第7話 ストーカー
「おーい、食べちゃうぞーぅ」
食堂の喧噪に混じって、誰かが何か言っている。返事をするのも面倒だ。ぼーっとして体力を温存する。
目の前に箸が伸びる。細長い先端が俺の唐揚げを挟んで左方向に引っ込む。視線で追った先で大きな口が開き、揚げられた鶏肉が口内に消える。頬袋が蠢ぐ。芳樹がごくっと喉を鳴らす。
俺は友人と見据える。言葉もなく視線と視線をぶつけ合い、おもむろに両腕を伸ばす。俺の唐揚げを食べたアホの頬をつねり、左右に引っ張る。
「いれれれれ⁉」
「貴様、返せ。返すんだ」
「もう飲んじった」
てへっと芳樹がウインクする。顔面に拳を叩き込みたい衝動に駆られたけど、寸でのところで自重する。
「それなら金だ、金で返せ。もう一度同じものを注文するから」
「唐揚げの原価率って低いらしいぜ?」
「そうか。聞いてない」
芳樹がぺらぺら喋り出す。原材料が鶏肉で安価。省スペースで調理可能。人件費を抑えるのも容易く、特殊な調理技術を必要としない。様々な要因が重なり、唐揚げは一時期ブームになったそうだ。
凄くどうでもいい。早く終われその語り。
「それでな……お、奈霧さんだ」
芳樹につられて振り向く。昼休みの食堂に知り合いの姿があった。人混みの中でも目立つ容姿は相変わらずだけど、どことなく違和感がある。
奈霧がすらっとした脚で歩みを進める。友人を前にして、端正な顔立ちに微かな笑みが浮かぶ。俺は違和感の正体に思い至った。笑顔だ。視線を惹き付けて止まなかった花のような笑顔が、今日は見違えるほどに陰っている。もはや口角を上げているだけだ。疲れた雰囲気を隠し切れていない。
「奈霧さん、具合悪そうだな」
「夜更かしでもしたんじゃないか?」
「夜更かしって、他に思い至る理由あるだろ」
「例えば?」
「おいおい、本気で言ってんのか? ストーカー以外に何があるんだよ」
ため息混じりの声で告げられた。俺も呆れて目を細める。
「その話題好きだな。一体いつの話をしているんだ?」
「いつって、二日前の話だろ?」
「……何?」
一瞬芳樹の言葉が呑み込めなかった。奈霧と言葉を交わしてから、俺は三週間以上も手紙を書いていない。ストーカーが諦めた、もしくは改心したと考えるのが自然だ。奈霧は平穏な日常に戻ったとばかり思っていた。なのに二日前? 全く身に覚えがない。
芳樹が眉を跳ね上げる。
「おいおい、本当に何も知らないのか? 不審な男が、奈霧さんのロッカーを開けようとしてたって話」
「何だそりゃ」
初耳だ。三週間くらい前ならともかく、二日前の出来事なら絶対に俺じゃない。全身の血を抜かれたような虚脱感で喘ぐ間に、事態は妙な方向に転がっていたようだ。
「その話はどこまで信用できるんだ? 目撃者が一人なんてのは無しだぞ?」
「見た奴は一人だけじゃないみたいだぜ? 俺は現場を見たわけじゃないから、これ以上は何とも言えないけどさ」
芳樹は平気で嘘を付くタイプじゃない。俺がとっさに思いついた弁解みたく、恋文騒動に便乗した生徒がいたのだろうか。奈霧がびっくりドッキリするのは確実だけど、その線は薄い。不審者の正体が生徒なら、その人物は制服か体操着を着用していたはずだ。不審者という名称で話が広まることはない。男子が奈霧のロッカーに恋文を入れていたと、女子がキャッキャしていなければおかしい。
もしや俺の工作に混じり、本物のストーカーが紛れ込んでいたのだろうか。幾多もの目をかいくぐって校舎に忍び込み、女性のロッカーに自らの欲望を綴った恋文を残す。そんなことを、大人の男性が未成年の少女に行ったと言うのか。
想像して身震いする。ストーキングされる対象が自分じゃないとはいえ、怖気が立つのを止められない。この気持ち悪さは、奈霧がずっと抱いて耐えてきた感情だ。復讐に必要なこととはいえ、奈霧に対する後ろめたさが芽生えかける。
俺はかぶりを振り、頭から罪悪感を振り落とす。
「明確に不審者が目撃されたら、学校側もアクションを起こさないといけないよな。芳樹は何か聞いてるか?」
「監視カメラを付けるべきか協議してるらしいぜ」
「それはまた極端だな」
監視カメラによる監視は一長一短。分かりやすいメリットとしては高い監視能力が挙げられる。その一方で、見張られる側には強いストレスが掛かる。積もりに積もったストレスがいい方向に発散されるケースは稀だ。大抵はろくでもないことに向けられる。
すなわちいじめ。犯罪。その他諸々の違法行為。監視カメラを設置して、それが原因で学校の風紀が乱れては元も子もない。設置コストの問題もある。協議は難航するに違いない。
俺達は昼食を摂って席を立ち、芳樹と食堂を後にする。
「プリントを提出してくる。先に戻っててくれ」
「おう」
芳樹と別れ、一人廊下を歩んで教務室に踏み入る。小難しそうな数学教師を見つけ、ブレザーのポケットから折りたたんだプリントを取り出す。提出するなりお説教タイムが始まった。最近授業に身が入っておらんだの、たるんどるだの、俺が自覚していることを延々と連ねられた。モチベーションの出し方について質問する予定だったけど、もうそんな雰囲気じゃない。俺は微笑を維持することに努める。
