第9話 時効


 ボクは一目惚ひとめぼれした。

 その好きな女の子が、別のクラスメイトと遊ぶようになった。あれだけ声をかけてやったのに、消しゴムを拾ってやったのに、これは一体どういうことだ? ムカムカした。その男子をなぐってやろうと思った。でもそいつはけんか慣れしている。この前は上級生を相手に向かっていくところを見た。一対一じゃ勝てないし、ヤツはボクの奈霧のお気に入りだ。なぐりかかっても奈霧はいい顔をしないだろう。固く握った拳を震わせるにとどめた。 

 奈霧の独占は不可能。ボクは二人の間に入り込む策を考えた。一人で二人の間に加わる度胸はない。伏倉のことを好いている女子に近付き、伏倉と遊ばせてやると話を持ちかけた。

 勉学や運動では、逆立ちしても伏倉と奈霧には敵わない。ボクたちでは二人に興味を持ってもらえない。付け入る隙はないものかと、競争する二人をじっくりと観察した。どうやら伏倉と奈霧は、テストや駆けっこ以外でも競い合うようだ。お絵描きや読書感想文から始まり、砂場でお城を作ることもあった。

 不定期ながらも、機会の多い砂城作りに目を付けた。スマートフォンで調べ、協力者と装飾を研究し、砂城作りの場に突撃した。

 作戦は成功した。ボクたちは二人と一緒に遊ぶ権利を得た。

 相変わらず競争では勝てない。勝ち負けではしゃぐのはいつも伏倉と奈霧だ。壬生と伏倉をくっつけようとしたけど、あいつは伏倉の前だと委縮してばかりで役に立たない。ボクが奈霧と二人きりの時間を作り出しても、奈霧は伏倉の話ばっかりする。何度も二人の世界を見せつけられて、食いしばった歯が欠けた。痛かった。

 ある日。奈霧が上級生に揶揄われるのを見た。彼らいわく、仲良く遊ぶ男子と女子は夫婦なんだそうだ。奈霧はむきになって反論していた。顔はりんごのように真っ赤になっていた。あの理知的な奈霧が、他のクラスメイトと同じ子供のように見えた。

 これは使えると思った。翌日の朝は早めに登校し、白いチョークを握って黒板に大きな相合傘を描いた。素知らぬ振りをして教室を後にし、室内にクラスメイトが溜まったのを機に再度入室した。夫婦ネタを披露ひろうして頭の軽い同級生を面白がらせ、奈霧を揶揄からかわせる空気を作った。

 奈霧が登校した頃には、教室の空気が完成していた。俺が口を開かなくても、クラスメイトが奈霧をいじり始めた。気丈な奈霧と言えど、人数の暴力には屈さざるを得ない。最近の奈霧は、伏倉を意識してミニスカートをき始めた。そのことをいじられて、羞恥心しゅうちしんがより敏感びんかんになったのだろう。いつもの気の強さはどこへやら。奈霧は縮こまって反論どころじゃなくなった。

 恋敵が教室にやってきた。恥ずかしさに負けて喧嘩に発展する事態を期待したけど、肝心の伏倉には期待した効果が見られなかった。それどころか、逃げた奈霧を追って廊下に飛び出した。まるでロマンス映画のクライマックスを思わせるシチュエーションだ。バカなクラスメイトが黄色い声を上げた。ボクは舌打ちした。伏倉が奈霧を説得したら、ボクの完璧な計画がおじゃんになる。それどころか、下手に刺激したせいで二人の仲が進展する可能性すらある。最悪の未来を想像してくちびるを噛んだ。


 怒りと焦りに震えていると、校舎の外でキキキキキッ! とすごい音が聞こえた。クラスメイトが窓ガラスの近くに殺到して指を差す。何かと思って窓際に寄ると、奈霧が車道に横たわって血を流していた。

