第8話 釉くん、なの?

 久しぶりに意地悪な上級生に会った。ヘラヘラとして、なれなれしく話しかけてきた。気持ち悪いから無視してやったけど、うっとうしくなって話を聞いてやった。

 話を要約するに、僕と奈霧は夫婦らしい。男女が仲良く二人きりで遊ぶ。こいつらの価値観では、それをすると男女は夫婦になるようだ。ばかばかしいと言い渡してやった。

 恥ずかしさはあった。否定はした。

 それ以上に、こいつらの狙いに乗るのが嫌だった。眼前の人型にあざ笑われることよりも、奈霧と一緒にいられなくなることの方が耐えられない。僕は鼻で笑って上級生を置き去りにし、朝の廊下に靴音を響かせた。心なしか、普段より早く学校に着いた気がした。


 後方の入り口から教室に踏み入る。奈霧が黒板の前に立っていた。クラスメイトがニヤニヤして華奢な背中を眺めている。それらが僕の存在に気付き、一斉に振り向く。

 体が強張ばった。数十の視線がもたらす圧力は相当なものだった。でもこれは人数が多いだけだ。上級生の威圧感と比べれば、個々の視線がもたらす圧力はヒヨコに等しい。僕はクラスメイトを無視して奈霧の背中を見据える。

 奈霧の耳がりんごのように真っ赤だった。視線をずらすと、黒板には白いチョークで傘が描かれている。先端にハートが乗り、取っ手の左右には僕と奈霧の名前が記されている。俗に言う相合傘だ。


 奈霧と目が合った。大きな目が見開かれ、細い手から黒板消しが落下する。長方形の物体が硬質な音を鳴り響かせ、褐色の教壇に白い粉がまぶされる。

 それが合図となった。奈霧が膝丈のミニスカートを翻し、反対側の出口から廊下に消える。

 僕もすぐに教室を出た。あんな連中の策にはまるなんて、いつもの奈霧らしくない。逃げずに戦えって叱りつけてやらないと。廊下を疾走して一階の床を踏み鳴らし、内履きのまま外に出て奈霧の手を握る。やわらかな感触に気恥ずかしさがこみ上げたものの、衝動に耐えて逃げる理由を問いただした。


 奈霧は何でもないと言った。

 嘘だ、バレバレだ。暴れる奈霧の手首を握りしめ、本当のことを話せと追及した。夫婦と揶揄われるのが恥ずかしいから、しばらく距離を置いてほしい。覇気のない声でそう言われた。

 僕は驚き呆れた。風が吹けば倒れてしまうんじゃないか? そんな心配を大真面目にするくらい、理由を話す奈霧が弱々しく見えた。眼前の少女が、あの奈霧有紀羽だとは思えなかった。僕は叱責した。相合傘はあいつらの策略だ。狙い通りに動かされて恥ずかしくないのかと。

 奈霧はまるで聞く耳を持たなかった。白い腕が再び拘束から逃れようと暴れた。駄々っ子のような姿からは、理知的だった少女の面影が一切感じられない。嫌、離して! その繰り返しにむかっとして、僕は力づくで押さえ付けた。栗色の瞳が揺れる。目元に滴が浮かび、長いまつ毛がそれを吸う。


 釉くんなんて大嫌い!


 張り上げられたその言葉で思考が漂白された。胸元を手で打たれ、反応できずに尻餅を付く。奈霧に拒絶された。その現実を直視できずに、校舎から去り行く背中をただ眺める。

 華奢な体が校門をくぐり、歩道を真っ直ぐ突き進む。キキキキキキッ! と擦れる音に遅れて、奈霧の体が左に消える。

 奈霧が軽自動車に撥ね飛ばされた。僕が事態を呑み込んだのは、それから数秒経ってからのことだった。


 ◇


 昼休みに出没したストーカーは拘束された。警察の人が事情聴取や現場検証で校舎に来るらしい。五時間目の授業の代わりに緊急ホームルームが開かれ、現場保管のために速やかな下校を促された。その旨が伝達された際には、教室内がお祭りのように騒がしくなったものだ。終礼が終わるなりクラスメイトが消えた。容器からこぼれ出る水のようだった。


 俺はといえば、事件に介入した者として事情聴取を要求された。青い制服を着込んだ男性に有ること無いこと聞かれ、解放された頃には十五時が迫っていた。沈んだ気分で昇降口に踏み入り、日光を浴びて肺に新鮮な空気を送り込む。

