第3話 お昼休みの奈霧

「へぇ、放送部にしたんだ」


 放送部に入部した翌日の昼休み。俺は芳樹と食堂に踏み入る。清潔感のある白い空間が、人混み特有のざわざわした賑やかさで満ちている。ブレザーを着込んだ少年少女が椅子に座し、群れて喋ってひしめき合う。歩くのに苦労はしないけど、走ると途端にぶつかりそうだ。


 気を付けよう。自分に言い聞かせる中、お盆を握って歩く生徒と擦れ違う。廊下に出ていくその背中を見ても、視界の隅に映る教員が口を酸っぱくすることはない。食器さえ戻すなら、生徒がどこで昼食を摂ろうが自由だ。


 自由にも順番がある。食堂に踏み入った俺達がやるべきは席の確保。空いているテーブルに歩み寄り、ペットボトルを石碑のごとく立てて縄張りを主張する。食券を購入した脚でカウンターへ赴き、おばさんからお盆を受け取る。周囲に気を配って元来た道を辿り、あらかじめ取っておいた席に腰を下ろす。カレーのスパイシーな香りに鼻腔をくすぐられてスプーンを握る。


「芳樹はどうなんだ? バスケ部に入ったのか?」

「んにゃ。バスケは好きだけど、それじゃ中学の頃と変わんねーし」

「バスケのせいじゃないだろう。女子と話す勇気を出せよ」

「それは取りあえず保留で」


 俺は呆気に取られた。体が大きいわりに気の小さい奴だ。俺がげんなりするのをよそに、芳樹が体の前で腕を組む。


「やっぱきっかけだよなぁ。何かいい部活ないかなぁ」

「入っただけで人気が上がる部活はないぞ」


 芳樹の消極的な姿勢はどうかと思うけど、確かにきっかけは大事だ。俺が初めて女子と触れ合ったのは、上級生との喧嘩がきっかけだった。その経験から何か応用できないだろうか。思い出すのも胸糞悪いけど、唯一の友人の悩みだ。いずれ嫌な思いをさせるだろうし、俺にできることは今のうちにしてやりたい。


「恋愛部とかないかな?」

「ないだろうさすがに」

「そうか? 彼女ほしーって奴はたくさんいると思うんだけど。そういう奴らが集まって組織を作るって有りじゃね?」

「いいかもしれないけど、モテると思うか? その手の部活に所属してる連中が」

「……思わない」


 絞り出すような声だった。芳樹の表情から笑みが消える。

 恋愛術はモテテクなど色んな言葉で脚色されるけど、結局のところは理屈を詰める作業だ。身なりや顔を褒めるなど、異性に受けの良い言動を繰り返して心の壁を取り払う。その手法は一つや二つじゃないけど、どんなに繕っても理屈は理屈。接し方はどうしても機械的になる。異性慣れした相手には一目で看破されるだろう。

 第一、芳樹にそんな器用な真似ができるとは思えない。どもって笑われるのがオチだ。


「部活は選択肢から外さないか? もっと効率的な手段があるだろう」

「例えば?」

「合コンとか」

「合コンかぁ。俺にはちょっとハードルが高いや。こうなったら誰かを言葉巧みに誘導して、俺のために合コンをセッティングしてもらうしかない!」


 芳樹が腕を掲げ、ぐっと拳を握り締める。やる気漲る友人を前に、俺はまぶたを半分下げる。


「やめろ小賢しい。黙ってバスケ部に入れよ。エースやっておけば人気出るって」

「それで中学は駄目だったんだよなぁ!」


 芳樹が額に手を当てて天井を仰ぐ。バスケットボールは運動部の華だ。本当にエースを張っていたなら女子に注目されないはずがない。大方女子からアプローチを掛けられても、自分が好かれているという発想に至れなかったのだろう。加藤芳樹、不憫な奴め。

