密室と死体
西野ゆう
犯人は土津田健司
ある家の一室。若い男が白髪交じりの男の襟元を掴んで激しく揺さぶっている。
「てめえのせいで」
「投資に、絶対は、ないっ。くっ、苦しい。た、助けっ」
「くそっ、くそっ」
「なんだよ、どうしたんだよ」
「うぐっ」
蜂久根は土津田にすがりつくようにして、ゆっくりと床へ倒れていった。そして僅かな痙攣の後、全く動かなくなった。
「マジかよ。冗談じゃねえぞ」
正午過ぎ、土津田は遺体を前に呆然としていた。どれだけ締め付けていたのか記憶にもない。本人の感覚ではほんの一分程度思考と行動が停止していたように感じていたが、実際は五分間立ち尽くしていた。
「このままじゃ殺人犯で捕まっちまう」
そう口にしたのも五度目になって土津田はようやく動き出した。
「密室だ。俺はここにはいなかったってことにすればいい。密室の作り方ならネット見れば」
震える手でポケットからスマートフォンを取り出した土津田だったが、あろうことかそのスマートフォンを蜂久根の上に落とした。
こんなに簡単に人の額は割れるものだろうかと感じてしまう程、スマートフォンの直撃にあった遺体の額が裂けた。遅れて黒く濁った静脈血がじわりと滲み出てくる。
「ああ、ヤバいぞ。どうする。どうすればいい」
呼吸を意識しながら、思考を口に出す。そうやって落ち着こうとする土津田だったが、頭は思うように回転しない。動転しての行動で証拠を残し、それを後悔し消去するという繰り返しは永遠に続くようであった。
歩き回っては足跡を気にして、物に触れては指紋を気にする。遺体の額を割ったスマートフォンも、この時になって気になりテーブルから落ちていた紙で角を拭った。
「この紙も持って帰らなきゃな。それより傷。ああ、いや、とりあえず密室だ。傷のことは後で考えよう。密室さえ作れれば、遺体が発見されるまでには時間がかかるはずだし。大丈夫、時間を稼げば」
何度かぶつぶつと繰り返して自分に暗示をかけるようにして、ようやく土津田は落ち着きを取り戻した。
目の前に横たわる蜂久根の上を跨いで玄関への細工を始めた。蜂久根の額を割ったスマートフォンを片手に。
土津田が固唾を飲み続けた時間は僅か五時間。土津田が独り身だと思い込んでいた蜂久根には別れた妻との間に儲けた娘がおり、大学卒業後から勤務先に近いという理由だけで父親と共に暮らしていた。この家に住み始めて五年になるその娘が帰宅して、遺体を発見するとすぐに消防ではなく警察に連絡をした。
それは消防に連絡したとしても、明らかに死亡していると分かる場合は救急搬送されることなく、救急隊員が警察に通報するだけだと知っていたからだけではない。確実に事件だと認識したからだ。
蜂久根の娘のソニアは冷静だった。父親の突然の死を目の当たりにした娘としては冷静すぎた。玄関から次々と入っていく鑑識課の人間の邪魔にならないようにという理由で座ったパトカーの後部座席で、刑事からの鋭い視線を浴びている。
「どうも。刑事の
九条からの申し訳なさを微塵も感じない棘のある言葉にも、ソニアは冷静に返した。言葉に含んだ棘も一緒に。
「父は死後五時間前後でしょう。私はその間勤務中でしたから。まあ、死因までは分からないんで、そのアリバイも意味があるのか今の段階で何とも言えないですけど」
話を聞いていた刑事はもともと刻まれている眉間の皴を深くした。
「随分とお詳しいですね。医療関係者ですかな?」
九条はソニアに対して聞いたが眉間の皴の原因はそこではなかった。わざと遠くからの質問で追い込む手だ。
「ええ。一応外科医ですので」
「ほう、なるほど。で、死因によってはアリバイに意味がなくなるとは?」
ソニアは鼻で笑って両方の手のひらを胸の前で空に向け、肩をすくめて見せた。そのジェスチャーも自然に見えるのは、彼女の母親の遺伝子がそうさせているのだろう。
「外傷性の要因なら死亡時刻にごく近い時間まで犯人は父と共にいたということでしょうけど、例えば毒殺みたいに犯人が必ずしもそこに居なくても良い場合はアリバイは関係ないでしょう? 刑事さんの方がよく知っているはずですけどね」