 クラスが騒然とした。

 次の瞬間には責任の押し付け合いが始まった。ボクのせいじゃない。それは確信していたけど、これでは二人の仲を裂いた意味がない。どうか綺麗な体に傷が残りませんように。無事を祈ってボクの奈霧にメールを送った。

 後日、入院中の奈霧から返信があった。伏倉が責任を感じていたら、伏倉のせいじゃないとフォローしてあげてほしいとお願いされた。


……なんだ、それは。


 まるで意味が分からない。天地がひっくり返ったような衝撃だった。伏倉のせいでかれたのに、フォローするなんてあり得ない。奈霧はまだあの野郎のことが好きなんだと確信して、はらわたがえくり返る思いだった。

 しかし奈霧のメールには興味深いことが書かれていた。詳しい話を聞いてみると、校門前で伏倉と言い争ったのが事故の原因なんだとか。

 これは使える。ボクは壬生をき付けてデマを広げた。奈霧は伏倉に背中を押されて轢かれた。そういう内容のでまかせを吹聴ふいちょうさせた。奈霧が轢かれた時刻は登校時間。周囲には他にも生徒がいた。赤の他人に成りすますのは容易かった。

 口から口へ。デマはびっくりするほどのスピードで広まった。奈霧が人気者だったこと、伏倉が奈霧を独占していたことへの不満もあったのだろう。ヤツはたちまちクラスでの居場所を失った。やっとなぐれる時が来た。いじめに加わる時には気分が高揚した。だけど口端が吊り上がらないように努めたせいで、思ったよりは楽しめなかった。

 ともあれ二人の仲を裂くことはできた。もう邪魔者はいない。ボクはまんして、退院して登校した奈霧に好意を告げた。

 振られた。意味が分からなかった。

 それどころか、奈霧はデマがうそっぱちだと怒声を上げて主張した。伏倉が不登校になった末に転校したと知るなり、奈霧は人目もはばからず泣きさけんだ。クラスメイトは、花瓶かびんを割った児童のようにこおり付いたものだ。それっきり、奈霧は学年が上がるまで登校しなくなった。

 西洋には『魔女狩り』というものがあったらしい。不幸を誰かのせいにして糾弾きゅうだんし、真偽関係なく処刑してみんなで喝采かっさいする素敵な文化だ。

 クラスでも同じことが起こった。デマを広めた犯人探しが始まり、あいつが悪いこいつが悪いと誰彼だれかれ構わず糾弾した。ボクは大きな氷を丸呑みにしたような気分だった。デマを広めたことがばれれば、クラスの連中は間違いなく笑顔で手足を振るう。伏倉が辿ったのと同じ末路が待っている。ボクは恐怖と怯えに駆られ、クラスメイトに混じってひたすら爆弾を押しつけ合った。

 追及に押し切られた生徒が、伏倉と同じく袋叩きにされた。ボクもなぐって蹴った。手加減しては疑われかねないと、全力をもって攻撃した。

 ボクらはやり過ぎたのだろう。その生徒が飛び降り自殺を図り、いじめが問題として取り上げられた。大人が事態の始末をつけ、この一件は幕を閉じた。

 真犯人探しは行われなかった。犯人扱いされた生徒が自殺を試みたんだ。下手に探せば同じことが起こると危惧きぐされた。追及の禁止が厳命された時には、緊張が解けてパンツが濡れた。

 事件が終わっても平和な学校生活は戻らなかった。一度はみにく罪過ざいかを押し付け合った間柄だ。クラスメイトとして築き上げた友情や仲間意識は、乾いた泥団子のごとくズタボロになっていた。不登校になったのは一人や二人じゃない。教室に足を運んでも会話が発生しない。互いに相手を敵か何かと認識していた。はっきり言って地獄だった。今思えば完全に学級崩壊していた。まあボクにとっては奈霧以外どうでもよかったし、周りが牽制けんせいし合っていようがどうでもよかったけど。

