第2話 復讐のピース

 ほおに衝撃が走った。ぐらつく視界に足が追いつかず、砂の地面にしりもちをつく。おしりの痛みをこらえて顔を上げると、意地悪く笑う上級生と目が合った。体が大きい上に二人いる。けんかしても勝ち目は薄い。


 どうして彼らに絡まれたのか分からない。近付いてきたと思ったら、突然あれこれ言われてこのザマだ。なぐられた理由は気になるけど、今さらそれを聞く発想はない。なぐられた、だからなぐる。こいつら相手にはそれで十分だ。

 

 今度はぼくが右腕を振りかぶる。こぶしは当たったけど、次の瞬間には横から衝撃が来た。ほおを張られて再び地面に倒れ込む。


「一人で勝てるわけないじゃん」


 通った響きの声があった。場にそぐわない甘い声色に驚いて、ぼくは上級生の存在をわすれて振り向く。同い年の少女が立っていた。明るい栗色の髪を頭の後ろで結い、小動物の尻尾を作っている。半袖に短パン。教室で見たことはあるけど、言葉を交わしたことはない女子だ。


 お風呂でのぼせたように顔が火照る。クラスメイトの女子に、自分がなぶられるところを見られた。はずかしさで耳たぶから火が出そうだった。


「手を貸そうか?」


 助けの手まで差し伸べられた。くつじょくだ。上級生になぐられたからって、女子に手伝ってもらうなんてださすぎる。ぼくをなぐったばかどもが、それをネタにあざけり笑うのは目に見えている。

 笑い者にされるのはごめんだ。ぼくは手のひらで地面を押し、ほおの痛みをこらえて腰を上げる。


「いらないよ、お前の助けなんて」

「そう。じゃあわたしに手を貸してよ」

「え?」


 上級生の存在を忘れて振り返る。栗色のひとみはぼくを見ていない。形のいいまゆを寄せて、ぼくの後方を見据えている。


「昨日そいつらにいやがらせされたの。なぐりたいから手を貸して」


 ぼくは目を見開く。身なりのきれいな女子から、そんな乱暴な言葉が飛び出るとは思わなかった。呆然とするぼくの背後で、鼻から空気を抜いた音が鳴る。


「なぐる? お前がオレたちを? やってみろよ!」


 できるわけない。上級生がそう言いたげに小さな勇気をあざ笑う。

 ぼくの口角が勝手に上がる。ハッと小ばかにした空気がもれた。体が大きいだけの上級生よりも、今日初めて言葉を交わしたクラスメイトの方が大人びて見える。そのギャップが可笑しかった。


「あ? 何笑ってんだよ」


 上級生が眉間にしわを寄せる。不機嫌そうなあいつらは無視してクラスメイトの女子を見る。


「結構やんちゃなんだな。いいぜ、手を貸してやるよ」

「ありがと」


 ぼくも上級生の目を見据える。少女が肩を並べる。

 戦友ができた。何とも言えない高揚感に口の端っこをつり上げ、再度上級生との距離を詰める。

 この日から、単なるクラスメイトは奈霧有紀羽という友達になった。


 ◇


 入学式から二日経ち、上級生による部活勧誘が解禁された。時刻は放課後。勧誘を担った部員があっちこっちで声を張り上げる。体の大きな男子や袖をまくった女子が、新入生を見つけては歩み寄る。発せられるのは青春のエネルギー。学生生活を謳歌せんとする少年少女が、こぞって熱気ある空間に身を投じる。卸売場の競りを数段華やかにしたような光景だ。


 俺は窓越しに口を引き結ぶ。校舎の外で行われるお祭り騒ぎを見ていると、お前はこの場にいるべきではないと告げられている気がする。俺達を見るな、どこかに行け。誰も口にしていないし、声なんて聞こえる距離じゃないのに、誰かが俺を非難している。


 知ったことか。俺は頑張ってきた。目的のために多くの時間と労力を捧げた。周りも努力したのは承知の上でここに立っている。今さらどうして他者に気を使わなければならないんだ。


 開き直って足を前に出す。やりきれない気持ちになって、俺は小さくため息を突く。こんなことを思考する現状こそ、俺が後ろ髪を引かれている証明だ。


 かの文豪、芥川龍之介は言った。『我々を恋愛から救うものは、理性よりも多忙である』と。恋愛は大量のエネルギーを消費する。失恋時には多大なストレスがかかる。情緒不安定な状況に振り回されるのは、物事を思考する余裕が残っているからだ。苦しみから逃れるには、多忙で思考能力を奪うべきだと説いている。


 俺も同意見だ。動いている間は余計なことを考えなくて済む。ゴールは一つ。やるべきことは決まっている。ならば立ち止まる理由はどこにもない。俺は足を止め、手の甲で放送室のドアを三回叩く。


