすることなく、壁を隔ててコミュニケーションを取れる。


 俺は失われた時間を取り戻すように、奈霧と視覚的な会話を交わした。奈霧も頻度の高いチャットに応えてくれた。


 話の流れで、日曜日に出掛けないかと誘われた。


 俺は即時了解を送った。


 そわそわして過ごす内に土曜日を迎えた。明日はどこに行こうか、何をしようか。服は買い替えた方がいいだろうか。デートプランを考えながら液晶画面と睨めっこする。


 ここ数日間、ずっと日曜日のことを考えてきた。


 待ち遠しくてたまらない。未来に想いを馳せることが、こんなにも心を浮き上がらせるとは思わなかった。


 いや違う、正確には思い出したんだ。小学校でいじめられるまでは、今みたいに明日を想って呼吸していた。


 これからは、こういった優しい日々が続く。


 穏やかな日常を妨げるものは何もない。裁かれるべき罪人には、ちゃんと罰が与えられたのだから。



――本当に?



 意識が凍り付いた。内なる問い掛けを受けて指を止める。


 これ以上考えては駄目だ。生存本能に匹敵する直感が絶叫している。


 頭では分かっているのに、思考の先走りを止められない。俺の中で何かが致命的にずれた。


 俺が行ったのは復讐劇だ。ファミレスで録音した会話内容を暴露して、佐郷と壬生の学校生活を破壊した。


 お世辞にも褒められた行為じゃないけど、あの二人には奈霧ともども散々な目に遭わされた。大半の人々はやり過ぎだと思いながらも、情状酌量じょうじょうしゃくりょうの余地ありと判断してくれる。


 実際教師や芳樹達は同情してくれた。最近は悪夢に悩まされるけど、俺は平穏な学校生活を送れている。罪には罰を。その理念を掲げたからこそ、俺は罪悪感に後ろ髪を引かれることなく幸せを享受できた。


 俺は理念を貫けたのか? 終わり良ければそれで良し。そんな結末を受け入れていいのか? 


 だって、居るだろう? 


 まだ、罰を受けていない罪人が。


 スマートフォンを握る指に力がこもる。


 きっと誰も望んでいない。得をする者は一人もいない。


 それなのに、敢えて見ないようにしていたモノが俺を呑み込もうと構えている。


 俺の精神は、それを無視できるほど割り切れない。罰の意義は被害者のなぐさめに留まらない。罪悪感に苛まれる加害者が、自らをゆるすための報いという側面もある。


 俺は目元に手を当ててあおぐ。


 絶対後悔する。明日を迎えるまでもなく分かる。やめろやめろと、魂が慟哭どうこくするのを体全体で感じる。


 それでも目を逸らすことは許されない。例え最高の未来に背を向けてでも、俺は彼女にだけは誠実でなければならないのだから。


 ◇


 Xデーがやってきた。


 俺はスリッパに足を挿し入れて、ベッドから腰を浮かせる。


 カーテンを握って無造作に腕を振るう。蛇の威嚇じみた音に遅れて、窓ガラスの向こう側にまばゆい空模様が広がる。


 心洗われるような蒼穹そうきゅうを恨みがましく睨み付けて、選び抜いたシャツに袖を通す。


 スマートフォンのバッテリー残量は満タン。ネックレスが入ったケースをショルダーバッグに入れて、忘れ物がないか一つ一つチェックする。


 鏡の前に立って身なりを確認。問題なしと判断して玄関のドアに腕を伸ばす。


 宙で縫われたように腕が止まる。


 意を決してドアの取っ手を握り締める。勢いよく開け放って玄関に外気を迎え入れた。


 休日の空気に身を晒して、重い足を引きずりながら外を目指す。シックなエントランスを飾る植物が、いつになく項垂れているように見えた。


 スニーカーで外の地面を踏み鳴らす。

 

 擦れ違う人々の笑顔が太陽のように眩しい。目を伏せて靴裏を浮かせる作業を繰り返し、待ち合わせ場所の新宿駅東口で足を止める。


 アーチを描く白い建造物を背景に、樹木を面白可笑しく飾り付けた物体が鎮座している。地面はカラフルに彩られ、花を模した白いシルエットが咲き誇っている。


 広場を一つのアート作品に見立てたような景観。見間違いようがない、集合場所として最適な場所。


 やっとこの日が来た。


 来て、しまった。


 歓迎と忌避。相反する二つの感情がせめぎ合う。


 今ならまだ間に合う。甘い誘惑が込み上げて、俺は地面を踏み抜かんとばかりに靴裏を押し付ける。


 待ち合わせ時刻五分前。遠くに愛しい少女の姿が見えた。


 明るい色の上着にミニスカート。輪郭をふわっとさせつつも、動きやすそうなコーデで仕上げている。ストレートに流れていた髪は後頭部の高い位置に結われて、特別感のある色気を醸し出している。可愛らしさと大人びた印象を両立させた様相は、人混みが入り乱れる街中でもかすまない。