 ある日噂を耳にした。一部のクラスメイトが真犯人を探しているらしい。

 ボクは身の危険を感じて、中学は地方から離れた学校を選んだ。あの地獄を乗り越えたボクにとって、ちょっとやそっとの苦難は壁にならない。奈霧のことも忘れて勉学に励み、全国でもトップクラスの高校に入学を果たした。

 何の因果いんがか、そこには伏倉と奈霧がいた。背筋がゾッとしたけど、あの二人は真実を知らない。念には念を入れて、二人が真実に辿り着かないようにサポートしてあげることを決めた。必ず隠し通そう。小学生時代の記憶は誰にとっても黒歴史。思い出さないに越したことはないのだから。


 ◇


 奈霧から逃げた後日。ベッドの上でボーっとしているとスマートフォンがバイブレーションを鳴らした。更新があったのは例のグループチャット。俺、佐郷、壬生の三人で出かけないかという誘いだった。


 凄く迷った。


 この前ファミレスで会った時は、二人にかなり不快な思いをさせられた。


 結局遅刻したことの謝罪も聞いていない。顔を合わせれば少なからず嫌な思いをする羽目になる。


 でも縁を切るのは気が引けた。


 何より、今までにない新たな疑念が湧き上がっていた。それを解消するには、どうしても彼らの力が必要だ。


 俺は例のファミレスに足を運んだ。


 例のごとく三十分ほど待たされたのち、佐郷と壬生がヘラヘラ笑って合流する。


「聞いたぜ、暴漢鎮圧の話!」


 顔を合わせるなり佐郷が声を張り上げた。壬生がテーブルの横を擦れ違って俺の隣に腰を落とす。


 スマートフォンで連絡先を交換してからというもの、事あるたびに誘ってくるから鬱陶うっとうしくて仕方ない。いい加減こっちが迷惑していると気付いてほしいものだ。


 グラスに腕を伸ばす。復活しそうになった苛立ちをお冷で鎮めた。


「誰から聞いたんだ? 俺が取り押さえたことは伏せられていたはずだけど」

「クラスチャットで知ったんだよ」


『ストーカーをこらしめた一生徒』は一躍いちやく時の人だ。颯爽さっそうと現れて暴漢ぼうかんを鎮圧した。まるでヒーローのような活躍に同級生は湧き立っている。


 聞こえはいいけど、そういった話題が広まると必ず真似しようとする者が現れる。


 たまたま相手が刃物を持ち出さなかっただけで、俺だって相手が奈霧じゃなきゃどうしていたかは分からない。空手の心得こころえがあっても尻込しりごみする。あれはそういう状況だった。


 そんなことは現場を見ていない、あるいは格闘技の素人しろうとには分からない。同級生にできたのだから自分にもできるはずだなんて、そんな根拠のない自信は身を滅ぼすだけだ。生徒の名前を伏せて事件の生々しさを取り払ったのは当然の処置と言える。


 その事情を知ってか知らずか、佐郷が陽気に口を開く。


「お前結構有名だぞ? 合コンの誘いとか来たら俺も呼べよな」


 俺はまぶたを下げる。浜辺に軌跡きせきを残す波のごとく、心がこの場から引くのを感じる。俺が事件を解決して有名になったから、今のうちに旨味うまみを吸い上げようとでもいうのか。