「どうぞー」


 ドアの向こう側から間延びした声が上がった。俺はドアノブに指を掛けて手前に引く。


「こんにちは」


 落ち着いた微笑に迎えられた。上級生だろうか、学生にしては大人びた雰囲気の少女がチェアに座っている。艶で輪を描く黒髪に、対照的な白い肌。この度を超えたセクシーさは、入学式で見かけた奈霧には見られなかった。仄かに残る年頃の未熟さも、期間限定といった感じで目を引くものがある。


 俺が挨拶を返す前に、部屋の奥で毛髪の房が跳ねる。無防備なふわっとした揺れが子犬の尻尾を想起させる。


「いらっしゃいなっ! 入部希望者かね?」


 線香花火のごとく笑顔が弾けた。小さな体が茶髪を振り乱して床を駆ける。二つ合わさった細長いテーブルを迂回し、機材や棚と擦れ違って跳躍。ダンスじみた派手さをはらんで俺の眼前に着地する。宙を飾る火の粉のごとき騒々しさだ。小さな顔はあどけなさ満載。邪気のない笑顔がさらに幼い印象を与える。

 ダイナミックな肉迫には気圧されたけど、ここで臆しては話にならない。俺は笑顔に努めて頷く。


「はい。入部希望で来ました」


 幼い顔がぱぁーっと明るみを増す。


「それは素晴らしいっ! ささ、どうぞどうぞ座ってたもれ!」


 小柄の女子が身を翻してテーブルに駆け寄る。近くの椅子を引き、手で背もたれをぺしぺしと叩く。俺が踵を返したらどんな反応をするんだろう。慌てて背中にしがみついてくるだろうか。もれ出る泉のごとく興味が湧く。


「では失礼して」


 俺は一直線に椅子へ向かう。相手は先輩。しかも初対面だ。新入生に玩具にされて良い気分はしないだろう。俺は悪戯心を抑え、勧められた椅子に腰を落ろす。室内を見渡すと小物が散在している。誰の私物か、電気ケトルや茶筒に混じって兎のぬいぐるみも見られる。

 俺は先輩方に向き直る。


「他の部員は新入生の勧誘に行ったんですか?」

「そうだよ。今頃は新入部員獲得のために走り回ってるんじゃないかな。知らんけど」

「知らんのですか」

「だって監視ドローン飛ばしてないし、サボったってばれないよ。私だったら校舎の隅でジュース飲んでたかも」


 大人びた方の先輩が煎餅をつまむ。意外だ、紅茶とケーキしか口にしない印象があったのに。妖艶さの中にラフさを感じて、不思議と胸の内が温かくなる。

 しかし校舎の隅でジュースか。目の前のセクシー系お姉さんが、地面にあぐらをかいてジュースを飲む姿を想像する。色んな男子の夢を壊しそうな光景だ。けしからん。


「先輩は意外と子供っぽいんですね」

「よく言われる。私は二年の菅田真樹」


 何の脈絡もなく自己紹介が始まった。小動物チックな少女が手を上げる。


「わたし波杉双葉! 君は君は? 何者だね!」 


 波杉先輩が前のめりになり、ムンッと鼻息を荒くする。ここまで熱心に聞かれると、俺の存在が肯定されているみたいでほわほわする。この笑みを見られなくなる日が疎ましい。


「俺は市ヶ谷釉です」

「市ヶ谷君ね! 待ってて、お茶淹れたげるこのわたし!」

「私リンゴジュース」

「そんなものはないっ!」


 波杉先輩が後頭部の房を揺らし、電気ケトルの前で止まる。茶筒を手に取り、スプーンと測りを使って重さを数値化する。線香花火のような印象とは裏腹に、お茶は意外と本格派のようだ。番茶? 煎茶? それとも抹茶? いずれにしても母方の祖父の家にお邪魔して以来だ。


「市ヶ谷君。放送部が何をする部活か知ってる?」


 呼びかけられ、俺は視線をセクシー系お姉さんに当てる。


「お昼休みにあれこれ喋る部活ですよね?」


 だから放送部を志願した。それができないならここにいる意味はない。


「合ってるけど、それだけじゃないよ。各行事でのアナウンス、音響調整、短編映画を作って大会に出たりもする」

「やることがたくさんあるんですね。知りませんでした」


 菅田先輩がおどけて肩を上下させる。


「そうだよー。地味な発声練習を繰り返すし、体力を付けるためにグラウンドを走ったりもする。よくアナウンサーみたいな体験をしたいって理由で入る子がいるんだけど、そういう子は大抵練習で音を上げて消えるね」

「戦場に出た兵隊の気分を味わえるわけですか」

 

 菅田先輩が目をしばたかせる。


「んーと、どゆこと?」

「新兵は呼吸も体力を使う行為だと知って驚くみたいですよ?」

「へぇ。まぁそれに近い体験はできるかもね。私も入りたての頃は辛かったなぁ。今は慣れちゃったけど」

 