 芳樹が腕を下ろして素面に戻る。


「ところで何で放送部?」

「切り替えが早いな。単に興味があったからじゃ駄目なのか?」

「駄目じゃないけど……」


 芳樹が何かに思い至ってハッとする。


「もしかしていい子いた⁉」

「君はいつもその方向に行くんだな」


 今は四月、季節は春。芳樹の脳内に咲き誇るお花畑は、当分枯れる様子がない。芳樹がくちびるで3の形を描く。


「だってよぅ、帰り道にカップルが手を繋いで歩いてたんだぜ? 羨ましいじゃんかよぉ」

「入学する前から知り合いだった可能性は?」

「聞いてないから分かんね」

「裏を取ってないなら決め付けるなよ」

「裏を取るって言ってもさ、ねえねえいつから彼氏彼女の関係? なんて初対面相手に聞けないって」

「聞けよ。俺を二股野郎にした君ならできる」

「んで、放送部に可愛い子いた?」

「いたら入部するのか?」


 それはそれで助かる。アグレッシブでファンキーな波杉先輩はともかく、菅田先輩は男子の膝を指でなぞる系の悪女だ。純情な芳樹ならいいスケープゴートになってくれる。いや、スケーブゴートは人聞きが悪い。俺は友人の力になりたいんだ。上級生の美人を紹介するだけなんだ。


「あーでも俺、声に自信ないしなぁ」

「他者に合コンのセッティングをさせようとした行動力はどこ行ったんだよ……」


 俺は脱力する。芳樹の声が大きすぎて、周囲の学生が俺達を見てクスクス笑っている。ああ、耳たぶが熱い。俺まで恋愛脳に見られたらどうしてくれる。


「あ、奈霧さーん! こっちこっちー!」


 後方で高い声が張り上げられた。聞き覚えのある名字につられて振り向く。むさくるしい食堂に花が咲いたように見えた。ミルクティー色のロングヘアが揺れて宙を飾る。甘い香りが漂いそうな光景に目を奪われる。


「いいよなぁ奈霧さん」


 しみじみとしたつぶやきで正気に戻ると、芳樹が表情を弛緩させていた。


「……何がいいんだ?」

「綺麗じゃん! そして可愛い!」

「そうかい」


 俺は舌打ちをこらえてコップを握る。透明な縁を口に当てて冷水を仰ぎ、再度奈霧の横顔に横目を振る。視線の先で、整った顔立ちが明るみを帯びる。席取りをしていた友人に対して、見覚えのある向日葵のような笑顔が向けられる。


 奈霧が綺麗? 可愛い?

 知っていたさ、そんなこと。確かに美人の類だ。芳樹が見てくれに騙されるのは仕方ない。だけど綺麗な薔薇には棘がある。迂闊に触れれば怪我をするんだ。

 俺は騙されない。もう、二度と。


「そうかいって、二股野郎は余裕だねぇ」

 

 声に含みを感じて向き直ると、芳樹が不満げに目を細めていた。


「そのネタまだ引っ張るのか」

「うるせえ。お前にゃ分かんねーよ、このモテ男」

「モテ男って、そんな呼び方されるほど告白された経験はないぞ」

「日本人には空気読むって特殊能力があんだろ」

「そうなのか。俺、自分のルーツが気になってきたよ」


 両親は日本人だ。敬愛する母に、俺達を捨てたろくでなしの父。わざわざ調べるまでもない。父がどこで何をしていようがどうでもいいけど、俺の邪魔をするなら容赦はしない。そう母の墓前に誓った。


「正直なところどうなんだよ? 市ヶ谷は恋愛に興味ないのか?」

「ないよ」

「何で?」

「興味ないから」


 正確には興味が持てない。心を覆う憎しみの霧を晴らさない限り、俺は新しい何かに関心を持てないんだ。恋愛、趣味。生きる活力になり得るものは、全て憎悪の火にくべる薪にされる。自分でも止められないんだから仕方ない。

 芳樹が頭の後ろで指を交差させる。


「あーあ、つまんね! どうせ奈霧さんも、お前みたいなイケメンが好きなんだろーよ」


 俺の眉がピクリと跳ねる。そろそろ本気で鬱陶しくなってきた。

 俺はお盆の両端を握って腰を上げる。


「トイレ?」

「お盆を持ってお手洗いに行く奴があるか。俺は中庭で食べる。じゃあな」

「え?」


 芳樹が顔を上げる。ふてくされた表情が困惑に変わった。


「お、おーい……怒った?」

「怒ってないよ」


 吐き捨てるように告げて踏み出し、食堂を出て中庭への道のりを歩む。


「おーい待てよー」


 でかい男が追ってきた。手には昼食一式を完備。どうやら俺についてくるつもりらしい。


「ついてくるな」

「やっぱ怒ってんじゃん」

「怒ってないよ」

「嘘こけー」


 鬱陶しい。芳樹を食堂にUターンさせるにはどうすればいいだろう。

……そうだ。


「席を離れていいのか? 食堂にいれば、奈霧をおかずにしてご飯を食べられるぞ?」


 聞いたことがある。世の中には、食べ物以外の何かで食欲をそそられる人種がいると。先程奈霧を見た時の反応からして、芳樹にはそれに近い感性が備わっている。俺は友人をアシストしたいだけ。断じて怒ってない。


「なあ市ヶ谷」

「何だ?」

「奈霧さんをおかずにって、さては変態だなお前っ!」

「恋愛脳の君が言うな!」


 指摘の声が荒くなった。廊下に点在する人影が俺達に視線を殺到させる。顔が火照る。耳たぶがとろけ落ちそうだ。

 ああくそ、冷静に考えれば奈霧をおかずにって何だ? 柄にもなく変な言葉を吐いてしまった。全部芳樹のせいだ、俺は悪くない。


 俺は気を取り直してズンズンと歩みを進める。

 パタパタと靴音がついてくる。


「もうついてくるなお前ッ!」

「やっぱ怒ってんじゃん!」

「怒ってない!」

「じゃ一緒に昼飯食っていい?」

「好きにしろ!」


 殺到する視線から逃げるべく足を速める。まとわりつく周囲の視線を振り切り、マイナスイオンであふれる空間に体を晒す。

 踏み込んだのは中庭の歩行スペース。青汁もかくやといった芳香は、自然の緑が織りなす生命の息吹だ。ごった返す食堂よりも空気が美味い。


「どこで食う?」

「ベンチ」


 不愛想に告げ、空いたベンチを見つけて腰を下ろす。膝の上にお盆を乗せ、胃に食物を詰める作業を再開する。


「あれ、伏倉じゃん」


 コップに伸ばしかけた腕を止める。心臓が凍り付いたように感じられた。

 告げられたのは俺の旧姓。不登校になってから母が鬼籍に入るまで、俺はろくに外を出歩かなかった。伏倉姓だった頃の俺を知る人物は限られる。


 呼びかけた人物は伏倉釉を知っている。俺は固唾を呑み、指をぎゅっと丸める。復讐は始まってすらいない。奈霧に俺が伏倉釉だと知られたら、ここに至るまでの計画が台無しになる。母に合わせる顔がない。


 俺は意識して肺を膨らませ、脳に酸素を送る。落ち着け、大丈夫だ。俺は髪を金色に染めている。背が伸びたし、顔付きも多少大人びた。一見しただけで見抜くのは難しいはずだ。

 他人の振りをしよう。俺は顔に微笑を貼り付けて振り向く。何者かの呼びかけを否定しようとして、目を見張る。


「君、達は……」

「よっ」


 草木を背景に二つの人影があった。髪を横分けにした男子と、天然パーマ気味の女子。佐郷信之に壬生南。小学生時代の面影を残した同級生が、中庭の歩行スペースに立っていた。

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