2章

第13話 ちょっとえっちなハプニング


 ガサッと音が鳴る。ビニール袋からトングを引き抜き、足元の空き缶へと腕を伸ばす。銀色の歯がアルミを軋ませ、その硬さを音にして出力する。


「ありがとうね」


 振り向くとお婆さんが立っていた。装いは質素ながらも品のある佇まい。着物を身にまとえば貴婦人と見間違えそうだ。軍手に覆われた手にはトングにはごみ袋と、俺と同じ様相を呈している。そのギャップが親近感を湧き立てる。

 俺はゴミ拾いを中断して上体を起こす。


「どうしてお礼を?」

「一生懸命にごみを拾ってくれているでしょう? 内申点が欲しいだけの子は見えないところで手を抜くんだけど、あなたは始まってから脇目も振らずにごみ拾いをしてる。偉いわね」


 にこにこ笑顔。邪気の類は一切感じられない。心の底から褒めてくれているのが分かって気恥ずかしい。照れくささを誤魔化すべく口角を上げる。


「いえ。好きでやっているだけですから」

「本当に助かるわぁ。奇抜な色の頭をしているからみんな怖がってたけど、真面目でいい子だったんだねぇ」


 お婆さんにしみじみと語られ、俺は苦々しく身を揺らす。入学式から時を経て、俺の髪は黒さを取り戻しつつある。頭の天辺付近だけが黒色を呈するものだから、カラーリングは完全にプリンだ。ボランティアに率先して参加していることもあって、一部の生徒にご奉仕プリンと呼称されている。

 正直あまりいい気はしない。むしろ不愉快だけど、愛故になんて呼ばれるよりはマシだ。とんだロマンチストと勘違いされかねないし、あの異名を聞くとどうしても幼馴染を思い出してしまうから。


 渋谷で別れて以来、俺は奈霧と顔を合わせていない。未練を断ち切るためにチャットアプリのルームから退室し、校舎内でも可能な限り遭遇しないようにしている。俺の犯行を裏付ける音声データは送ったものの、誰からも糾弾されることなく今に至っている。


 きっと機を待っているのだ。報復は相手に失うものがないと威力が激減する。奈霧が人の不幸を喜ぶとは思えないけど、俺は彼女を泣かせた。罪人には罰が必要だ。それは奈霧の手によって与えられなければ意味がないし、そうでなければ受け入れられない。

 俺も少なくない労力を使って今の生活を手に入れた。できることならこの生活を手放したくはない。我ながら甘えるなとは思うけど、この気持ちがあるからこそ罰は罰として成立する。

 好いているから離れたい。失いたくないから喪失する価値がある。何という矛盾。人はまさしく矛盾存在だ。

 先走る思考が可笑しくて一人苦笑いする。


「ごみ拾いはもうすぐ終わるけれど、この後は何か予定があるの?」

「はい。図書館で勉強するつもりです」

「あら真面目。せっかくの土曜日なのだから、お友達を誘ってお出かけしたりしないの?」

「友人と出かけはしますよ。図書館に出向くのは、その友人に勉強を教えるためですから」


 友人というのは芳樹のことだ。今のところあいつ以外に親しい同級生はいない。お昼休みの事件以来、俺は周囲に怖がられている。新たに繋がりを持つのは困難だ。俺が図書館に赴く理由は無いけど、現状唯一の友からの頼み。聞き届ける他にない。


「そう。たまには息抜きしなきゃ駄目よ? あなた、かなり疲れているように見えるから」

「大丈夫ですよ。ちゃんと休んでますから」


 俺は顔に微笑を貼り付ける。大丈夫と口にしたのに、お婆さんの表情は優れない。血の繋がりもない俺を心配してくれるのは嬉しいけど、そういうのは止めてほしいとも思う。その善意は穢れたこの身には毒だ。太陽の光に焼かれる吸血鬼の気持ちが今なら分かる。

 十分とせずに号令がかかり、ごみ拾いのボランティアは幕を閉じた。


 ◇


 労いの言葉を得て、俺は休日を満喫する身に戻った。お気に入りのスニーカーでコンクリートの地面を踏み締め、都立中央図書館に足を運ぶ。広尾駅から徒歩で移動中、芳樹から連絡があった。早めに来て三階奥のテーブルを確保したとのことだ。自分から勉強会に誘ってきただけあって、勉強意欲が漲っているらしい。

 友人のやる気には応えなければなるまい。俺は入館証とカバンを受け取り、荷物をロッカーに収める。図書館特有の知に溢れた静寂を突っ切り、立ち並ぶ棚のバリケードを抜ける。


「……あれ?」


 合流地点に着いた。

 なのに芳樹の姿が見えない。席を指定したのは芳樹だ。普通は席を確保してから場所を指定するはず。お手洗いで席を離れるにしても、本や文房具がないのは不自然だ。席を取られるリスクを考えないほど芳樹は馬鹿じゃない。


