第6話 アガパンサスの花言葉

 犬がいる。

 体が強張る。金縛りに遭ったように動けない。大型犬に押し倒された経験以来、犬を前にすると体が言うことを聞かなくなる。


 今までは、犬が視界に入らない道を通学路として歩いてきた。その帰路は、放課後になるまでの間に工事で封鎖されていた。仕方なく回り込んだ先で、屋外で飼われている大型犬と遭遇した。


 犬の首元には、小屋に繋がれた首輪がある。外への飛び出しを防止する柵も伸びている。

 でも怖い。四本の脚でリードを引きちぎり、柵を跳び越えて飛び掛かってくるんじゃないか。そんな悪い想像が泉のごとく湧き上がって止まらない。


 お家に帰るには犬の前を通るしかない。私は意を決して踏み出す。道の隅っこで丸くなりたい欲求を抑え込み、靴音を忍ばせて歩を進める。


 静かだ。気になって視線を横に振ると、大型犬が芝生の上でぺたんと座っている。だらけるのに夢中で、私には気付いていないように見える。そのまま。私がこの道を通り過ぎるまで、どうかそのままでいて。


 つま先に感触。カラッとした音に鼓膜を刺激され、ぴくっと体が跳ねる。小石を蹴飛ばした軽快な音が、床に落下したシンバルのように騒々しい。静寂に包まれた道において、小さな音も立派な騒音。惰眠を貪る犬も騒々しく感じたに違いない。毛むくじゃらの上体を起こし、主人の仇を前にしたかのごとく吠え猛る。


 口からひゅっと変な音がもれた。ぞわっと体が総毛立つ。口を開閉させて叫ぶ生き物が、漫画に出てくる恐ろしい化け物に見える。恐怖に耐え兼ねてまぶたをぎゅっと閉じる。視界から犬を消しても、私を非難する鳴き声は止まらない。恐怖と焦燥に頭の中を埋め尽くされ、背中を丸めて縮こまる。じわりと目元に熱いものがこみ上げる。


「奈霧?」


 私はハッとして目を見開く。反射的に振り向くと、いつの間にか伏倉くんが立っていた。信じられないものを見たかのように目を丸くしている。


「どう、して」


 泣いているところを見られた。よりにもよって伏倉くんに。現実を直視して、着火したように耳たぶが熱を帯びる。

 伏倉くんとは色んなことで競ってきた。図工、テスト、駆けっこ。色んなことで勝ったり負けたりを繰り返してきた仲だ。対等でいたかった。弱みを見せるなんて以ての外だったのに。恥ずかしい。消えたい。ぼやける視界に吸われて輪郭を失ってしまいたい。


 靴音が近付く。伏倉くんに笑われたくない、その一心で再びまぶたを固く閉じる。

 手が温かいものに包まれた。突然の感触で悲鳴を上げそうになったけど、今度は意地で抑え込んだ。恐る恐るまぶたを持ち上げ、指に触れているものを視認する。


「行こう」


 そっと手を引かれた。つられて足を前に出す。犬の吠え猛る声をBGMに、質素な街並みが後方へ流れる。顔を上げると、伏倉くんが口を引き結んでいた。微かな震えが指先を通して伝わる。

 伏倉くんも怖いんだろうか。そう思ったけど問う気にはなれない。競争する際に匹敵する真剣な横顔が、私の視線をしっかり捉えて離さない。王子に手を引かれるお姫様になった気分だ。


 犬の鳴き声が聞こえなくなった。手から温かみが離れる。


「うるさかったなぁあの犬。飼い主は何してんだか」


 大きなため息が空気を揺らす。今にもへたり込みそうな脱力具合だ。さっきまでの堂々とした雰囲気はどこにもない。いつも通りのクラスメイトの顔がある。


「伏倉くん、どうしてここに?」


 伏倉くんがそんなだから、私もいつも通りに声を発することができた。


「どうしてって、奈霧が忘れ物したから追いかけてきてやったんだろ」


 伏倉くんがランドセルを体の前に回し、蓋を開けて一冊のノートを取り出す。鮮やかな青紫のお花が載った表紙。名前の欄には奈霧ゆきはと記されている。私の連絡帳だ。


「ほら」


 伏倉くんが連絡帳をぶっきらぼうに差し出す。私は両腕を伸ばして緑色の両端を握り、何となく抱きしめる。口角が上がる。いつも手に取るノートが、今はビーズで装飾されたように輝いて見える。忘れても気付かなかった程度の物なのに、手放したくないと強く思う。