「確かにその通りです。しかし、どうして殺人だと思われたのです? 部屋の鍵は内側からかかっていた。ドアチェーン、いや、U字型のドアガードでしたか。そのドアガードもされていた。窓も全て施錠されている。あなた自身がそう説明していますよね。普通は病気か事故か、あるいは自殺か。そう考えるものではないですか?」
九条は「自分が殺したから殺人だということを前提に話したのだろう」という推測をしていると、わざとソニアに分かるような言い方をした。それでもソニアの表情に変化はない。
「脈と体温、眼球の状態は見たけど、死斑までは見てない。そこまで遺体を動かす必要はなかったし、殺人現場だと分かったからそれ以降はどこにも触れてない。額の傷。鑑識の方にでも確認してみたら、刑事さん」
刑事は頬を引きつらせた。自己主張が激しく自信に溢れ、プライドの高い女。九条が一番深く関わりたくないと願う人種だ。ソニアもわざとそういう口調を選んで挑んでいる風にも見える。
「そもそも、その傷以前に私は異変を感じたもの」
「異変、とはどのような?」
「父は自宅にいる時に鍵を閉めない。就寝時にもね。ドアガードなんて尚更」
九条は最初に現場到着していた地域課の警官がソニアから聞いた話を書き留めている手帳を見ながら話を聞いている。
「で、あなたはドアガードの開け方をスマホで調べてドアを開けた、でしたな」
「そうです。窓を割って入ろうかとも思ったけど、万が一父が女の人でも連れ込んでいたら嫌だから、声を掛けながら入ったの」
嘘をついている。九条はこれまでのソニアの話し方との微妙な違いにそう感じたが、どの部分が嘘なのかまでは分からなかった。刑事の勘が、この嘘を放置してはいけないと警鐘を鳴らしている。
「強制ではないですが、そのドアガードの開け方を調べたというスマホ、見せてもらうことは可能ですか?」
「拒否したら令状取るんでしょ。どうぞ見てください」
ソニアはロックを解除したスマートフォンを九条に手渡した。
「では、拝見します。あなたも一緒に画面を見ていてください」
九条はブラウザを立ち上げて閲覧履歴を調べるつもりだったが、ブラウザを立ち上げた瞬間、ドアガードの開け方を解説する動画が載っているページが表示された。このことは間違いなく真実を語ったようだ。そうすると、窓を割ろうと思ったことか、女がいるかもしれないと考えたことか、声を掛けながら入ったことか、そのどれかが嘘ということになる。九条の勘が当たっていれば、だが。
九条は短く嘆息をして一旦嘘と感じたことは放置すると決めた。
その九条の視界に、遺体を搬送する様子が見えた。鑑識の現場での仕事も終盤だ。刑事は鑑識課の若手を一人捕まえ、ソニアが言っていた傷のことを聞いた。
「ガイシャの額に傷があるそうだが、所見は?」
「はい。死亡の数分後についた傷ですね。間違いありません」
鑑識課のその若手は事実だけを伝え、それが何を意味するのかまでは言わなかった。それを判断するのは鑑識の仕事ではない。当然容疑者や参考人が言うべきことでもない。だが、ソニアはそれを口にした。
「ね。犯人は父が死んだ後も現場にいた。少なくともそれは私ではない」
九条は危うく舌打ちしそうになったのをすんでのところで止まった。その九条に別の刑事がソニアのアリバイが確認できたと耳打ちした。
「どうやらそのようで。いや、ご協力ありがとうございました」
九条はそう言いつつ、手にしたままだったソニアのスマートフォンを返した。そのスマートフォンを見つめながらソニアがうっすらと笑みを浮かべた。
「協力ついでにもうちょっと教えてあげる」
ソニアの高飛車な物言いと笑みに九条は再び皴を刻む。
「それは是非ともお聞きしたいですな」
その返事を聞いたソニアは満足気に頷いて、もう一度返してもらったばかりのスマートフォンを九条に渡した。