 俺はスマートフォンを取り出し、チャットアプリで居場所を問う。

 返答はない。どこかで道草を食っているのか、気になった本を手に取った挙句に時間も忘れて見入っているのか。どちらにせよ時間が掛かりそうだ。

 俺はしばらく待つことを決めて椅子に腰を下ろす。一人ノートを広げる気分にはなれない。何となく周囲を見渡す。視界を満たすのは伸び伸びとした広い部屋。棚やテーブルが立ち並んでも全力ダッシュには事欠かない。他に人影がない分、室内がさらに広く感じられる。


 ぼーっとして数分後。俺はスマートフォンの電源を入れてチャットアプリを確認する。

 既読は付いたけど返答がない。芳樹は了承の言葉を返すタイプだ。画面をタップできないような状況にあるのだろうか。到着にはもうしばらくかかりそうだ。


「何か読むか」


 椅子から腰を上げ、本を求めて棚へ向かう。特に読みたい物があるわけでもない。背表紙を眺めながら適当にぶらつく。棚を横断し、右方にある棚を見るべく折り返そうとして、足を止める。

 息を呑んでとっさに隠れる。棚に背を付け、意図せずスパイ映画のスパイじみた真似をした。


「何でここにいるんだ⁉」


 聞こえないように声を抑えた。他に誰かがいるわけじゃないし、室内は静寂で満たされている。小さな声でもばれる危険があった。それを踏まえても呟かずにはいられなかった。

 見間違いであってくれ。期待しながらそーっと通路の様子をうかがう。

 やっぱり見間違いじゃない。通路に華やかな少女の姿がある。さらったとした長髪にすらっと伸びる手脚。歩くだけで視線を惹かれずにはいられないたおやかな人影。数か月前に交流を断った幼馴染だ。


 俺は首を引っ込め、辺りを見渡して隠れる場所を探す。俺が棚から飛び出した時、奈霧は窓の方を見ていた。俺がこの図書館にいることはまだばれていない。

 つま先立ちを意識してそっと駆ける。隠れるべきはテーブルの下。最寄りの天板に潜り込もうとして思いとどまる。他の利用者に見つかったら変態の極みだ。俺の名誉なんてもう無いに等しいけど、奈霧に変態扱いされるのは耐えられない。

 どうせ隠れるなら、俺が使っている奥のテーブルがいい。他の利用者が来ても、奥まで進まないと俺の姿は見えないはずだ。芳樹が来たら状況を伝えて、奈霧を外に誘導してもらおう。


 俺は足音を殺して席に戻る。テーブルの上にある道具をかき集め、天板の下に潜り込む。息を殺して奈霧の着席に備える。

 靴音が近づく。椅子と椅子の間からくるぶし丈のブーツが見える。先程は隠れるのに必死でじっくり見る時間がなかったけど、さすがにいいセンスをしている。衣服とのカラーコーディネートも完璧だ。ついつい見入って距離感がバグる。


 まだ靴音が近付く。小さかったブーツが見る見るうちに大きくなる。

 どこまで進むつもりだ?

 思った刹那。目の前の椅子が下がった。反射的に横跳びし、隣の空きスペースに身を踊らせる。変な声を出さなかったのは奇跡だ。悲鳴を抑えた自分を褒めてやりたい。


 しかし何故だ? どうしてこの席に座った? 空き椅子なら他にもたくさんある。何もここじゃなくたっていいじゃないか!

 苛立ちが視界情報に押し流される。横を見れば、すぐ近くに形のいい脚がある。スカートから伸びた肌色が、薄暗いだけのテーブル下を蠱惑的な内装に変える。普段から運動をしているのだろう。程よく付いた筋肉が椅子に圧迫され、太ももがふにっと形を変える。

 美しい。

 いや違う! 今のは気の迷いだ! テーブル下に潜伏するという非日常的シチュエーションに当てられただけだ。例えるならそう、深夜のテンションに近しい何かだ!


 この状況は精神衛生的によろしくない。心臓がバクバクとうるさい。息苦しい。奈霧に聞こえてしまわないか不安になる。

 逃げなければ。

 でもどこから? 周りは椅子の脚で囲まれている。テーブルの下から出るには椅子を押さなければならない。そんなことをしたら音で俺の存在がばれる。こんな状態じゃ芳樹に助けを求めることもできない。これはもはや詰みなのでは?


「……お手洗いかな?」


 奈霧は何色が好きなのだろう。

 そんないかがわしい思考と格闘するうちに、奈霧の独り言が空気を震わせた。察するに誰かと待ち合わせをしているらしい。よりにもよって今日だなんて、そいつは俺に恨みでもあるのか? 


 兎にも角にも去ってくれ。今の俺は誰がどう見ても不審者だ。はたから見れば、奈霧の下着を覗き込もうとしている変態にしか見えない。断罪を待つ身だけど、下着の覗き疑惑で処断されたくはない。悪事に手を染めたにしても、そんな最後はあんまりだ。


 いちかばちか、筆箱を遠くに投げて気を引いてみるか? 奈霧が取りに行った隙に脱出する計画。幸いすぐそこに棚がある。逃げ込めれば棚に隠れつつこの場を去れる。


 筆箱を投げる方向を見定める内に視線がずれる。妙に落ち着きがない靴先からふくらはぎへ。ふにっとした太ももまで行きかけて、慌ててぎゅっとまぶたを閉じる。危ない、気を抜くと美脚の奥に吸い寄せられそうになる。まるでブラックホールだ。

 白? 赤?

