第三十九話 割れた文箱と鈴の音  

 ――チリン……。


 くらやみの中で、鈴が鳴る。

 一つ二つと鳴り、一度止まっては、また鳴り出す。

 音はしばらくそれを繰り返し、やがて消えた。



 それはせみの声がひぐらしに変わり、りようふうが吹き始めたしよしよの頃である。

 うんめい殿でんないどころには、いつもと違った緊張感があった。

 いつもなら、どこどこの殿とのがた殿でんしやの前を通っただの、夢中になっている物語の話だのに花を咲かせてはとがめられている女房たちだが、この日は硬い顔で口を閉ざしている

「――次のせちの準備は進んでいて?」

 こうとうない・藤原章子の問いかけに、近くにいた女房たちは「え……」と驚いた表情を見せた。揃って同じ反応をしたため、勾当内侍・藤原章子の眉がろんに寄せられる。

 勾当内侍とは別名・ながはしのつぼねといい、帝へのそうせいの取り次ぎ、ちよくの伝達をつかさどる女官のことである。

 この日――、ふじわらあやは久しぶりにうんめい殿でんないどころを訪れていた。

 中宮・藤原瞳子が、新しいばこはないかとたずねてきたのだ。それまで使っていたものは、実父である関白・藤原頼房が瞳子のじゆだいに際に贈ってきたものだそうだが、今朝見てみたら割れていたらしい。

 瞳子はどこか痛んでいたのだろうといっていたが、その文箱はくろうるしきんまきほどこされた見事なもので、菖蒲がその文箱を手にした数日前はとても痛んでいるようにも見えず、がんじようそうであった。誰かのいたずらではないかと菖蒲はにらんでいるが、瞳子が気にしていない様子だったため、菖蒲も文箱の件は口を閉じた。

「もうすぐちようようせちだというのを忘れていて?」

 章子は眉を寄せつつ、彼女たちを見据えている。

「め、めつそうもございませんわ。ながはしのつぼねさま」

 そういいながらも、彼女たちの顔は引きつったままだ。

 しかし章子はその理由を尋ねることなく、内侍所を退室する。

 重陽の節会とは、内裏内において九月九日の重陽に行われた節会のことである。

 大陸から伝わった重陽の概念・儀式が宮廷行事に取り入れられたもので、菊の花の鑑賞や長命の効能があるとされたきくしゆたしなむ会を兼ねたことからきつえんとも呼ばれる。

 当初はしんせんえんにてぶんじんかんを作らせるなりして開かれたそうだが、場所を紫宸殿に移して開かれ、帝がしゆつぎよしない場合にはよう殿でんで行われたという。

 だが、今年は帝も出御する紫宸殿である。 

「どうしましょう……!? とうないのすけさま」

 勾当内侍・藤原章子が退室した直後、女房たちの顔が一斉に菖蒲に向く。

「わ、私にいわれても……。正直にお話しするしか……」

 中宮に渡す新しい文箱を選びに来ただけなのにと、菖蒲は自身を嘆いた。

「無理ですっ。絶対に! あの方を前にいるわけがありませんわ」

「きっと烈火の如くお怒りになるわ」

「ええ、そうですわ。鬼のように」

 やはり彼女たちも、勾当内侍・藤原章子は苦手のようだ。

 性格はきつく、笑った顔を誰も見たことがないという彼女についたあだは〝仮面の君〟

 当の本人は、そんな風に思われているなど知るよしもないだろうが。

 彼女が困っているのは、帝がまとそくたいにつける帯のことだ。

 せきたいといい、帝でなくても廷臣なら身につけるが、とよばれるその飾りには位によって石が違う。帝の飾りは白玉が五つ施され、その一つがなくなっていたのである。

 それに気づいたのがつい三日前だというから、顔も強張ろうというものである。

 帝の衣装はくらのつかさ(※帝・皇后の衣服などをつかさどった役所)のからびつにしまわれており、その唐櫃のふたがずれていたらしい。

 重用の節会には、帝は束帯を召される。

 それまでに見つかるかどうか。

 泣きそうな目で訴える女房たちにたじろぎ、菖蒲は天を仰がずにはいられなかった。


               ◆


 一条――、安部晴明邸。

 堀川が流れる一条戻り橋近くに建つ彼のやしきは、以前から人にあらずモノがんでいるといわれている。実際、主である晴明もはんようなどといわれているが、夜な夜な怪しげなモノがろついているなど貴族たちはあれやこれやと妙な噂を作り上げる。

