第四十四話 歪められつつある真実

 止めなくては――。

 

 彼女はそう思った。

すでこんぱくは身から離れがんに渡らねばならない。わかっているが、《彼》が自分のために人をがいそうとしている。そんなことは耐えられない。

《彼》は本当は気が弱く、人を害するなどできない存在。それなのに――。

 彼女はゆえに、彼岸の川に背を向けた。

 このまま川を渡れば、《彼》はむなしく消されてしまう。人を害する存在として。


 お願い。《彼》を助けて――。


 彼女のさいの願いは叶うのか。彼女が消えるのか先か、それとも《彼》が血にまみれた姿で狩られるのが先か。

 だが、彼女のこくを聞いた者が一人いた。

 ふらりと入った邸で、彼女の声に耳を傾けた人間が一人だけいた。


 ああ、あの方ならきっと。


 その人間の名は、陰陽師・安倍晴明――。


                    ◆


 まもなくちようようせちという日――、内裏をした晴明は一人の殿てんじようびとそうぐうした。

 使がわなおつぐ――、位は六位だが、帝のぜんきゆうや宮中の雑事に奉仕する蔵人くろうどに任ぜられ、例外的に殿上人となった人物だ。

「――ちょうど、陰陽寮に赴こうかと思っていたところでしてね」

 歳はおそらく晴明と大差はないだろう。目を細め、かわほりおうぎを開いた彼は口許に笑みを浮かべた。

「私に――御用ですか? 勅使河原さま」

「あなたが、れいけい殿でんにようさまとお会いになった――と聞きましてね。ご存じの通り、内裏という所は良きも悪きも噂が絶えぬ所。かのじんは滅多に他人を信じぬと言われる女人、その方がよりにもよってなにゆえ、あなたを頼られたのか。みな、興味があるようでしてね」

 勅使河原尚嗣の物言いは穏やかだが、晴明に対する皮肉は込められていた。

 よりにもよってなにゆえ――、その意味を解けば妖の血をひく者に何故頼ったのか、だろうか。晴明がはんようであることは大内裏にいる者なら誰でも知っていることだ。本人は悪気はないのかも知れないだろうが、そうした情報は無意識であっても言葉や態度に出ることがある。

「申し訳ありませんが、お話しすることはできません」

 そう言って断ってきびすを返す晴明を、尚嗣が更に止めた。

「我が妹かも知れないのですよ」

「え……」

 思わず振り向いた晴明である。

「麗景殿に現れたゆうですよ。じゆだいして一年後に病死した妹がいましてね。ですが本当はじゆされた――と教えてくれた人間がいました。もし事実なら――」

「一体誰がそんなことをあなたに……」

 尚嗣はそれ以上はなにも言わなかった。

 しかしその顔は、強ばっている。

 何者かが、尚嗣に妹は呪詛されて死んだと教えた。


 叢雲勘岦斉むらくもかんりゆうさい――。


 晴明ののうには、その男しか浮かばない。

 人に憎しみを植え付けることで、彼は行動する。

 現在この内裏には、鈴の音を響かせるあやかしが出没している。その妖の裏に彼がいるなら、恐らく誰かの依頼か、または負の念を読み取って動いているだろう。

 麗景殿の女御が嫉妬や憎しみに負けてしてきたことは悪いが、さらに憎しみで仕返ししようなどしていいことにはならない。

 それが晴明のあずかり知らぬところで行われればまだしも、ここは帝が座す内裏である。 叢雲勘岦斉は妖を使役し、喰らわせることで目的を果たす。ここが内裏だろうと構わずにだ。 

「――たとえ真実がどうであれ、私は陰陽師です。人に害する存在は祓わねばなりません」

 晴明の言葉に勅使河原尚嗣はどうもくし、そしてふっと笑った。

「あなたは噂とはだいぶ違うようですね。むしろ、あの男のほうが妖に近い」

 勅使河原尚嗣はそういって、ほうたもとひるがえした。

 あの男とは、やはり叢雲勘岦斉のことだろう。

 だが、病死したという尚嗣の妹のことも気になった。

 ふと、晴明は深夜に晴明邸に現れた女の幽鬼を思い出した。《彼》を殺さないでと晴明に告げて消えた彼女と、麗景殿の現れた幽鬼が同じなら、彼女は妖の正体を知っている。

「――どうやら、彼女に会いわなくてはならないようだな」

 正殿(※紫宸殿)の前まできた晴明はたんそくし、そう思った。

  

                 ◆◆◆


「まったく、次から次へと邪魔をしてくれるものよ」

 男はいらたしげに、立ち上がった。

 彼の前には、水の張られた盆がある。そこには、その場にいるかのように様々な光景が映し出されていたが、彼が新たに得た式神は彼の思うように動かない。というより、強固な結界に侵入をはばまれたのと、予想だにしなかった幽鬼がさまい始めたためだ。