小言を聞き流すこと数分。俺はお説教から解放された。廊下の静かな空気を吸い、肺に溜まった淀みを吐き出す。教務室の空気はピリピリしていた。ストーカーの件が一向に解決しないどころか、不審者の姿まで確認されたんだ。有効な策を講じなければ親御から非難される。来年の生徒獲得にも影響が出る。この少子化時代、新入生の獲得は至上命題だ。学校側も焦っていることだろう。理解はできるけど、せめて生徒の前では焦燥を隠す努力をしろ。頼むから。
直接教室に戻る気にはなれず、息抜きを兼ねた遠回りルートを選択する。談笑の声が遠ざかり、人気のない廊下に俺の靴音だけが響き渡る。いつぞやの探検気分だ。非日常に出会えそうというか、童心に帰った気分になる。
「ん?」
ミルクティー色の髪が視界にちらつく。廊下の角を曲がった先に一組の男女がいた。
次に話し相手を見て息を呑む。男性の方は目に見えて興奮している。眼球が血走り、鼻息を荒くして肩を上下させている。身なりから推測するに清掃員だろうか。明らかに平常心からは程遠い。
「もう、あんなことはやめてくれませんか?」
奈霧の声が揺れた。細い指をぎゅっと丸めている辺り、勇気を振り絞ってこの場に立っていることがうかがえる。
男性が目を剥く。
「な、何でだい⁉ ボクの気持ちは手紙に書いたじゃないか!」
男性が足を前に出す。
奈霧が一歩下がる。胸元に両手を当て、心細そうに視線をふら付かせる。気丈な奈霧に似つかわしくない、明らかに怯えた表情だ。
不意に小学校時代の光景がフラッシュバックする。忘れもしない。奈霧が犬に怯え、目元に滴すら湛えて立ち尽くしたあの表情。正直言えば俺も怖かった。吠え猛る犬が首輪を引き千切って飛び掛かってくるんじゃないかと、悪い想像をして足が竦んだ。それでも奈霧の泣き顔を見たくなくて、勇気を振り絞って繊細な手を取った。
当時の気持ちがぶり返し、足が前に出る。
俺はハッとして靴裏を床に押し付ける。こんな人気のない所で話しているんだ。二人が大切な話をしているのは馬鹿でも分かる。脇目も振らず飛び込むなんてヒーロー気取りも甚だしい。大体、俺は奈霧を不幸にしたかったはずだ。勝手に堕ちてくれるなら放っておいて何の問題がある。
男性が再び距離を詰める。奈霧がまた一歩引く。
今度は様子が違う。その分男性も靴裏を滑らせ、両腕を前に出して口端を吊り上げる。奈霧が小さく悲鳴を上げるものの、男性の動きは止まらない。華奢な体を拘束せんと腕が伸びる。
罪には罰を。俺はその理念を掲げて生きてきた。意図した形とは違うけど、奈霧の学校生活は数秒後に壊れる。男性はもう限界といった様子だ。溜め込んだ欲望を解放して、奈霧の美麗な肢体を穢すことだろう。復讐は間もなく完遂される。憎悪の火に灰をかぶせて、心穏やかな青春を取り戻せる。
さあ踵を返せ。内なる自分が、ここに来て迷う自分を
分かっていたのに。
どうして俺は、二人の間に入ってしまったのだろう。
「な、何だお前は⁉」
下卑た笑みが驚愕に上書きされる。俺の背後で誰かの名前が呟かれた。
その人物はもういない。俺は聞こえなかった振りをして、不審者の目をキッと睨む。
「それはこっちのセリフだ。お前、この子の表情を見て何も感じないのか?」
「お、お前って言うな! お前お前お前ッ!」
男性が顔を歪めた。日本語が大変ことになっている。自分が何を言っているのか、おそらく本人も理解できていない。まともな思考能力が残っているなら、そもそも女子高生を押し倒そうなんてしなかっただろうけど。
左胸の奧でビートが刻まれる。熱が全身を駆け巡り、戦う準備が整えられる。夢心地な意識をはっきりさせるべく、拳を固く握りしめる。
「どう見ても彼女は怯えているだろうが。話をするにしてもシチュエーションを考えろ」
「だから邪魔すんなよお前ェッ! ボクは今、奈霧さんと話しているんだッ!」
「話す? 押し倒そうとしたの間違いだろう? 紳士的に接してるつもりなんだろうけど、傍から見ると無理やり迫る異常者だぞお前。成人男性が女子生徒を口説いてる時点で、もう絵面として終わってんだよ。法律を知らないのか?」
「どけ、どけよぉっ!」
男性が地団太を踏む。さすがに察した。これはもう何を言っても駄目なやつだ。
俺は肩を上下させて体をほぐし、深呼吸してスマイルを作る。
「お引き取りください」
「お前ェェェェッ!」
男性が両腕を突き出す。ろくに格闘技を学んでいない、素人丸出しの動き。
俺は前腕で叩き落とすように
相手は刃物を隠し持っているかもしれない。一撃で沈めるのが寛容だ。幸い、空手は一撃必殺に重きを置いている。カッティングでひねった腰をバネに、固く握った右拳を突き出す。
体重を乗せた一撃がみぞおちに吸い込まれた。男性が苦悶の表情を浮かべてうずくまる。すかさず腕を取って関節を極め、廊下に組み伏せて拘束する。
「奈霧、教師か警備員を呼んできてくれ」
「う、うん!」
奈霧が身を翻す。ぱたぱたと靴音が遠ざかった。
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