 思えば、佐郷には昔からこういうところがあった。妙に計算高く、小学生の頃に行った競争でもたまにズルをしていた。俺と奈霧が何度注意しても佐郷は改めようとしなかった。


「つーか佐郷、あんた彼女いなかったっけ?」

「とっくに別れた。ヤらせてくれねぇんだもん」

「最っ低」


 壬生が瞳をすぼめて非難する。

 つまらない雑談が始まる前に、俺は咳払いをして場の主導権を握る。


「二人に頼みがある」

「何でも言って!」


 壬生が前のめりになった。俺は反射的に背筋を反らして距離を取る。


「小学生時代の知り合いがいたら、そいつらの連絡先を教えてほしい」


 二人が眉を跳ね上げた。横目でアイコンタクトを取り、つばを下す音で空気を震わせる。


「あーお前……正気か?」

「正気だ。言いたいことは分かるけど、確かめたいことができたんだ。協力してくれ」


 泣き止んでからずっと考えていた。


 奈霧が水族館で見せたあの表情。何度思い返しても嘘を付いていたようには見えなかった。


 語ったままの感情を俺に向けていてくれたなら、周囲を煽動せんどうして俺をいじめるわけがない。何か誤解があったんじゃないのか? そんな疑念が頭の中で渦を巻いている。


 壬生が両手をかざす。


「ちょ、ちょっと待って。終わったことなんだよ? 触れない方がみんなのためだって分かるでしょ?」

「みんな? みんなって誰のことだよ」


 眉をひそめて壬生を見据える。


 起きた出来事は消えない。過去がむべきものであろうと無かったことにはできない。掘り返されたくないからやめろだなんて、加害者の勝手な言い分だ。


「ま、まぁ落ち着けって。壬生の言うことが正しいぜ? 今さら小学生時代のことをぶり返してどうするよ」

「そ、そうそう。頭のいい伏倉らしくないって」


 視界に気色の悪い笑みが並ぶ。


 何気ないその仕草が引っ掛かった。


 二人は過去を後悔していると思っていた。この前はいじめ事件の顛末てんまつを話してくれたし、俺の頼みには協力的に動いてくれると確信していた。


 それが何だ? 真実を解き明かそうとした途端、俺の前に立ちふさがって過去から遠ざけようとしている。俺に探りを入れられると二人が困るみたいじゃないか。


「佐郷、壬生。俺に何か隠してないか?」


 二つの体がビクッと揺れる。誤魔化し笑いが目に見えて強張った。


「な、何も隠してねぇよ」

「それならどうして俺の邪魔をする」

「誰もそんなことしてねぇし。ただ小学生時代のことは、俺らにとっても黒歴史なんだ。分かんだろ?」

「それでも君達には教える義務があるはずだ。嫌々でもいじめには加担していたんだから」

「加担だなんて! ひどいよ伏倉!」


 甲高い声が店内に響き渡った。その声量に顔をしかめる。


「だから、その名字で呼ぶなと何度も――」

「伏倉?」


 第三者の声に呼びかけられた。振り向いた先で坊主頭の少年と目が合う。


 請希高校の校舎内で見かけたことはない。初対面、のはずだ。


「人違いだったらごめん。伏倉釉だよな?」


 気管を鷲掴みにされたような感覚に陥った。空気を吸って吐き出すだけの作業が、やり方を忘れたように上手くこなせない。

 

 伏倉姓の俺を知る人間は多くない。中学生になってからは市ヶ谷姓を名乗っていたし、PTSDに悩まされて授業のほとんどを通信教育で済ませた。新たに交友関係なんて築く余裕はなかった。


 坊主頭の少年は、あの万魔殿で蠢いていた悪魔に違いない。


 俺はテーブルの下で拳を作る。


 東京観光か、それとも都内に住んでいるのか分からないけど、これはチャンスだ。図らずも遠くの店まで足を運んだ甲斐かいがあった。


 さあ、気を強く持て。


 なぶられるだけだったあの頃とは違う。俺は暴漢を鎮圧するだけの暴力を得た。精神的にも、肉体的にも強くなった。


 ここで逃げたら、次はいつ真実をあばく機会が訪れるか分からない。


 奈霧をうらまなくて済むかもしれない。昔みたいに、笑みを交わす日々を取り戻せるかもしれないんだ。


 顔を上げろ。相手の目を見ろ! 