「おはよう。待たせちゃったかな?」


 弾けんばかりの笑顔が咲いた。


 太陽にも負けない輝きを前に、俺は耐え兼ねて顔を逸らす。


「ちょっとだけな。ここは目を惹かれる物が多いし、体感的には数秒くらいだよ」


 デートの定番は知っている。今来たところと答えて、相手に罪悪感を覚えさせないのが無難だ。二人で出掛けるのだから、変なしこりを残して楽しめないのは本末転倒。そんな気遣きづかいから生まれた作法なのだろう。


 だから俺は違う言葉を選んだ。


 どれだけ心臓が脈打っていても、俺だけは歓喜の情を出してはいけない。


 俺自身のために、何より奈霧のためにも。


「行こうか」

「う、うん」


 繊細な指が亜麻色の前髪に触れる。


 俺は口を引き結んで背を向けた。


「釉くん」

「ん?」

「何かあったの?」 


 変な声を上げそうになった。


 俺は静かに肺を膨らませる。練習し尽くした笑みを顔に貼り付けて振り向く。


「何でもない。一通りのプランは考えてあるけど、どこか行きたい所はあるか?」


 戸惑いの表情から一転、桜色のくちびるが開く。


「バッティングセンターに行きたい。久しぶりに競争しようよ」


 俺は目を瞬かせて、こらえきれずに苦笑した。


 思わず目を見張ったくらい着飾って来たくせに、場所のチョイスが実に奈霧らしい。駄目と分かっていても口角が上がるのを止められない。


「俺、ここ数年バットを振ってないぞ?」

「私もだよ。条件は同じだね」

「分かったよ、受けて立とう。負けたら昼食一品おごりでどうだ?」

「いいね。言質げんち取ったから」


 奈霧が悪戯っぽく笑う。自分が負ける未来など想定していない顔だ。


「……練習とかしてないよな?」

「言質言質!」


 今にもスキップしそうな声を上げて、華奢な人影が隣に並ぶ。柔らかな芳香がふわりと香って、鼻腔と心をくすぐられる。


 この分だと昼食は俺の奢りになる。


 でも気分は悪くない。奈霧と歩を進めるだけで、底に沈んでいた気持ちが浮き上がる。


 午前中は、運動施設をメインに歩き回った。


 ホームラン競争で敗北した。ボーリングでも無様に負けた。昼食は洒落たカフェで全額奢り。見栄えするメニューを楽しんで会話に花を咲かせた。


 午後は観賞中心。ショッピングモールで色んな店舗を練り歩いた。クレープなどの間食を挟みつつ、小学校からの長い空白を埋めるように談笑した。


 途中で奈霧がお花を摘みに離れた。


 戻った奈霧の髪型はストレートロングに戻っていた。俺は口元を引き結び、指をぎゅっと丸めて言葉をこらえた。


 歩き回る内に日が落ち行く。楽しかった日々の終わりが近付く。


 見通せそうな青空がオレンジに喰い荒らされて、街並みに憂いの色が付加された。俺はタワーの屋上から渋谷のスクランブル交差点を見下ろす。


「綺麗だね」


 感嘆の吐息が肌寒い空気を揺らした。


 奈霧の視線をなぞった先に広がるのは、紺色とオレンジの輪郭が押し合う空模様。コントラストが織りなす壮観そうかんを背景に、そよ風が俺達の髪をそっと撫でる。


 静かだ。まるで俺達だけが、この世界から切り離されたような錯覚を受ける。


「そうだな」


 奈霧に言葉を肯定して、そっと横顔を盗み見る。


 風でなびく髪を押さえる仕草は、言いようのない気品と色香にあふれている。


 小学生時代の奈霧には見られなかった一面。好きだった女の子が、より魅力を増して目の前に立っている。


 いじめられた俺ほどではないにしろ、奈霧も辛い時間を送ってきたはずだ。それでも道を外れることなく、真っ直ぐ成長して俺の前に現れてくれた。


 ありがとう。大人びた横顔に黙して感謝を捧げる。時よ止まれ、君は美しい。今この瞬間こそが、俺の人生で最上の時だ。


 この光景を忘れないように、奈霧の立ち姿をまぶたの裏に焼き付けた。


「何? 釉くん」


 奈霧が俺の視線に気付いて振り向いた。


 俺はさくに置いた手にぐっと力を込めて、奈霧に体の正面を向ける。


「君に渡したい物があるんだ」


 ショルダーバッグからケースを引き抜いて差し出す。


 大きな目が丸みを帯びた。整った顔立ちに困惑の色を浮かべつつ、すらっとした腕がパッケージを握る。


「これは?」

「ネックレスだ。今日は誕生日だろう?」


 奈霧がハッとして顔を上げた。


「覚えてて、くれたんだ」

「俺が奈霧の誕生日を忘れるわけないだろう? 誕生日おめでとう。プレゼント、気に入ってくれるといいんだけど」


 繊細な指が包装を解く。透明な蓋越しに、ネックレスが金色をのぞかせる。

 