「もう忘れんなよ」


 伏倉くんが目を逸らす。照れているのか、頬が茜色に色付く。柄にもないと知りながら、私のために追いかけてきてくれたんだ。その事実がたまらなく嬉しい。


「うん……ありがとう、釉くん」


 お礼の言葉が口を突いた。今までは照れくさくて言えなかった言葉なのに、この日はすんなりと口にできた。不思議に思ったけど、胸の奥で渦巻く感情に振り回されてそれどころじゃない。逃げるように走り去る釉くんの背中を見送り、ぽかぽかした心持ちで自宅の玄関に踏み入る。伏倉くんを名前呼びしたことに気が付いて、自室の枕を抱いてベッドの上を転がった。


 ◇


 早退した翌日の放課後。俺は視聴覚室に足を運んだ。広々とした部屋で上級生と挨拶を交わし、放送部としての活動に励む。新入部員がやることは地味だ。腹部に両手を当てて発声練習。本を手に朗読する。肺を膨らませ、空気を吐き出すの繰り返し。特別なことはしないのに、言葉を発するだけでも汗をかく。喉を震わせる行為は思いのほか体力を使う。カラオケでダイエットできるという話はあながち間違いでもないようだ。


 部屋を仕切るガラスを見ると、先輩が機材をいじっている。動画の制作やドラマ作りも活動内容に含まれる。事前に話はされていたけど、部活動は思った以上に本格的だ。先輩方の真剣な表情には鬼気迫るものがある。こんな一生懸命な人達に不義理を働くのだと思うと、我ながら眩暈がしそうになる。


 俺は先輩に頼み込んで機材の扱い方を教えてもらう。知りたいのは、昼休みの放送に関連する器具の操作方法だ。失敗は許されない。手取り足取り教えてもらう。


 復讐の完遂に必要なピースを学び終えたところで部活動が一段落した。俺は欲するままにペットボトルの水を仰ぐ。美味い。味のない液体が体に染み渡るようだ。いつになく美味しく感じて喉鳴らしが進む。


「市ヶ谷さん、今日は元気ないね」


 水の旨さを再確認していると、男子の膝をなぞる系悪女が寄ってきた。相も変わらず意地の悪そうな笑みを浮かべている。一瞬顔をしかめかけるが、室内の男子を敵に回しかねない。平静に努めて応対する。


「普段通りだと思いますけど、元気がないように見えます?」

「見えるねぇ。何かあったの?」


 艶のある黒髪が揺れる。制汗剤だろうか。大人びた微笑に遅れて爽やかないい香りがした。奈霧の髪から漂った芳香を思い出し、バツの悪さで目を背ける。


「特には何も」

「何もないってことはないでしょ? ほれほれ、お姉さんに相談してみ」


 人差し指で頬をつんつんされ、言葉に困ってそっぽを向く。相談なんてできるわけがない。幼馴染にストーカーまがいな行為をしようとしたら、その幼馴染に犯行の瞬間を見られたなどと。


 俺は変わりなく学生生活を送っている。生活指導室に呼び出されないところを見るに、奈霧は手紙の件を伏せているようだ。俺はあれから新たな手紙を綴っていない。奈霧と一緒に下校して以来、心を焦がしていた業火が鳴りを潜めた。奈霧に現場を目撃されて、無意識に怖気付いたのかもしれない。次なる一手を打つべきだと猛っても、復讐の火は一向に灯らない。海底でもがくような毎日を送っている。


 日常生活にも影響が出た。授業内容が全く頭に入らないのだ。紙に浸透する水のごとく頭に入っていたのに、あの日から紙が油と化したように知識が弾かれる。勉学に集中することもままならない。憎悪という感情は、俺が思っていた以上に活力をもたらしていたらしい。

 この学校は授業の進みが速い。分からないことを放っておくと、次の授業で扱う内容を理解できない。怠惰の代償は大雪のごとく積み重なり、いずれ俺を押し潰すだろう。どうしようもなくなれば補習を組まれ、それでも駄目なら留年からの退学が待っている。

 周囲から追いていかれる焦燥に胸を掻き毟られ、俺は指をぎゅっと丸める。そんな未来は断じて許容できない。俺は幸せにならなければいけないんだ。為すべきことを為しても、その後に幸福な未来を歩めなければ意味がない。退学を迎えたら確実に幸せから遠ざかる。何とかして現状を打破しなければ。