「……誰、だ?」

「俺だよ俺、羅上らがみ。まさか佐郷と壬生までいるなんてなぁ。仲直りしたんだな、お前ら」


 羅上を名乗った少年が口角を上げた。


 体のしんがヒリッとする。


 何故笑っている? あれだけのことをしでかしておいて、どうして被害者の前でヘラヘラと笑っていられるんだ? 


 まぶたに力がこもる。


 表情が変わりつつあるのを感じて微笑を間に合わせた。


 羅上には吐いてもらわなきゃいけないことが山程ある。逃がしてなるものか。


「お、おい、その辺にしておけよ」


 佐郷がひかえめな声色で注意した。


 壬生も便乗びんじょうした。二人とも強い口調じゃないのは、羅上一緒に俺をいじめた過去があるからだろうか。


 傍観者ぼうかんしゃてっされるよりはずっといい。羅上が逆ギレした際の保険になる。


「その辺ってなんだよ? ちょっと挨拶しただけだろ」


 羅上が眉間にしわを寄せる。


 佐郷がきょどった。


「だ、だからさ、そういうのが迷惑じゃないかなーって話だよ」

「そ、そうよ。どうしてもっていうならあっちで話そ?」

「めんどくせーなぁ。その必要ねーだろ」

「いいから!」


 佐郷の荒い声が店内を駆け巡った。


 不思議な光景だ。佐郷はこの前いじめを笑い話にしていた。少なくとも俺のことを考えて怒鳴るような奴じゃない。話しの場を変えようなんて、今さらどういう風の吹き回しだ?


 羅上が舌を打ち鳴らした。


「何だよ、人をこぞって汚物みたいに。デマを広めたお前らが許されてんだから、伏倉はもう気にしてないんだろ?」

「ばッ⁉」

「ちょ、ちょっと⁉」


 壬生が飛び出して羅上の口を押さえた。


 よほど俺に聞かれたくなかったのだろう。佐郷が羅上の手首を握り、ごねる相手を連れて三人でどこかに消えた。


 俺は今、何を聞かされた? 


 デマを広めたのは佐郷と壬生? あの二人が、俺をめたっていうのか?


 ずっと奈霧をかたきだと思っていた。自動車にかれたことで逆恨みし、周囲を煽動せんどうして俺をいじめたと思い込んでいた。


 実は違ったのか? 俺の仇は、友人の振りをしてすぐ近くにいたのか? 何のために?


 まとまらない思考と格闘する内に、佐郷と壬生が戻ってきた。


 羅上の姿はない。色々言って帰らせたことがうかがえる。


 懐疑かいぎから転じた確信が口を突き動かした。


「デマを広めたのは、君達だったんだな」


 二人のヘラっとした表情が固まった。


 肯定こうていも否定もない。適当な言い訳を考えているのが手に取るように分かる。


「聞かせてくれるな?」


 言い逃れできないことを示すべく強い口調で要求した。


 佐郷と壬生が項垂うなだれるように頷いた。のそのそと肩を並べて着席し、せわしなく視線をさまよわせる。


「佐郷」


 らちが明かないと考えて暗に発言を促した。


 佐郷が観念して肩を落とす。


「……俺さ、奈霧のこと好きだったんだよ。こいつはお前のことが好きでさ、お近付きになりたくてお前らに接触した」


 脳裏に、逢魔時に濡れた公園が想起される。


 奈霧と砂の城を作っていた時。佐郷と壬生がおどおどしながら近付いてきた。あの時は面白い同級生がいたものだと感嘆したけど、今の話を聞くと見方が変わる。


 あの城の装飾は練習無しにできるものじゃなかった。きっと二人は、遠目からずっと俺達を見ていたんだ。俺と奈霧の間に入れないかと画策して、砂で装飾する技術を研究したのだろう。


 冷気に首筋を撫でられたような悪寒がした。


 当時の年齢からは考えられないほど計画的な行動だ。一緒に遊ぼうと呼びかけるわけでもなく、俺と奈霧の行動を徹底的に分析し、確実に取り入る手段を模索もさくしてから実行した。