 菅田先輩が頬杖を突いて感慨に浸る。ランニングに発声練習もするとなれば、部員を続けるには相当な体力が必要だ。室内にいる二人は、見かけによらず体力があるということになる。


「つまり先輩方はマッチョなんですね」


 菅田先輩が目を丸くする。


「マッチョ! 女子に何てこと言うんだ君はーっ」

「一応誉め言葉なんですけど」


 筋肉は脂肪よりも重い。体重が増える点に注目し、ダイエットに筋力トレーニングを避ける人は多いと聞く。だけどスラッとしたモデルは例外なく筋肉を付けている。走り、器具を用いて肉体を鍛え上げ、中にはプロテインを飲んで維持に努める人もいる。

 低体重ても均整が取れていない容姿と、少し重くてもすらっとしている容姿。どちらが世間で評価されるかなんて、日の目を見るより明らかだ。


「誉め言葉のセンス皆無だよ君」


 白い頬がぷくーっと膨らむ。菅田先輩には、俺の褒め言葉がお気に召さなかったらしい。子供っぽい抗議を前に苦笑するしかない。

 水を足すような音が鳴った。香ばしくも品のある匂いが室内を満たす。振り向くと、波杉先輩が急須にお湯を注いでいた。


「お茶入りましたよんよんよん」


 跳ねるような声に遅れて、茶碗を乗せた茶托がテーブルの天板を鳴らす。透明感のある暗褐色の液体が波打つ。匂いと色からして番茶だ。あのほろ苦さは癖になる。


「聞いてよ双葉ぁーっ。この一年生、私達のことマッチョだって」


 すがるような声に笑顔が向けられる。


「いいですねマッチョ! 何かこう、ムッキーって感じで!」


 ふんっ、と波杉先輩が両腕を掲げる。前腕と上腕が六十度を描くものの、隆起すべき山は見られない。波杉先輩のそれは、菅田先輩が望むリアクションじゃなかったのだろう。菅田先輩が渋い顔をする。


「しまった、双葉はこういうキャラだった」

「もしかしなくてもバカにされてますねわたし」

「プロテイン飲む?」

「飲む飲む!」


 筋肉が全てを解決した。波杉先輩がるんるんとステップを踏み、椅子を引いて座に腰を落ち着ける。


「菅田先輩はプロテインを飲むんですね」

「うん。プロテインは美容にも効くからね。ところで私のリンゴジュースは?」

「そんなものはないっ!」

「お金渡したらパシられてくれる?」

「わたしはパシらん。部室に住む妖精なのです」


 パシらん。時々放送室に出没する、少女の姿をした妖精。友人の頼みと言えど決してパシらん存在らしい。どんな妖精だ。俺のツッコミを待っているのか?


「けちー」


 菅田先輩がごねる。その様子を見て、小さい体が愉快気に揺れる。容姿は正反対だけど仲の良さそうな二人だ。活動内容は大変だと言いつつも、充実した学生生活を送っているように見える。

 まさに理想的な青春模様。二人の笑顔が、晴天に頂く太陽のように眩しい。目を焼き焦がされる錯覚を受けて目を逸らす。


「ごめん、話が逸れたね。うちの部活動は地味なわりに大変だけど、それでも入部してみる?」

「はい」

「即断だねぇ。少しくらい悩んでもいいんだよ?」

「大丈夫です。意志は変わりません」


 悩んで、頭を傾げて、その末にここに座っている。あれこれ考える段階は疾うに過ぎているんだ。元より俺は復讐者。為すべきことを為して離脱するだけだ。


「かっくいいですねぇっ! わたしも一度でいいから、それ言って上級生に啖呵切りたいものですよぉ」


 波杉先輩が体をくねらせる。感嘆しているように見えるのは、きっと俺の気のせいじゃない。彼女は芳樹のお仲間のようだ。


「かっくいいって。やったね」


 菅田先輩が顔を近付けてささやいた。耳をくすぐる息遣いにぞくっとしたけど、反射的に無表情を貫く。ここで初々しく反応したら玩具にされる。そんな直感があった。

 俺は苦々しく笑って動揺を誤魔化す。


「茶化さないでくださいよ」


 一つ覚えた。菅田先輩に隙を見せると、手のひらの上で転がされそうだ。これから先、色んな意味で気を引き締めなければ。

 悪女の幼体が小気味よく笑う。


「ごめんごめん。ようこそ放送部へ。歓迎するよ市ヶ谷さん」


 しなやかな腕が入部届を差し出す。一枚の紙切れが悪魔との契約書に見える。

 俺の主観が視界を濁らせているだけだ。目の前にあるのは先輩の親切心。断る理由はない。俺は口角を上げて用紙を受け取った。

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