「市ヶ谷さん、本当に何もないの? 怖い顔してるよ」


 菅田先輩に指摘され、指で目元を押さえる。表情が怖いと指摘されたのはこれで何度目だろう。入学前にポーカーフェイスの練習をもっとやっておけばよかった。校舎の窓ガラスで調整した笑顔を思い出す。顔の筋肉を刺激して表情を固定する。これでいつもの好青年だ。確信して手を下ろす。


「すみません。ちょっと寝不足で」

「さては夜更かししたな? 悪い子だ」

「はい」

「はいじゃないっつーの。手足を動かさなくても体力使うんだから、ちゃんと寝なきゃ駄目だよ?」


 叱られてしまった。子供に返った気分だ。誰かに叱られたのはいつぶりだろうか。  

 この前奈霧に叱られたばかりだった。どうも頭が寝ぼけている。自分一人で考えてもろくなアイデアが浮かばなそうだ。


「先輩。一つ質問いいですか?」

「何かね?」

「勉強のやる気が出なくなったらどうします?」

「寝る」


 その答えは役に立たない。あれから何十回寝たと思っている。効果がないのは自分の体で実証済みだ。


「他には?」

「食らう。主にスイーツ」

「その他」

「その他ねぇ」


 菅田先輩が口元に人差し指を当て、天井を見上げて唸る。


「……昼寝?」

「寝るのと何が違うんですか……」


 思わずげんなりする。年上なだけの学生に救いを求めたのが間違いだった。教師に問うのも違う気がするし、どうしたものか。

 大人びた美貌がむくれる。


「あ、何その顔。生意気だぞー」

「えぇ、だって」

「だってじゃない。双葉ーっ、ちょっと来てー」


 菅田先輩が手招きする。離れた所で小さなポニーテールが跳ねた。細い両腕を左右に伸ばし、小さな体が飛行機のごとく飛んでくる。


「はいはーい双葉ちゃん参上! どしたのベイビー」

「市ヶ谷さんにえっちなことされた」

「なんとっ!」


 波杉先輩がカッと瞠目した。


「いや違うでしょう⁉ 出鱈目言わないでください!」


 反射的に大声で弁解した。菅田先輩は人気がある。後輩を弄ぶ魔女だけど、一応は部員に好かれている。そんな人に下賤な行為をしようものなら、俺はたちまち部室内での居場所を失ってしまう。復讐を遂げるには、放送部に属している方が好都合だ。追い出されるのは勘弁願いたい。

 菅田先輩がからっと笑う。


「冗談冗談。実は双葉に聞きたいことがあってさー」

「ほぅ、わたしに聞きたいこととな。何かね?」


 波杉先輩が親指と人差し指で鉄砲を作り、指の付け根を顎に当てる。彼女が思い描くインテリキャラはそういうポーズを取るようだ。目を細めてニヤリとする様は、子供が背伸びをしているようで微笑ましい。

 それはそれとして、だ。


「さっきから気になっていたんですけど、語尾に『かね』を付けるの流行ってるんですか?」

「いやー何かねって何か偉そうじゃん? 何か偉くなった気分になれて、何かハッピー!」

「何を四回言いましたけど、何か意味あるんですか?」

「意味なし! 何か問題があるかね?」


 波杉先輩がむふんと得意げに胸を張る。要するにカネを使いたいらしい。将来の旦那さんは苦労しそうだ。


「双葉先輩。勉強が身に入らない時は何してます?」

「寝る!」

「その他」

「気分転換かなぁ。俗に言う愉悦」

「具体的には」

「叫んだり、走ったり、踊ったりですな。この前開発したフタバッタン踊りがいい感じなのですよ。やってみるかね?」

「いいですね。やりません絶対に」


 口からため息が飛び出しかけた。先輩方の感性はぶっ飛んでいる。常識人の俺が理解するにはハードルが高い。前途多難だ。復讐の機が熟するまで、俺は放送部の部員でいられるだろうか。

 波杉先輩がくわっと目を見開く。


「あ! 市ヶ谷さんが先輩の前でため息突こうとした! 無礼にも!」

「分かります?」

「分かるじゃないよおのれ。こうしてくれるわ!」


 小さな手に両肩をつかまれ、ぐわんぐわんと揺さぶられる。これも一種の刺激。起死回生を求めて脱力し、細い腕の揺さぶりに身を委ねる。これでも活力が戻らなかったらどうしよう。この沈んだ気持ちも奈霧のせいにすればいいんだろうか。分からない。分からない。

 俺は一体、何がしたいんだろう。

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