 さながらしげみに隠れて獲物を観察する肉食獣だ。視界に映る二人が、人の形をしているだけのナニカに見えてくる。


 呼吸が浅い。息苦しい。


 深く空気を吸い込んで続きを促す。


「最初は一緒に遊ぶだけで満足だった。でもお前と奈霧は凄く仲が良くてさ、俺達が入るスペースはなかっただろ? 間近でいちゃいちゃを見せ付けられるうちに俺はお前が、壬生は奈霧がうとましくて仕方なくなった」


 壬生が手の平をテーブルに叩き付けた。椅子の脚を鳴らして直立する。


「ちょ、ちょっと! 私は別に、奈霧さんを疎ましく思ってなんて!」 

「今さら嘘付いたってしょうがないだろ」


 佐郷が不貞腐れたように呟き、壬生がくわっと目を剥く。


「嘘って何ッ⁉ 大体、あんたがあの話を持ちかけなかったら私は!」

「俺のせいだって言いたいのかよ⁉」


 佐郷も椅子をガタッと鳴らした。


 俺は拳を振り上げ、眼前のテーブル目がけて振り下ろす。


 店内に鈍い音が響き渡った。多くの視線に晒されたけど思ったよりは気にならない。これ以上見苦しい悪魔を視界に収めていると衝動に身を任せてしまいそうだ。


「座れ」


 トーンを下げた声で命じた。自分がどんな表情をしているのか、窓ガラスを見て確認するのも億劫おっくうだ。


 ぺらぺら喋っていた二人が閉口してぺたんと腰を落とした。しゃべる責務を押し付け合うように視線をぶつけ合う。


 客の視線を気にする二人じゃない。ここから先はよほど言いにくいことなのだと察しが付いた。


「佐郷」


 壬生は頭が緩い。佐郷の方が多少は論理を立てて話せる。


 佐郷によって話が再開された。


「このままじゃ奈霧を取られると思った。そんな時、奈霧が自動車に轢かれた。聞けば、お前は奈霧と口論したらしいじゃないか。だから、チャンスだと思った」

「チャンス?」

「……お前らの仲を裂くチャンスだよ」


 無意識に拳がギュゥッと固まる。


 手元できしむ音が聞こえてハッとした。先程から握っているスマートフォンの悲鳴だ。


 まだ壊れては困る。俺は指から力を抜く。


「俺が奈霧を突き飛ばしたってデマは、俺と奈霧の仲を引き裂くためのものだったんだな」

「あそこまでひどくなるとは思わなかったんだ。だから積極的にはいじめに参加しなかっただろ?」

「助けもしなかったな」

「すっごく怖かったんだよ! みんなすげぇ形相ぎょうそうわらうし、責任を押し付け合うし、生きた心地がしなかったんだぜ? ずっと怯えてたんだ。俺達の気持ちなんて、お前には分からないだろ」

「分かるわけないだろうッ! 俺は毎日泣きじゃくってたんだぞ⁉ どうしてデマを広めた奴を気遣きづかわないといけないんだよッ!」


 ここが店内であることを忘れてえた。


 胸の奥で憤怒の濁流だくりゅうが荒れ狂っている。理性の制御から逃れようと暴れている。


 殴り飛ばしてやりたい。目の前にある二つの顔を、涙と鼻水でグチャグチャにしてやりたい。奈霧相手でもここまで憎悪したことはない。こんなに強い怒りを誰かに向けるのは初めてだ。情動じょうどうをどう抑え込めばいいか分からない。


 佐郷が身をすくめた。


「で、でもさ、もう時効だよな?」

「……はぁ?」


 頓狂とんきょうな声が口を突いた。


 時効。過去に不法な行為を行った者が、一定期間その責任を問われなかった場合にその責任を問われなくなる制度。かつては殺人罪すら消滅させたという。考えた奴の脳を切り開いてみたくなる悪法だ。

 

 二人は、今それを主張したのか? いまだにごめんの一つも口にしない加害者が、被害者たる俺の前で、年月が経ったからお前は俺達を許すべきだと、そう説いたのか? 