 いいや違う! 俺はそんなこと考えない! 煩悩退散! 煩悩退散!


「……時間を間違えたかな?」


 円周率を数えていると、椅子を引く音が鼓膜を震わせた。世界レベルの美脚が遠ざかり、床を鳴らすブーツが曲がり角に消える。


 チャンスだ! 脱出するなら今しかない! すぐさまテーブルの下から抜け出し、静かな空間を後にする。奈霧に見つからないように細心の注意を払って歩を進める。芳樹には悪いけど、こうなった以上勉強会は無理だ。すぐさまロッカー内の道具を回収。スパイの真似事を意識して外に出る。建物の入り口から離れた所に華奢な背中があった。通話しているのか、奈霧がスマートフォンを耳に当てて桜色のくちびるを動かしている。


 俺はそそくさと図書館を脱出し、ほっと息を突く。

 ひどい目に遭った。 

 いや眼福だったけど。これ異常ないくらいに絶景だったけれど、自分が本当に変態に堕ちてしまったみたいで気分が沈む。奈霧が好いてくれた伏倉釉はえっちなことをしない。幼馴染を二度も裏切ったみたいで心が痛む。嬉しいのか、悲しいのか。寂しいのか、苛立ちか。ごちゃ混ぜの感情を抱いて帰途に就いた。


 ◇


 休み明けに登校する。勉強会をバックレたことへのお怒りチャットがあるかと思ったけど、芳樹からのチャットはなかった。元はと言えば芳樹が遅れたのが悪いんだ。あいつが時間通りに来ていれば、俺がちょっと良い目に遭うことはなかった。別の場所で勉強会をすることもできた。万事上手くいっていたはずだ。


 俺は謝らない。むしろ怒ってやる。心を決めて昇降口に踏み入る。内履きに足を通して廊下を踏みしめ、教室へと足を前に出す。


「おっす市ヶ谷」


 教室のドアを開けるなり手が上がった。俺唯一の友人こと加藤芳樹だ。フレンドリーな笑顔には救われてきたけど、今日ばかりはいらっとした。クラスの床に靴裏を叩き付けて友人の元へ向かう。


「芳樹、お前日曜日は何してたんだよ」


 声が苛立ちで荒くなった。芳樹の遅刻で色々狂ったのは確かだけど、少なからず私怨が混じった。これではやつ当たりと変わらない。

 芳樹が頭の後ろをかく。


「すまんすまん、来週の日曜日と勘違いしちゃってさ。ところでお前図書館には行ったの?」

「行ったよ。だから怒ってるんじゃないか」

「あれ、おっかしいな……」


 芳樹が首を傾げる。その様子に眉を顰める。


「何がおかしいんだよ?」

「んにゃ、何でもない。とにかくすまんかった。この埋め合わせはいつかするからさ、許して」


 芳樹が体の前で両手を合わせる。俺は憤りを乗せて嘆息する。


「仕方ないな。今日ジュースおごれよ」

「もちろんだ。次は絶対時間守るからさ、またよろしくな」

「次って、また勉強会をする気なのか?」

「だって問題分かんねーし。まぁ楽しみにしとけって」

「何で君のための勉強会を楽しみにしなきゃいけないんだよ」

「いいからいいから」


 芳樹がカラッと笑う。無邪気な笑みを見ると苛立ちが薄まるから不思議だ。


「おーい芳樹、お前今日当番じゃなかったっけ?」

「え? あ、やっべ! 今日は俺が当番だった!」


 芳樹が腰を上げ、椅子の脚をガタッと鳴らす。一時間目は化学。当番は実験器具を理科室に運ばなければならない。サボったら担当教師の牧山がブツブツ言う。それはもうブーたれる。クラスメイトに迷惑が掛かる案件だ。


「頼む! 市ヶ谷手伝って!」

「これも貸しな」


 二人で廊下に出る。一時間目まであまり時間はない。足早に廊下を踏み鳴らす。

 反射的に脚が止まる。

 制服姿の奈霧が佇んでいた。廊下で名も知らない男子と喋っている。はたから見ても仲が良さそうだ。

 何を話しているのだろう。耳を澄ませても周りがうるさくて聞こえない。図書館で待ち合わせていた相手は彼なのだろうか。お洒落な服で着飾って、あの静かな空間にて二人きりで過ごしたのだろうか。それはもはや、デートと呼ぶんじゃないのか。

 胸の奥が疼く。口元を引き結んで踵を返す。


「市ヶ谷、どこに行くんだ?」

「この階段から行こう。こっちの方が近い」

「大して距離変わんないだろ」


 説得するのも面倒だ。俺は階段の段差に足を掛ける。


「ほんと、重症だなぁお前ら」


 ため息交じりの声は耳から耳へと抜けていった。

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