「私が検索して開いたそのサイト、ビニール紐を使った鍵とドアガードの閉め方も載っているの。検索してトップに出てきたサイトだから」
続く言葉は刑事が口にした。
「鍵とドアガードにビニール紐の痕跡があれば、犯人もこのサイトを参考にした可能性が高い」
「まあ、ドアガードの方は私もビニール紐使ったから、確実な証拠になるのは鍵の方だけだけど。それでも五時間前にこのサイトへアクセスした端末を調べればあっという間に事件解決ね。それに父の額の傷。周りにあの傷を付ける物は落ちていなかったし、そもそも死後に傷付ける意味がない。倒れた時に打つような角がある家具も近くにない。だとしたらある意味事故でついた傷。人が持ち歩いているもので、あの傷を作りそうなものはスマホぐらいしか思いつかない」
ソニアは身振り手振りを加えて早口でまくしたてた。
「きっと慌てた犯人がスマホを取り出した時に落としたのよ。傷口とスマホを照合すれば」
「いや、もう結構。十分参考にさせて頂きましたので」
九条は苦虫を嚙み潰したような顔をしてソニアを見ていた。
サイト運営者は好奇心からか捜査に協力的で、アクセス解析レポートを即座に警察へ提出した。だが、プロバイダーの方はそうもいかない。令状なしではIPアドレスの使用者情報を開示しない。だが、令状が取れることが確実な場合はあらかじめ連絡しておけば準備してもらえることが多い。今回もその例に漏れず、令状が取れた時にはプロバイダーが利用者の情報を全て揃えていた。
土津田健司の逮捕状は事件発生の当日、日付が変わる直前に発行された。
罪状は偽計業務妨害罪。殺人現場を故意に改変し、警察の事件捜査業務を妨害した罪だ。
日本では罪状が複数に渡り、それぞれ別の捜査が必要だと認められる場合、再逮捕して勾留期限を延ばす方法がとられることがよくある。
だが、土津田の場合はこれにあたらない。初めから殺人、或いは傷害致死の容疑はかけられなかった。
それは、別の容疑者がいたからに他ならない。
「確かにあなたが家に帰った時、声を掛けながらドアガードをビニール紐で開けていたという証言がありましたよ。あなたがビニール紐を貸してくれと頼んだお隣さんからのね」
九条が一人、取調室でソニアの証言を取っている。取調室のドアは閉められ、映像も残されていない。九条はこの形を取るために、わざと逮捕せずに任意での聴取に臨んでいた。ソニアの性格を考えてのことだ。この状態で問い詰めた方が、彼女のような高飛車な女はボロを出すと経験から知っている。
「あなたはこう言っていたらしいですな『誰かいるの?』と。『お父さん』とは一度も口にすることなく」
結果的に九条の勘は当たっていた。ソニアはつかなくていい嘘をついていた。わざわざ心の内で「父が女の人でも連れ込んでいたら嫌だから」と考えていたと話して。
「だからそれは女の人がいるんじゃないかと」
「一応の所はね、それで説明がつくかもしれませんが」
「一応? それが本当のことなんだから、それ以外話しようがないでしょ」
九条は人差し指で額を掻くと、背広の内ポケットからビニール袋に入れられた皴のついた紙片を取り出した。
「あなたの進言通りに捜査して密室を作った犯人を逮捕したんですわ。ああ、あと死因は急性心不全です。一応ね」
その言葉を聞いただけなら、ソニアはまだ粘っていたかもしれない。だが、九条の出した紙がソニアを諦めさせた。
「ほう。その顔だと、この紙が何か知っているようで」
それは土津田が自身のスマートフォンを拭いた紙だ。蜂久根重治の名前と死亡時の日付が蜂久根重治の直筆で右下に書かれている。それ以外は白紙だ。
「あなた、これを職場から電話をかけて、お父さんに書くように指示していましたね。同僚から証言を得ています。あとはこの紙にパソコンで書いた遺書をプリントする予定だった。違いますか?」
「弁護士を、呼んでください」
それはソニアの敗北宣言だった。
密室と死体 西野ゆう @ukizm
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます