第三十六話 十六夜姫
――必ず迎えに行く。
かの姫はその夜も夢を見た。
迎えに行くと告げるその顔は、いつも見えない。
真っ黒に塗りつぶされた人影が、そこに立っていた。
――まだ足らない。
声の主は、そう
足下には白いモノが転がっている。それがなにかがわかったとき、姫は悲鳴を上げた。
それは、人の
――姫。
月明かりが、男の顔を明らかにした。
人ではないその顔を。
◆
その日――清涼殿の東庭で宴が開かれた。本来ならば宴の場所としては
そもそも、災難に見舞われた中宮を
なにしろ中宮は後の国母、実父は関白・藤原頼房である。出席しなかったことで、のちに関白に
師・賀茂忠之が晴明にも参列を
翌――、晴明の姿は壬生大路にあった。
門扉を叩くと、
「――お待ち申し上げておりました。殿が中にてお待ちにございます」
そう言って案内される
「よくぞ、参られた。貴殿が、噂に名高い安倍晴明どのか?」
主殿の奥――、正面の畳にて、その男は晴明を待っていた。
「いかにも。橘俊通さまにはお初にお目にかかります」
「当家の
俊通の言葉に、晴明の記憶が蘇る。
他家に依頼された
「では
あのとき、牛車に
晴明が驚くとともに、俊通が
「我が姫の名じゃ……」
十六夜姫――、橘俊通曰く、孫ということになっているが実際は血縁ではないという。彼が
「あれから九年……、姫は当時のことは覚えておらぬ。
そう語る俊通の顔が強張っていく。
「九年前の事件は、本当に夜盗の仕業だったのですか?」
晴明の言葉に、俊通は
「せ、晴明どの。それはいったいどういうことか……?」
「ただ、そんな気がするだけです」
橘俊通はその
「晴明どの!姫を……、姫を助けてくれ。もはや我が橘家は消える運命、それは構わぬ。ただ、姫には幸せになって欲しいのだ」
「十六夜姫にお会いすることは可能にございますか?」
橘俊通は会わせていいものか迷っているようだったが、こうしては
十六夜姫は
晴明を案内していた女房は室の前まで止まり、中に声をかけた。
「――姫。陰陽師・安倍晴明さまがご
女房の声に、中から衣擦れと
「……安部……晴明さま……?」
ただ涼やかな
「突然来てしまい申し訳ございません」
「いえ。私もお会いしたいと思っておりました。先ほど舎人から伺いました。あのときお助け頂いた方があなた様だと。いつぞやは、危ういところを助けていただきありがとうございました。もっと早くお礼をと思っておりましたが、なにぶん急なこと。
十六夜姫は今年、十六歳だという。
「お
「はい。こちらに来られましたのは――、妖のことにございますか?」
姫の言葉は、やはりどこか何かを気にしているようであった。
「姫が
晴明の言葉に、姫は切り出した。
「……晴明さま。私に過去の記憶はございません。思い出すのが怖いのです。もしかしたら私は、見てはいけないものを見てしまったのかも知れません」
はたして彼女は、なにを見たのか。記憶を失うほどのそれは、明らかになることによって、姫にどう影響するのか。
「あとで、魔除けの札を届けさせましょう」
「それで妖を防げますか?」
「少なくとも、当家からお出にならなければ、禍となるモノは近づけないでしょう」
晴明はそういって、橘邸を辞した。
◆◆◆
「
橘邸を訪れた三日後、晴明はやって来た冬真の
酒を呑みながらの会話で出た話だったが、十六夜姫が〝輝夜姫〟らしい。しかし、晴明は冬真以上に女性に無関心である。
「……そんなに驚くことではないだろう」
晴明の言葉に、今度は冬真が半眼である。
「お前なぁ……、貴族の子弟連中がかの姫に会うために必死だというのに」
噂では、十六夜姫は美姫だという。
月を見ては溜め息をつくのだという。
かの姫は、こうも言った。
毎夜夢を見るという。月を背にした男が「お前を必ず迎えに来る」というらしい。
ゆえに姫は、月夜が怖いという。
「会ったと言っても、顔は見てはいないぞ」
「お前、男として女性に感心がなさ過ぎる」
「お前がいうか? それを」
お互い恋には縁遠いが、避けているつもりはない。いや、晴明の場合は人との関わり自体を自分から避けているが。
「しかしなぁ、どうして奴らは彼女を狙うんだ?」
「さぁな」
晴明はそう答えて、
「それは?」
「橘邸へ届ける霊符だ。橘俊通どのからは姫を助けてくれとは言われたが、ずっと貼り付いているわけにはいかんだろう。これは
妖に狙われているかも知れない十六夜姫。
その理由は今のところわかっていないが、少しは防げるかも知れない。
それからまもなく、王都に雨が降り始めた。
しばらく地も人も容赦ない
晴明は橘邸に届ける霊符をようやく仕上げると、
呪がかけられた形代は人の姿に変化し、片膝をつく。それは形代から作り出される〝式〟(※式神の一種)で、命じられた任務が終われば忽ち元の形代に戻ってしまうが、使いに出すだけなため、それは問題ではない。
「これを、壬生大路にある橘邸へ届けろ」
命じられた〝式〟は霊符を受け取ると、すっと消えた。
『晴明、助けてくれよ』
「――
『まだ、何も言っていねぇぞ?』
「ろくなことではないのはわかっている。これ以上、
雑鬼が陰陽師に助けを求めてくる――、普通ならばありえない話だが、晴明邸に棲み着く雑鬼はそうではない。
『人は助けて
勝手に
「人の家に勝手に棲み着き、いたずらし放題のお前たちを、陰陽師の私が助けねばならん? 追い出されて
『追い出されるんじゃなく、喰われちまうだよ』
「誰に?」
『得体の知れないバケモノさ。己等はまだ見たことはないが、黒くて大きい奴らしい。そいつが人間だけじゃなく、己等たちまで喰らい始めているそうなんだ』
そこまで聞いて、晴明は
「――今……なんと言った?」
『己等の話、聞いていなかったのかよ……? 晴明。だから、己等たちがそいつに喰われているんだよ』
「その前になんと言ったか聞いている」
『黒くて大きいバケモノが人を喰っていると言ったが?』
雑鬼の言ったそれは、
人を喰らい、骨にしてしまう蛟――、再び動き始めたその存在に、晴明は憤怒する。そしてその裏にはあの男――、
ああ、ようやく。
我が
我がなにゆえ、
誰一人、答えてはくれぬ。
我が鬼哭に耳を貸さぬ。
聞くがいい。
我が鬼哭を。
答えよ。
お前が真の陰陽師ならば――。
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