第三十七話 嘆きは憎しみとなりて
その夜、かの男は夜歩きに出ていた。
最近は
――確か
男は扇を口に当て、にやりとほくそ笑む。
既に幾つかの和歌と文も送り、あとは
ふと、その足が止まった。
辻に、青い
――
男は、嫌な予感がした。
確か青い華の側では人の
しかし今は彼岸花の咲く時期ではない。
しかも王都の中心である。
男は恐ろしくなり、
黒くて大きな
「なにゆえ……」
男の声は悲鳴にはならなかった。声を上げる間もないうちに、一切の光景が視界から消えた。男の望みは、永遠に叶うことはなかった。
それから間もなく――。
「なにゆえ……」
かの男は震える声で
男には息子がいた。大事な跡取りであった。彼の息子は、もうすぐ妻も迎える予定であった。男の家は、藤原一門に引けを取らずに栄える筈であった。
それがすべて消えた。
彼の息子の死とともに。
「なにゆえ……っ」
――あの男の
彼の
「何者だ!?」
男は
『お前の息子がなにゆえ死なねばならなかったのか。あの男の所為だ』
「それは誰だ!?」
『陰陽師、安倍晴明――』
その名を聞いた途端、男の中で何かが切れる音がした。
恨みを晴らせ――と。
◆
その日――、晴明邸をいつのように冬真が訪ねてきた。
冬真曰く、さる貴族の縁談が壊れたという。
「破談になった?」
「ああ。先方がこの話はなかったことにしてくれといってきたそうだ」
「ずいぶんと思い切ったことをしたものだな」
縁談を断った相手は、藤原北家でも宗家に近い権中納言家だという。
「問題は断られたほうさ。すっかりその気になっていたというかの姫は、尼になるといっているらしい。ま、わからんではないがまだ十七歳だ」
「それで縁談を断ったというその男は、誰だったんだ?」
「確か――三条大路に
その名に、晴明は
何処かで聞いたような気がしたのだ。
富貴智久は
今朝のことだ。
大内裏に出仕した晴明は朱雀門で、外に
師・賀茂忠之に聞くと、三条大路の
どおりで、検非違使たちの顔が強張っていたはずである。
しかしこの件で、
――え……。
あれこれ
「どうした? 晴明」
冬馬が首を傾げる。
「富貴さまの邸は、三条大路だといったな?」
「ああ、そういったが?」
これは偶然か。
冬馬が帰ったあと、晴明は
そんな晴明の横に、
『なにを占う? 晴明』
燃えるような赤い髪に
「嫌な予感がするのでな」
晴明は彼を
『例の妖か』
「これ以上、犠牲者を出すわけにはいかん。それに――」
『それに?』
「青龍を返してもらう」
朱雀の目が見開かれたが、彼は何もいわず、晴明の側から消えた。
卜占の
晴明の予感は、占いと一致していた。
◆◆◆
聞こえるか、陰陽師。
我が声が。
我が悲しみが、怒りが、お前に
お前をいつまで待てばいいのか。
我が
ざわざわとした
当初は気に所為かとしてきた声音が、今ははっきりと聞こえる。
これは、念だ。
この世に想いを残して亡くなった者の中には、念を残す。
そしてその念は、妖を引き寄せる。
彼らにとって、そのものが生きていようと死んでいようと関係ない。強い負の念があればそれを糧とする。それが憎しみに彩られていればいるほど。
陰陽寮の
見上げる昊は青いのに、晴明の心は晴れない。
晴明は師・賀茂忠之に、三条大路で見つかったという骸の
晴明自身が行けばいいが、検非違使たちは晴明を歓迎はしないだろう。彼らになにかをした覚えはないのだが、やはり
その忠之が戻ってきた。
「そなたの読み通りじゃ。晴明」
眉を寄せ
「やはり――」
「さる貴族から、身元は口外するなと口止めされたそうじゃ」
検非違使たちが素性を確かめるよりも前に、一人の
なぜそんなことをするのかと訝しんだそうだが、相手は政に携わる公卿。遺骸は取り述べに運ばれたらしい。
検非違使たちはその公卿が誰かは名前はわからなかったそうだが、
「死は
さすが、師匠と、晴明は感心する。
自分が行けば、こうも検非違使庁の人間は明かしてはくれたかどうか。
しかし晴明は、妖に襲われて亡くなったからには放置はできなかった。
「――師匠、もう一つお願いしたいことがあります」
白い
◆
三条大路は貴族の邸や
晴明は賀茂忠行に、
相手は政に関わる参議である。
晴明が先触れを告げても、突っぱねられる恐れがあった。
「――陰陽師ごときが、我が邸に何のようか?」
室に現れた
「私は安倍晴明と申す者。
「そなたには関係ない話であろう! 息子は急な病になったゆえ、お断りしただけじゃ」
「本当に晴信どのは、病で伏せっておられましょうか?」
「な……」
富貴智久の顔が強ばった。
「もしや――、亡くなられているのでは」
「……なぜじゃ……」
「富貴さま?」
富貴智久の様子が、明らかにおかしい。
「なぜ……晴信が……、骨にされるのは北家の血筋とはがり……」
次の瞬間だった。
「お前が……殺した……」
顔を上げた富貴智久の目は赤い。
――しまった……!
そう思った時には、晴明は富貴智久に襲いかかれていた。
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