 叢雲勘岦斉は、あるとき彷徨っている妖を見つけた。初めはそんな力のない妖で、勘岦斉にすれば利用価値のない存在である。

 勿忘草の君を捜しているというその妖に、勘岦斉の興味が引かれたのはそのときだ。

 折しも彼は、ある男の依頼を受けたばかりだった。勿忘草の君を死に追いやった女に報復したい――、たしかそんな依頼だ。

 しかしその女は内裏の中、仕掛ければ陰陽寮が黙っていない。ならば外に出すと言った依頼者だったが、先日それは適わなくなったと告げてきた。

 おそらく、安倍晴明の指図だろう。強固な結界を張ったのも彼だ。

 そして、幽鬼まで勘岦斉の邪魔をし始めた。

 邪魔と言っても、妖を追うように現れるのだが。

 もしあの幽鬼が勿忘草の君だとしたら、彼の新たな式神は真実が違うことに揺らぐ。もしかすると、かの妖をつかうことは失策だったかも知れない。

 不意に、ろうそくの炎が揺れた。

「……しつな我が邸によくぞ来られた。姫」

 衣擦れとともに、女房装束の若い女が入ってきた。

 勘岦斉の中では、彼女が誰かわかっていた。

 一年前病死した、勿忘草の君。

 幽鬼でありながら、しっかりとした姿に勘岦斉は動じなかった。

ひどいひと……」

め言葉と受け取りましょう。ですが、私は陰陽師。頼まれれば仕事をするだけ。これもあなたを愛したものたちの依頼なのですよ? 勿忘草の姫。いえ、勅使河原の一姫」

「あなたはうそをいっているわ」

「嘘ではありませんよ。実際に、あなたへの呪詛は行われた。ただ、依頼した術士が無能で、効果はでなかったようですが。そう、あなたは偶然も病にかかった。ただ呪詛されて亡くなったと言ったほうが、彼らを呷るのに好都合だったのです。姫、あなたはもうこの世のものではない。送って差し上げますゆえ、冥府へお行きなさい」

 勘岦斉がいんを結んだ瞬間、勿忘草の君は突如消えた。

 近くでしやくじようの音がしたのだ。

「ふん、また誰か邪魔を……」

 錫杖を鳴らしたのは誰だったのか、まがきしに去って行く女が見えた。

 錫杖を手にする女は珍しかったが、勘岦斉の感心はそれ以上注がれることはなかった。

 だが――。


 ――お前は、あの男を越えられぬ。


 今もなお、勘岦斉のもとで氷の壁に囚われ続ける十二天将・青龍。

 彼が勘岦斉に言ったその言葉が、脳裏に蘇る。


「私は――、安倍晴明を越えられぬと? 神であるお前をこうしてがんがらめにする能力ちからがあるというに」

「これで俺を――、十二天将を屈服させたと? 叢雲勘岦斉、お前は肝心なことがっていない。安倍晴明は確かにはんようであり、我らを使えきする主としても半人前だが、我らがなぜ、あの男の元に下り従っているのか、お前には理解るまい」

 もうほとんど身動きとれぬ中、青龍はそう言って勘岦斉をわらった。


「ふふ、青龍。私にはもう一つ、切り札がある。この王都にいるもの全員がひれすほどの能力。アレが目覚めれば誰も私には逆らえぬ」

 簀の子縁に立った勘岦斉は、そらを見上げた。

 漆黒の昊には、月が昇っている。

 彼の野望は、月の光にも溶けることはなく、その胸の中でごうおんを立てて燃え続けていた。

 

                     ◆


 その頃――づきは、へやぶんだいに向かっていた。

 しばらく筆を走らせていたが、その手がぴたりと止まる。

まえれもなく、人のやしきを訪ねてくるなんて何処の礼儀知らずかしら?」

 何かの気配を察した氷月は、一点をちゆうした。そしてその気配は、位置をたがえることなくそこにけんげんしたのである。

『――我が主が、あなた様にお目にかかりたいとのこと』

 現れたのは異国風の武具を身につけた、厳つい鬼神だった。

 しかし氷月は驚くことはなかった。彼女にすれば付き従っているのほうが怖ろしい姿をしているし、彼らを初めて見ても驚かなかった彼女は、目の前にあられた鬼神に敵意がないともわかった。

「あなたの主人って――」

 この現世で鬼神を式神にしているといえば――、氷月はまだ会いったことがないが、鬼神が主と呼ぶ男が誰かも理解した。

 陰陽師・安倍晴明――、いずれ何処かで会いうことになると思っていたが、まさか向こうから会いおうと言ってくるとは。

「いいわ。私もお目にかかりたいと思ってたの。日取りはお任せするわ」

 氷月の言葉を受け取って、鬼神はすっといんぎようしたのだった。

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