第5話 早退とお手紙
ファミレスから脱出して自宅に戻るなり、睡魔に誘われてベッドに潜った。
起きてシャワーを浴び、勉強机に教科書を広げてシャーペンを走らせた。どこかに出かけることもなく休日をやり過ごした。
旧友と顔を合わせた次の週。ショートホームルームで一つの話題が上がった。
一人の女子生徒が、ストーカー被害に遭っているとのことだ。昇降口のロッカーに、気色の悪い内容を書き綴った手紙が入っていた。その内容から、犯人は校外の人間と推測されている。
午前中の授業が中盤に差し掛かっても、教室はストーカーの話題で持ち切りだった。
被害者の名前が伏せられたこともあって、クラスメイトはストーカー被害を受けた女子生徒の話題で盛り上がっている。
芳樹も俗物だった。休み時間に俺の前で足を止める。
「市ヶ谷は例の女子生徒誰だと思う?」
「どうせ奈霧だろう」
「一組の?」
「そう、奈霧有紀羽だよ」
敢えて大きめな声を出した。おどけた風を装って、言い訳の余地も残すのも忘れない。
新入生総代を務めたこともあって、奈霧有紀羽の名前は校舎中に広まっている。
中身はともかく外見が良い。すでに一年から三年まで、幅広い男子から好意を告げられたと聞く。周りが奈霧の名前を聞いて、なるほどと合点するだけの説得力がある。
本当にストーカー被害を受けたかどうかは関係ない。噂が校舎中に広まれば、奈霧は学校生活を送りにくくなる寸法だ。
俺がやっていることは明確な嫌がらせ。
自覚はしているけど、やめるつもりは毛頭ない。何を隠そう、中年男性の汗と臭気が漂いそうな手紙を書いたのはこの俺だ。
デジタルが主流の時代に、ボールペンで気持ち悪い文章を書いた。
水やコーヒーの滴を垂らして、滲み込んだ汗の跡を偽造した。足が付かないように、利き手じゃない左手で綴ることも忘れない。奈霧の外履きを焼却炉に放り投げて、あたかも靴を盗んだように思わせる変態的文章も並べた。
死んだ方がいい。自分でもそう思う。
でも奈霧の学校生活を破壊するためだ。背に腹は代えられない。
俺は小学生時代のいじめが原因で、高校入学までの時間と家族を失った。復讐に囚われている今も、青春というかけがえのない時間を浪費している。
俺の時間は小学生で止まっている。主犯格の奈霧にやり返さないと俺の時間は動き出さない。
過去のトラウマに
休み時間が終わる四分前。俺はカバンの取っ手を握って席を立つ。
「カバン持ってどこに行くんだ?」
「早退する。具合が悪いんだ。先生にそう伝えておいてくれ」
「それはいいけど、一人で帰れるのか?」
「ああ」
「そうか。分かった、先生には俺から伝えておくよ」
「ありがとう」
俺は罪悪感を振り切って教室を出た。
もうすぐ教師がやってくるのを察して、廊下を賑わせていた同級生が教室に駆け込む。
勝手に進む先が拓ける光景は、自分が偉くなったように感じられて気分がいい。将来は起業して社長になるのも悪くない。そんなパワハラ上司、部下の人は御免だろうけど。
廊下に授業開始のチャイムが鳴り響いた。
そろそろ俺の早退がクラス全体に知れ渡った頃合いか。教師が廊下を踏み鳴らして追い掛けてくるとは思えないけど、巡回の先生が校舎を練り歩いている。速やかに帰宅するのが望ましい。
俺は靴音を抑えて階段を下りる。
数分前の喧騒が嘘のようだ。静まり返った廊下に俺一人だけが動いている。
まるで異世界に迷い込んだような心持ち。冒険しているみたいで心が
浮かれている。俺は肺を膨らませ、ふーっと息を吐いて気を引き締める。
これから行うことは、誰にも見られてはいけない。偽りでもストーカーはストーカーだ。露見すれば破滅する。それを忘れるべきじゃない。
ストーカー騒ぎは十分な効果を発揮している。あれだけ噂になれば日常的な会話にも上がる。奈霧が忘れたくても周囲が思い出させる。
付きまとうだけで終わるストーカーは滅多にいない。大体はエスカレートして対象と接触する。何かを致命的に勘違いしたまま好意を告げて、拒絶された腹いせに刺殺などの暴挙に出る。
その存在自体が死に繋がる要因だ。自身がターゲットにされていると知って、恐怖を覚えない者はいないだろう。
気丈だった奈霧も、いつどこから躍り出るか分からない相手は怖いはず。怯えて青春どころじゃなくなる算段だ。俺が奪われた時間の分だけ、今度は俺が奪ってやる。
廊下の窓に自分の顔が反射する。
凄い顔だ。今から人でも殺そうというんだろうか、こいつは。偽の金髪も相まって、ヤンキー漫画で拳を振るうワルに見える。
これが今の俺。『伏倉釉』は母の死で心の奥底に引きこもった。窓ガラスに映る形相は、復讐者『市ヶ谷釉』としての顔だ。
両手の人差し指で口端を持ち上げ、顔に笑みを貼り付ける。
これで大丈夫。どこからどう見ても好青年だ。巡回する教師とばったりこんにちはしても問題はない。
俺は両腕を下げて、自分のナルシストぶりに吹き出した。変な笑い声が廊下を伝播する。
自称好青年がストーカー行為を働こうとしている。入学式に声を掛けてくれた女子もびっくりだろう。
ごめんとは言わない。可哀想だけど、見る目がなかった自分達を恨んでくれ。
昇降口に靴音を響かせる。
がらんとした薄暗い空間に人の気配はない。俺は自分のロッカーを開けて外用の靴に履き替える。
現在は授業真っ最中の時間帯。生徒に犯行を目撃される心配はない。
巡回の教師も、廊下を見た限りは当分来ない。十秒くらいなら絶対の安全が約束されている。
俺は目的のロッカーへと踏み出す。二回に分けて手紙を入れた身だ。奈霧のロッカーの位置は把握している。
ああ、二回目はお笑いだった。俺がロッカーを開けたら別の手紙が入っていた。どうせストーカー行為はやめてくださいとでも記されていたんだろう。封筒はそのままにして、力作の恋文を重ねてやった。
さて、今回は何が入っているのだろう。俺はカバンに手を突っ込んで手袋を取り出す。ブツに指紋を付けないために手を差し込み、作戦の要たる封筒を握る。
反射的に脚を止める。
「……え」
予想しなかった事態を前に目を見張る。
視線の先で栗色の瞳と目が合った。
「なん、で」
どうして奈霧がここにいる?
理由を探して、繊細な指に握られたカバンが目に入った。
こんな時間帯に、カバンを持って昇降口にいる理由は限られる。遅刻か、はたまた早退か。奈霧は優等生で知られる。おそらくは後者だ。
何も、こんな時間に帰らなくたっていいだろうに!
「あなたは……」
瞬きを経て、栗色の瞳が俺の手元に落ちる。
見られた。
見られて、しまった。
どうする、どうすればいい。暴力か? 黙っていなければ危害を加えると告げて、口封じを試みるか?
だけど、それは……。
「っ⁉」
息を呑んで元来た廊下を振り返る。
靴音が近付いてくる。
安全が保証された十秒はとうに過ぎた。巡回する先生だろうか? もしくは早退する生徒? いずれにしても二対一。口封じを実行に移す機会は失われた。
失敗だ。恋文作戦は続けられない。俺は脱力して下くちびるを噛む。
まだだ、発覚のリスクは考慮していた。左手で記しただけじゃない。専門用語や場所の名称を用いて、教師や掃除業者を想起させる内容を綴った。文面で犯人を俺と断定するのは難しい。
問題は手に握る恋文。どうにかして解読不可にすれば事は済む。お手洗いに駆け込むか、最悪口の中で
終われない。この程度のアクシデントで復讐の火を絶やしてなるものか。
今回のケースなら厳重注意、最悪停学で済む。退学にさえならなければ復讐は続けられる。この件を反省して、次はより
「来て」
多少の処分を覚悟した時だった。柔らかな指に手首を握られて、ふわりと香る甘い匂いに鼻腔をくすぐられる。指から伝わる奈霧の体温に、思考能力の大半を持っていかれた。
薄暗い視界が明るみを増す。昇降口から外に出たようだ。俺は壁を背中にして、廊下から聞こえる靴音をやり過ごす。
助かった。
安堵しても俺の足は動かない。
眼前に綺麗な顔がある。この状況が全く理解できない。手紙を見たはずなのに、教師から俺を庇った理由は何だ?
「駄目だよ」
左胸の奧がドクンと跳ねた。
俺は固唾を呑み、練習した微笑を顔に貼り付ける。
「何が、駄目なんだ?」
「恋文だよ。気持ちを抑えられないのは分かるけど、今はあの件で賑わっているんだから」
「あの件……って?」
口が強張る。声は震えていない、と思う。
とにかく気を引き締めろ、ボロを出すな。
この場は道化を演じてもいい。何をしてでも、奈霧の興味を手紙から逸らせ。
奈霧が大きな目を丸くする。
「知らないの? ストーカーの件だよ。こんな状況で手紙なんて送ったら、周りから誤解されて当たり前だと思わなかったの?」
言葉が耳から耳に抜ける感覚があった。
きょとんとしたのもつかの間、我に返って思考を巡らせる。
誤解される? 俺が? もしや奈霧は、盛大に勘違いをしているのか?
そういえば奈霧は恋文と言った。あの気色の悪い手紙を見て恋文とは称さないはず。奈霧の中で、俺とストーカーが結び付いていない証拠じゃないか。
俺は冗談めかして両肩を上げた。
ありがとう奈霧、バカでいてくれて。
「そうなんだけどさ、普通に手紙を送るだけじゃ望み薄なんだ。いっそのこと吊り橋効果でも利用してやろうと思って」
「それって不安や恐怖を感じる状況下で、恋愛感情を抱きやすくなる心理効果のことだよね?」
「そ。アレ狙おうと思って」
ストーカー騒ぎが話題に上げられているんだ。ロッカーに手紙が入っていたら、自分にもストーカーが! と勘違いをしてもおかしくない。それこそ振り子のごとく揺れる吊り橋くらい恐いだろう。
理屈は通る。屁理屈も立派な理屈だ。
「少し意味合いが違うと思うんだけど」
「いいや違わない。俺の言っていることが正しい。ところで君は早退するのか?」
「ええ。ちょっと気分が優れなくて」
奈霧が疲れたように目を伏せる。
そりゃ疲れるだろう。ストーカー構文垂れ流しの手紙を送り付けてやったし、クラスメイトからの言及もある。精神が磨り減って当然だ。
俺は内心でほくそ笑む。
想像以上に効果があったようで何よりだ。これで満足せずに
「あなたも早退?」
「ああ。それじゃ」
別れを告げて校門へと踏み出す。
十分に話は逸らした。後は速やかに距離を取るだけだ。
「待って」
呼び掛けられて足を止める。
まさか気付かれたか? 俺がロッカーに手紙を入れたストーカーだと。
俺は微笑みを維持してそっと振り返る。
「何だ?」
まさか、手紙の件をネタに
奈霧が繊細な指をもじもじさせた。
「あの、よかったらでいいんだけど、一緒に帰らない?」
「……は?」
今度は俺が目を丸くする番だった。視界内で桜色のくちびるが引き結ばれる。
冗談で言っているようには見えない。何か企みでもあるのだろうか。
俺は考えて、意地悪げに口端を吊り上げる。
「何だ、一人で帰るのが寂しいのか?」
「あははっ、そうかも。ちょっと話し相手が欲しい気分なんだ」
奈霧が自嘲気味に身を震わせた。
予想しなかった返事を前に、俺は目をぱちくりさせる。
強がると思っていた。少なくとも小学生時代の奈霧は、上級生相手に喧嘩するほど気が強かった。犬に吠えられると動けなくなる弱味はあったけど、この場には俺と奈霧しかいない。ストーカーの件があるとはいえ、少し意外だ。
俺は奈霧に背を向ける。
犯人とばれていないなら用済みだ。
「友人でも誘え。じゃあな」
「あ……」
消え入りそうな声。確かに聞こえたそれを無視する。
こうして奈霧と一緒にいること自体がリスクだ。早々に校舎から立ち去るに限る。
しかしいい物を見た。あの心細そうな表情はお笑いだ。このまま放課後まで昇降口に突っ立っていればいい。
俺は手紙をカバンに戻して手袋を外す。先程奈霧が見せた表情を想起して口端を吊り上げる。
いっそ嘲笑ってやろうかと思った
吠え猛る犬に怯えたポニーテールの奈霧。当時目の当たりにした時と同じく、胸がきゅっと締め付けられる。
靴裏が地面に貼り付く。
何を血迷ったか身が翻った。足が元来た道を辿る。
昇降口の前で俯いていた奈霧が微笑を繕う。
「忘れ物?」
「違う」
「それならどうして……あ、恋文をロッカーに入れるつもりだったんだっけ。ごめんね、邪魔しちゃって」
「もうそんな気分じゃない。女子に見られてまで実行する胆力はないよ」
「私は気にしないのに」
「俺が気にするんだ」
女子に見られたラブレターをロッカーに入れる男子がいるものか。
女子の情報共有速度は凄まじい。俺が知る奈霧は口が堅い方だったけど、見ない間に中身が変質した可能性もある。迂闊なことはできない。
「そっか。じゃあ仕方ないね」
「ああ。仕方ない」
俺は二メートルほど空けて立ち止まり、苦笑する奈霧に視線で促す。
本当に、今日の俺はどうかしている。
「……どうしてそんなところで立ち止まるの?」
端正な顔立ちがきょとんとする。
大人びた美貌にあどけなさが垣間見えて、頭にぎゅわっと何かが上る。
「鈍いな! 話し相手になってやろうって言ってるんだよ!」
俺は気恥ずかしさに負けて声を張り上げた。
気持ち悪い手紙で異性を怯えさせて、弱った心に付け込む。
何というマッチポンプ。これじゃまるで、俺が奈霧を恋愛的戦略で落とそうとしているみたいじゃないか。
自覚して、お風呂でのぼせたように顔が火照る。熱い、熱射病で倒れそうだ。血液が沸騰してないといいけど。
栗色の瞳がまぶたで見え隠れする。
小学生時代の面影を残す顔立ちに、花のような笑みが咲いた。
「ありがとう」
俺は応じる代わりに踵を返す。背後で鳴り響く靴音を耳にして校門をくぐる。
右に曲がった拍子に、視界の隅に胸部の膨らみが映った。肩を並べるつもりなのだろう。柔らかな匂いが香り、左胸の奧から伝わる鼓動が早まる。体からカフェインでも発しているのか、この女は。
前方に主婦らしき二人の女性が見えた。擦れ違うなり、後方で初々しいカップルを羨む声が上がる。
俺達のことだと悟って、耳たぶが溶けそうなほどの熱を帯びた。
違う! これは戦略だろうが! 恋文による揺さぶり作戦の代替手段!
復讐対象とコンタクトを取る機会を得た。またとないチャンスを活かすためにアドリブを利かせただけだ! 断じて情にほだされたわけじゃない!
屈辱的な会話を忘れるべく歩みに没頭する。
何分足を動かしただろう。いまだに会話が発生しない。
気まずい。話し相手が欲しいと言ったのは奈霧なのに、ずっと無言なのはどういう了見だ? もしや俺をボディガードと認識しているんじゃないだろうか。
あり得る。奈霧は怯えていたし、ストーカーに襲われた際を考慮して男子に頼っても不思議じゃない。下手をすると、俺以外の男子にも声掛けした可能性すらある。
体の内側から沸々としたものが湧き上がる。
こらえ切れなくなり、それを言葉にして吐き出す。
「君はモテるんだな」
「突然何?」
「噂には聞いてたからさ。人気あるみたいじゃないか。熱烈なファンから恋文を送られた女子って、君なんだろう?」
奈霧が不愉快そうに
「ストーカーをそういう風に言うのはやめて。誰とも知れない相手に知られているのは、凄く怖いことなのよ?」
だろうな。手紙には奈霧の名前をフルネームで記してやったし、所属するクラスや名簿番号もきっちりと記した。
奈霧の交友関係も
「ところで、えーっと……何さんだっけ?」
「俺は市ヶ谷だ。市ヶ谷さんと呼べ」
敢えて名前は伏せた。
名字は変えたけど、名前を変更するには特別な理由が必要だ。俺はその条件を満たせず、以前と変わらない『釉』で入学するしかなかった。
そこから伏倉釉に結び付けられると厄介だ。名前を偽ることもできるけど、後で調べればすぐに嘘だとばれる。
そんなことで疑念を抱かれるくらいなら、明かさなくて済む手法を取った方が賢明だ。
「さん付けを強要するんだね」
「君とは初対面に等しい。どうして呼び捨てにされなきゃいけないんだ?」
俺にとっては怨敵だけど、奈霧視点での『市ヶ谷釉』は初対面。口が滑って『伏倉釉』が顔を出すのはまずい。昔の調子で喋るのは厳禁だ。
「それもそっか。じゃあ私のことも奈霧さんって呼んでね」
「分かったよ、奈霧さん」
口にして可笑しさがこみ上げた。
俺は出会った当初から奈霧と呼んでいた。眼前の幼馴染をさん付けした記憶がない。ちょっとした喪失感が胸を刺す。
「それで、誰にラブレターを渡すつもりだったの?」
「内緒だ」
「誰にも言わないよ?」
「俗物め」
吐き捨てるように非難した。
透き通るような白い頬が小さく膨れる。
「ひどいなぁ。もっと他に言い方はないの?」
「俗人め」
「そういう意味じゃないって分かってるよね?」
「ああ」
「さっきも言ったけど、手紙はやめた方がいいよ」
皮肉がスルーされた。
苛立つと負けた気がして、俺は大人びた対応を意識する。
「分かってるって。ストーカーが捕まるまで、恋文作戦は控えろって言いたいんだろう?」
亜麻色の髪が左右に揺れる。
「違うよ。ロッカーを開ける行為に問題があるの。人によっては嫌がる人もいるはずだから」
「ああ、そういうことか」
確かに靴の臭いを気にする生徒もいるだろう。気の弱い女子は泣くかもしれない。
でもそれについては安心だ。俺は奈霧のロッカーしか開けないから。
「そうだな、以後参考にしよう」
形だけ頷くと、奈霧がまぶたを半分下げた。
「私は本気で言ってるんだよ?」
「俺はいついかなる時でも本気だ。参考にする」
「絶対その気ないでしょ」
「ある」
「ないね」
ある、ない、ある、ない。小学生じみたやり取りに既視感を覚えた。
奈霧が車に轢かれるまでは、今みたいにつまらないことで言い争いをしていた。楽しかった頃の記憶が蘇って、意図せず口元が緩む。俺の中の『伏倉釉』が顔を出そうとする。
精神が逆行しかけている。俺は気付いて口元を引き締めた。
この居心地の良さは毒だ。『市ヶ谷釉』を殺しかねない猛毒だ。俺が未来へ進むためにも、躊躇いの種になりそうなことはするべきじゃない。
丁度いい。これだけ打ち解ければそろそろ頃合いだろう。
「一つ聞いていいか?」
「どうぞ」
「どうして俺を庇ったんだ? ストーカーの話を知っているんだろう? 手紙を見て、俺が実行犯だとは考えなかったのか?」
「考えたよ」
呼吸が止まる。ばれないようにそっと指を丸める。
大丈夫だ。看破されていたら、奈霧が一緒に帰ろうなんて誘うはずがない。俺とストーカーは別の人物として認識されている。
俺の推測を裏付けるように言葉が続く。
「でも手紙の内容からして、ストーカーが生徒とは考えられないんだよね。個人的な感傷もあるんだけど」
「感傷?」
俺は眉をひそめかけて合点した。
奈霧には小中学校と、生徒として生活する時間が多くあった。
奈霧視点では、俺はラブレターを女子のロッカーに入れようとした設定になっている。自らの経験と照らし合わせて、恋愛にかまける俺に同情しているのだろう。
顎に力が入る。左胸の奧が痛い。
これは悔しさだ。俺が停滞する間に、いじめの端を発した敵が青春したことへの怒りだ。俺は拳を強く、固く握り締める。
視線を正面に戻して、奈霧を視界の隅に追いやる。気取られないように深呼吸して心を沈めた。
「以前に何かあったのか?」
「何も。でも恋は成就してほしいじゃない」
「それが他者の恋路でもか?」
「うん。これでも、失恋する痛みは知っているつもりだから」
思わず吹き出しかけた。
笑わせてくれる、君がそれを知っているものか。
頬を内側から噛み締めた。万が一にも笑わないように努める。
「恋愛経験が豊富そうだな。何かアドバイスでもしてくれるのか?」
「私にできるのは、恋破れた後のアドバイスだけだよ」
怪訝に思って視線を振る。
奈霧が蒼穹を仰ぐ。栗色の瞳は、空とは違う何かを見ている気がした。
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