 だったら来なければいいものを、れいが欲しいと使いの者をしてくる。安倍晴明は怖いが、力は欲しい。まったく勝手よと、晴明はあきれている。

 しかしそんな貴族の中にも、人の都合などお構いなしに、へいさかなを持ってやってくる男がいる。右大臣家のちやくなんにして左近衛中将――、血筋も身分も申し分はないのだが、性格にやや難がある。

「――それで? 私になんとかしろと……?」

 ゆうをすませて一息つく間もなくやって来た男に、晴明はけんしわを深くした。

「お前の忙しいのはわかっているさ」

 いや、わかっていないだろう。

 晴明はぜんと彼――藤原冬馬をにらむが、冬馬はなんのそのだ。

「だったら他を当たれ。ぞくならば陰陽師ではなく、使の仕事だろうが」

 冬馬に寄れば、清涼殿・蔵司に、賊が侵入したかも知れないという。

 内裏に賊が侵入するのは珍し事ではないらしいが、盗まれたのは帝が召す石帯の飾り一つのみ。それが何処にあるのかという内容であった。

「検非違使にいんから、お前に頼んでくれ――と菖蒲にねじ込まれてなぁ……」

「つまり、その賊が誰であれ、管理不届きを大事にされたくないというのか?」

「宮仕えの性ってやつさ」

 晴明はたんそくした。

 素直に紛失したことを報告すればいいものを、保身に走るとは。

 考えられるのは、帝が石帯を外したときに取れたかだが、唐櫃にしまわれるまでは、飾りはあったらしい。

 こんきゆうした晴明は両腕を組むと、冬馬を憮然と睨んだ。

「一度だけだからな」


               ◆◆◆


 ――チリン……。 


 人々が寝入ろうというさんこう――、小さな鈴の音が聞こえてくる。

 チリン……、チリンとその音色は、移動しているようであった。

 あきむしかと思ったがそうではない。

 暗闇の中で、小さな鈴の音だけが鳴っている。

「あ……」

 宿とのだった男は、声がうまく出せない。

 全身が総毛立ち、足がすくむ。

 

 ――チリン……。


 鈴の音は男のほうへと近づいてきて、やがて止まった。


                  ◆


 出仕した晴明は、内裏へさんだいするまでにあやかしが出るという噂を幾つか拾った。

 ――泥棒の次は妖か……?

 晴明が参内したのには帝からの求めに応じてのものだったが、聞かずとも予想はできた。

 おそらく、この広まりつつある妖の正体についてだろう。

 最近は、内裏の中も外も妖が忙しない。

 都では妖が人を喰っては骨してさらし、人に取りいては鬼に変え、内裏では中宮・藤原瞳子を狙った鬼が出た。

 そして今回の妖だ。

 いくら陰陽師のりようぶんとはいえ、さすがの晴明もへきえきした。

 

「――鈴の音がするそうだ」

 清涼殿・ひるのおまにて、今上帝は唐突に切り出した。

「は……?」

 思わず出た晴明の返事にも関わらず、帝は話を続けた。

「昨夜、宿直の右近少将がその音を聞いたらしくてな」

 帝曰く、その右近少将は内裏の中で、奇妙な鈴の音を聞いたのだという。しかもその音は移動しながら鳴っているらしい。だが音だけで、それが何によるものかはわからないという

「妖の姿を見てはいないと……?」

 ろんに眉を寄せる晴明の前で、扇を閉じる音がした。

「そのようだ」

かみ、他に変わった事などお聞きにはなられておられませんか?」

 晴明の問いに、帝は答えた。

「そういえば――、中宮がおかしなことをいっていたな」

 なんでも、中宮・藤原瞳子の文箱が突然割れていたらしい。

「文箱が?」

「中宮は、どこかひびでも入っていて、落ちたときに割れたのだろうと笑っていたが、それと今回の妖が関係あると? 安倍晴明」

「そこまでは……」

「まさか今回も、中宮が狙われているのではないだろうな?」

「――中宮さまにはを渡しておりますゆえ、おんわざわいが及ぶことはないと存じます」

「そなたらを責めるつもりはないが……、いつになったらこの都は落ち着くのかの」

 そこを突かれると晴明もきついが、国と民のあんねいを常に神に祈り続ける帝の立場からすれば、災難は一刻も早く取り除きたいと思うのは当然かもしれない。


 一方――。

 

「――殿でんで、またなにかあったようだの」

 後宮・七殿五舎――、かの女人は檜扇越しに口の端をつりあげた。

「なにかと申しますと? 女御さま」

 仕える女房の前で、彼女はわらう。

「さぁ、なにかの。でも――また面白くなったきたわ」  

     

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