 大きく嘆息する。何が悲しくて、こんな早上がりの日に警察と睨めっこしなきゃならないのか。憂鬱な気分を乗せて二酸化炭素を放出する。


「市ヶ谷さん」


 凛とした声が響いた。振り返ると、出口付近の壁を背にして奈霧が立っていた。


「先に聴取が終わってたのか」

「うん」


 理不尽だ。俺は第三者だぞ? どうして被害者の聞き取りの方が早く終わるんだ。

 愚痴ろうかと思ったけど、気の抜けた微笑を見てその気も失せた。奈霧の年相応な笑みは久しぶりに見る。ストーカーの件でずっと気を張っていたのだろう。

 奈霧が俺に向き直る。


「お昼休みは助けてくれてありがとう。迷惑をかけてごめんなさい」


 ブレザーをまとう上体が前に傾く。

 お辞儀だった。


「礼を言うか謝るか、どっちかにしたらどうだ?」


 俺はきまりが悪くなって目を逸らす。一度は奈霧を見捨てようとした身だ。お礼の言葉を受け取るのは気が引ける。

 奈霧が上体を起こす。


「両方言いたいの。感謝はしているけど、あの人が刃物を持っていたら死傷事件に発展していたかもしれない。そう思うと、私……」


 奈霧が目を伏せる。陰った表情からは隠し切れない慙愧の念がうかがえる。確かに無謀ではあった。空手を習っていても俺は生身だ。相手がナイフを所持していたら、こちらも手加減はできなかった。それこそ、相手が動かなくなるまで拳を振るう羽目になっていただろう。死傷者が出た可能性は十分に考えられる。人気のない廊下で話していたのは、奈霧なりに他の生徒を巻き込むまいとした結果だ。それを踏まえても迂闊と言う他ない。

 俺は肩をすくめる。奈霧は昔からこうだ。頭がいいのか悪いのか、時々分からなくなることがあった。こんなところまで昔のままだと調子が狂って仕方ない。


「終わったことだよ。危険を承知で介入したのは俺だ。君が気にすることじゃない」


 本当にためにならない行動だった。復讐を画策する日々から解放されるチャンスだったのに、自分でそれを台無しにしてしまった。あろうことか、奈霧に何事もなかったことに安堵を覚えている始末だ。あまりにも無様。ここに数週間前の俺がいたら、眉を吊り上げて腕を振りかぶったに違いない。

 奈霧が桃色のくちびるを引き結ぶ。カバンを握る指が白さを帯びる。


「話は変わるんだけどさ、これから予定はある?」

「ないよ。本来は授業があった時間帯なんだ。予定があるのはおかしいだろう」

「だったらさ、気分転換に付き合ってくれないかな?」 


 言葉の意味を理解するのに数瞬を要した。つまり、俺と出かけたいということだろうか? 一人で出かけるのが寂しいなら友人を呼び付ければいいのに。いや、それだと事件について問われるか。他人事はあくまで他人事。面白半分に質問する友人の図が思い浮かぶ。俺とてファミレスで佐郷と壬生に半ギレした身だ。触ってほしくない部分を小突かれる不愉快さは身を以って知っている。犯行の現場に居合わせたのは俺だけ。恐怖を共有できるのも俺だけ。奈霧が気持ちを慰める相手としては俺が最適だ。


 これはチャンス。好機。またとない僥倖ぎょうこう。さりげない会話で昔のことを聞き出せば、いじめについての言質を取れるかもしれない。スマートフォンのアプリで録音すれば証拠に使えるし、復讐対象とのお出かけなんて最高にとち狂っている。活力を取り戻すには十分な刺激になるはずだ。


「いいよ。どこに行く?」

「水族館に行きたい」

「分かった。行こう」


 二人で校門をくぐり、目的地へと足を進ませる。

 やはり会話は始まらない。表向きでは、俺と奈霧は接点がないに等しい間柄だ。俺が何を趣味とするのか、何を嫌うのか、奈霧の視点では分からない。よくそんな相手と出かける気になったものだ。昼休みに襲われたばかりなのに、男性と二人きりで歩くなんて正気の沙汰じゃない。知りたいから一緒に出掛けるという見方もできるけど、そこまで気に入られることをした覚えはない。暴漢から助けたことで吊り橋効果でも発動したのだろうか。


 思考を巡らせるうちに、シックな色合いの出入り口が見えてきた。人の流れに乗って入館すると、視界が落ち着きのある暗がりで満たされる。さらに歩を進めた先で、大小様々な水槽が画廊のごとく並ぶ。緑に彩られた質素な水槽に混じり、赤や黄の水草が燃えるように生い茂っている。普段は目にすることも叶わない生き物の数々。照明降り注ぐスペースで身をくねらせる魚は、ライトの下で踊り歌うアイドルを思わせる。