 こいつら感情が欠けている。こんなの、人の形をしているだけの化け物じゃないか。


 佐郷が目をぱちくりさせた。


「あれ、もしかして時効の概念がいねん知らない? 壬生は知ってるよな?」

「し、知ってる! 罪が問われなくなるやつね!」

「そうそう! な? あるんだよそういうの。世の中には!」


 友人だと思っていたモノが醜悪しゅうあくに笑んだ。


 煮えたぎっていた頭からスーッと熱が引く。


 殺すと告げた者に、やる人間は何も言わずにやるとさとす者がいる。俺はそのワードを聞くたびに鼻で笑ってきたものだ。


 しかしなるほど、なるほど……なるほどな。


 連中の言葉の意味がやっと分かった。怒りが臨界点を突破すると人間は逆に冷めるものらしい。あらゆる感情が吹き飛んで為すべきことしか考えられない。俗に言う無敵の人になった気分だ。この年でそれを悟るとは夢にも思わなかったが。


 壬生に同意を得て調子づいたのか、佐郷の口元が曲線を描いた。


「それにほら、小学生時代の恋は実らないって言うだろ? お前と奈霧は、きっとそういう運命だったんだよ。お前もあと少しで大人になるんだし、分かるだろ? な?」


……凄いな、こいつは。


 加害者が言うべきセリフじゃないだろう? 甘酸っぱい失恋を経験した者が、昔をなつかしむ時に告げる言葉じゃないのか? それは。


 静かに奥歯を噛みしめる。強く、強く、砕かんとばかりに食いしばる。


 人の初恋を、少年時代を、家族を滅茶苦茶にしておいて、何を言うかと思えば時効? 運命? 大人になるんだから受け入れろ? 


 ふざけるな。


 こいつらは悪魔だ。自分がまともな人間だと思いたいだけのゴミクズだ。そうじゃなければ、時効や運命なんて言葉を被害者の前で吐くものか。


 さすがにもう理解した。奈霧は加害者じゃない。俺と同じ、二匹の悪魔に人生を狂わされた被害者だ。俺が手を下すべきやからは、今もテーブルの向こう側で嗤っている。


 俺は復讐のために名字を変えた。髪を染めて、好きでもない勉学に励んできた。


 胸の奥から噴き上がる憎悪の火に焼かれ、『伏倉釉』の大部分が変性した。純真だったあの頃には戻れない。それら諸々を踏まえた上で負の感情を育んできた。


 奈霧との触れ合いで失われていたそれらの活力が、暴発せんとばかりに燃え盛ったのを感じる。眼前の悪魔を滅しろと、憎悪のエネルギーが唸りを上げる。


 さあ、灰と化していた日々に終わりを告げよう。一切いっさい容赦ようしゃを捨て去って『市ヶ谷釉』の原点に立ち返ろう。


 罪には罰を。この身に宿るはちきれんばかりの憎しみ、余さず叩き付けてやる。


「そうだな。小学生だった頃のことだし、君達の言う通り時効だよ。昔のことにこだわって、今の友情を壊すなんてバカバカしいよな」


 俺は口角を上げる。殴りはしない。悪魔に対する報復手段は、最初から一つと決めている。


 佐郷と壬生がきょとんとする。


 それも数秒のこと。二人が顔を見合わせて表情を明るくした。


「だよな! 市ヶ谷なら分かってくれると思ってたぜ!」

「さすが伏倉! 優しいっ!」

「そうだろう」


 俺はにこにこ微笑みかける。悪魔どもに偽りの笑顔を向けながら、スマートフォンをそっとショルダーバッグに戻した。

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