 整った顔立ちが夕焼けに負けず華やぐ。満開に咲き誇った向日葵ひまわりを幻視した。


「嬉しい、ありがとう! 今付けてもいい?」

「その前に聞いてほしいことがある」

「何?」


 端正な顔を占めるのは満面の笑み。これから起こることはいい出来事のはずだと、微塵みじんも疑っていない顔だ。


 左胸がズキッと痛んだ。逃げ出したい欲求が間欠泉かんけつせんのごとく噴き上がって、俺は地面に靴裏を押し付ける。


 まぶたを閉じてポケットに手を突っ込む。指先で角ばった物をつまみ、折りたたまれた紙を引き抜く。目の前で広げて、奈霧の顔をそっとうかがう。


 何かを期待するような、衝動的に抱き寄せたくなる笑み。


 この幸せそうな笑顔を、俺はこれから壊すんだ。



「……どう、して」


 大きな目が見開かれた。つややかなくちびるが目に見えて戦慄おののく。


 特別なことはしていない。紙に記された文章を読み上げただけだ。その内容が、度を超えて特殊だったに過ぎない。


「どうして、釉くんがそれを知ってるの?」


 俺は紙を折りたたんでズボンのポケットに捻じ込む。


「俺は、君に復讐するために請希高校に入学した」


 奈霧が息を呑んだ。きめ細やかな手が、膨らんだ胸元に押し当てられる。


 眼前の幼馴染は、俺がいじめられて転校したことを知っている。例のデマを耳にする機会もあっただろう。俺に恨まれていると誤解しても不思議はない。


 俺はたまれなくなってかぶりを振る。


「勘違いしないでくれ。誤解だったことは分かったし、危害を加えるつもりもない。でも入学当時の俺は、復讐すべき相手が他にいるなんて考えもしなかった。君の学校生活を壊す。そのために気持ち悪い手紙を書いた。手紙の内容を裏付けるために、靴を盗んで焼却炉に入れた。ストーカーは一人じゃない、二人いた。そのうちの一人が……俺なんだ」


 胸元に当てられた指が白みを帯びる。服の上からでも分かる膨らみが、目に見えて形を変えた。


 俺が掲げた復讐の理念は、裁かれていない罪人に鉄槌てっついを下すこと。


 だから復讐劇は終わっていない。勘違いしたまま嫌がらせを仕掛けて、危うく大事な幼馴染を破滅させかけた。そんな恥知らずの分際で、自分だけ幸せになろうとした愚者ぐしゃが、ここに居る。


「これが今の俺、市ヶ谷釉だ。君がしたってくれた伏倉釉は、もう世界のどこにもいないんだよ」


 見開かれた目がうるんだ。あふれた滴が頬を伝って煌めく軌跡を残す。


 見惚れるほどに美しい。されど指で滴をすくうことは許されない。今の俺に、奈霧に触れる資格はない。


 俺は震える喉で空気を吸い込む。


「今の会話は録音してある。俺のことが許せなかったらチャットをくれ。今晩中に会話の音声データを送らせてもらう。しかるべきところに提出すれば、それで事は済むはずだ。約束するよ。音声データを証拠として提示されても、俺は絶対に君を逆恨みしない。罰として受け入れてみせる」


 上体を深く下げて一礼する。


 顔を上げた瞬間に平手打ちされるかと思ったけど、そんな余力は残っていないようだ。綺麗な手が目元を覆い、震えていた口から嗚咽おえつがもれる。


 俺は許しをいたい衝動をこらえてきびすを返す。


 奈霧が録音データの内容を暴露すれば、俺の学校生活は終わりを告げる。自宅謹慎が解けたばかりの身だ。今度は退学もあり得る。


 本当は嫌だ。一生懸命勉強して入った学校だ。人生を取り戻すために重ねた努力も水泡すいほうす。笑顔で処罰を受け入れられるわけがない。


 だとしても、奈霧の手で裁かれるなら我慢できる。


 この一日は嘘にまみれた時間だったけど、俺にはもったいない思い出ができた。今日の記憶があれば、俺はこの先どんなに辛いことがあっても生きていける。


 靴先が展望台の出入口に差し掛かる。


 俺は黄金色こがねいろに濡れた床を越えて、影が落ちた廊下に靴裏を付けた。

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