 魚にも種類があるものだなぁと思いつつ、観賞する奈霧の横顔をうかがう。幼馴染は子供のごとく目を輝かせていた。感嘆の吐息をもらし、大きな水槽の前で夢中になっている。視線を追った先にはクラゲ、クラゲ、クラゲ。おびただしい数の刺胞動物が暗がりを背景に円を描く。まさしく闇夜に満ちた月。クラゲを海月と書く理由がよく分かる光景だ。


「クラゲが好きなのか?」

「うん、大好き。市ヶ谷さんはどの生き物が好き?」

「ジンベエザメ」


 俺は即答した。まだ家庭が壊れてなかった頃の話だ。両親と沖縄旅行に行ってジンベエザメを見た。の~~んと進む巨体が放つ存在感は今も記憶に新しい。

 奈霧が不満げに目を細める。


「ジンベエザメは館内にいないじゃない」

「じゃあクラゲ」


 奈霧の表情が明るくなった。分かりやすくて何よりだ。


「ほわほわしてて可愛いよね! 体が半透明だから色鮮やかなライトが映えるし、水族館のアイドルみたいな雰囲気が凄く好きなんだ」


 笑顔があどけない。いつになく饒舌だ。学校ではこんな調子で友人と話すのだろうか。それとも悩みの種だったストーカー事件が解決したから、気が緩んで言動が幼くなっているのか。純真にはしゃぐ子供を見ているようで口元が緩む。

 小学生時代の記憶が脳裏をよぎった。奈霧と笑みを交わす光景に続き、殴られ蹴られの忌むべき記憶が再生される。その落差が『市ヶ谷釉』としての意識をつなぎ止めた。

 そうだ。俺は遊びに来たわけじゃない。僅かでも情報を得るために水族館まで足を運んだ。魚やクラゲを鑑賞するだけじゃ帰れない。

 落ち着いて言葉を交わせる場所が欲しい。俺は周囲を見渡して人差し指を伸ばす。


「小腹が空いたし、あのカフェに寄らないか?」

「いいね。私も甘いの飲みたいな」


 奈霧と飲食スペースに立ち寄る。テーブル席を選んでフロートを注文する。クラゲを模した氷が、それぞれコーヒーとジュースに浮いている。画像にして保存すればSNS映えしそうだけど、飲む時は正直邪魔だ。ストローで押し込まないと氷にキスする羽目になる。


「彫刻品みたいだね」


 奈霧がスマートフォンを取り出し、フロートを撮影する。宝石箱を見つけた女の子のようにはしゃいでいる。飲みにくいフロートも好評のようだ。


「慣れてる感じだけど、カフェをよく利用するのか?」

「うん。お友達と一緒に勉強したり、まだ話足りない時に利用するよ」

「店の邪魔になりそうだな」

「嫌な顔をされたことはないよ。混んでる時は長居しないし、ちゃんと注文もするから」

「なるほど。道理で男と二人きりでも照れがないわけだ」


 俺はおどけて口端を吊り上げる。冗談めかした態度で口を軽くする作戦だ。照れるか、悪戯っぽく笑うか。そんな反応を期待する。


「慣れてるって言えばそうかも。小さい頃は、幼馴染の男の子とよく遊んでいたから」


 トーンの下がった声に意識を引かれた。落ち行く太陽のごとく、奈霧の視線が手元に落ちる。細長い指がストローを握り、容器の中身をかき混ぜる。

 聞くなら今だ。そんな直感めいたものがあった。


「よければ、話を聞かせてくれないか? その幼馴染について」


 ストーカーを取り押さえたことで、奈霧は俺に感謝の念と罪悪感を抱いている。加えて、あれだけクラゲではしゃいでいた直後だ。水族館というスポットの効果も相まって、気分はいい具合に高揚している。平常時よりも口が軽くなるはずだ。

 奈霧の長い睫毛が上下する。


「気になるの?」

「ああ」


 真剣味を伝えるために栗色の瞳を見つめる。


「……市ヶ谷さんになら、いっか」


 フロートをかき混ぜる指が止まった。呟きに続いて、細い指がストローから離れる。

 艶やかなくちびるが、開く。


「幼馴染の名前は伏倉釉。何かと私に張り合うような男の子だったの。上級生との喧嘩に加勢してあげたのに、負けた挙句に一人なら勝てたし、なんて言うような人だった」


 知っている。俺のことだ。奈霧と肩を並べて二人の上級生に挑み、負けて地面に寝転がった。夕焼けの空がいつになく綺麗で、清々しい気分になったのを覚えている。


「ひどい奴だったんだな」


 心にもない言葉を吐いた。今の俺は最低かもしれないけど、少年時代は割とありふれた男子だったと思う。語る奈霧の表情が楽しそうだから、さらなる言葉を引き出すべく相槌を打ったに過ぎない。そう思わなきゃ、見てられない。

 小さな顔が左右に振られる。


「そんなことないよ。彼と競争するのは好きだったし、時間を忘れるほど楽しかった。男の子らしい面もあったんだよ? 犬に吠えられて動けなくなった時があったんだけど、釉く……伏倉さんが私の手を握って優しく引いてくれたの。柄にもなくお姫様になった気分だったよ。思い出すたびにベッドの上で転がったくらいドキドキした」


 奈霧が膨らんだ胸元に手を押し当て、慈しむように微笑む。

 俺は膝の上でぎゅっと指を丸める。爪が手の平に食い込むくらい、強く固く握り締める。


「好き、だったんだな」

「うん。私の初恋だった」


 沸騰する水のごとく、胸の底からグツグツと熱いものがこみ上げる。限界だ。激情の間欠泉に打ち上げられる一秒前。引き締めていた口の震えを止められない。

 だって。喋る奈霧の表情が優しく、可愛らしく、とても綺麗だと思ってしまったから。


「そこまで想っていてくれたなら、どうしていじめたんだよ」

「……え?」


 奈霧の微笑が強張る。

 呟いた。震える声で問いかけてしまった。頭が失策を悟っても口は止まってくれない。


「凄く苦しかったんだぞ? 身に覚えのないことで殴られて、蹴られて、なのに誰も助けてくれなくて。俺が不登校になったせいで、父さんは家を出て行った。母さんは心労で倒れて鬼籍に入った。俺は青春と家族を失ったんだ! 全部、君達のせいじゃないか……ッ!」


 絞り出すように奈霧を責めて、ハッとして顔を上げる。

 気付いた時には手遅れだった。


「……釉くん、なの?」


 桃色のくちびるが小刻みに震える。見開かれた目を見て息が止まる。

 やってしまった。自覚して、床が崩落したような感覚に陥った。ずっと隠し通してきたのに、噴き上がる激情の波に押し流された。喋ってはいけないことを口走った。

 もう、終わりだ。


「っ!」 


 俺は椅子から腰を上げ、奈霧に背を向けて疾走する。後方から制止の声が発せられた。悲痛な響きを帯びたその声を無視し、一人出口をくぐって元来た道を逆走する。帰路を走り抜けた脚でマンションのエントランスに駆け込み、エレベーターを介して浮遊感に揺られる。

 扉が開き次第、逃げ込むように玄関に飛び込んだ。肩で息をしながら写真立てに腕を伸ばし、長方形のそれを胸に抱いて玄関の床に崩れ落ちる。


「ごめん、母さん……」


 声が情けなく震えた。目元からあふれる何かが頬を伝う。

 家族崩壊の原因は俺の不登校だ。父は俺の不登校を母の責任として糾弾し、一人実家に帰った。母方の祖父の世話になるまで、母が身を削って俺を養ってくれた。母は元々病弱な身だった。無理が祟って床に伏し、そのまま帰らぬ人となった。『幸せにしてあげられなくてごめんなさい』。震えた声で何度も繰り返す光景は、今もまぶたの裏に焼き付いて離れない。


 家庭が壊された。学生でいられる貴重な時間を失った。それらの恨みを糧に、俺は奈霧を不幸にしてやると心に誓った。母の形見とも言える黒髪を金に染め上げ、名字を変えて東京請希高等学校に入学した。俺は亡き母さんのためにも幸せにならなければならない。奈霧を破滅させた上で学生生活を謳歌する。それが俺のゴールだった。

 だというのに、復讐の計画を自分で台無しにしてしまった。憎悪の霧を晴らすのは幸福をつかむ絶対条件だ。にもかかわらず、俺は復讐の計画を自分で台無しにしてしまった。憎悪の霧を晴らすのは幸福をつかむ絶対条件だったのに、俺は奈霧に伏倉釉だと認知された。これから先、奈霧に嫌がらせを仕掛けたら真っ先に俺が疑われる。気付かれずに復讐を完遂するのは不可能だ。

 計画は潰えた。これから先も憎悪の霧が付きまとう以上、もう幸福はつかめない。俺は母への罪悪感を胸に、玄関で嗚咽を響かせた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る