第三十五話 壁の鬼

「つくづく、人にはあいきた」

 男はじっと前を見据えてたんそくしたあと、そう言って嗤った。

 霧に煙る彼だけの空間――、たくみに隠されたここは、誰にも気づかれない。

 くろつるばみの狩衣に伸び放題の髪、水晶の数珠じゆずを首にかけた男は術師であった。

 叢雲勘岦斉むらくもかんりゆうさい――、依頼されれば、人を呪い殺すこともいとわぬ男。実際に、じゆを依頼してくる者はいる。殺してほしいとは口にしなくても、心の中では消えてほしいと願う。彼には依頼者のはらまで視える。

 だというに「こんな依頼はしていない」と、依頼者は言う。

 望んでいながら、よく言えたものだ。人を呪えばどうなるか、その後のことなど知ったことではない。

 それでもこの世から、人の心の闇は消えぬ。

「お前も同じ思いだろう?」

 勘岦斉が視線を向けた先には、霧に囚われる十二天将・青龍がいた。

 もはや抵抗する力はなくしたのか、それとも従う気になったのか、青龍はうなれたまま動かない。

「我は――、神さえ従える。我こそが選ばれし者」

 つぼはいる勘岦斉に、青龍の口が開く。

「――おごりもそこまでくると救いようがないな……」

 あきれるような彼の物言いを、勘岦斉はわらった。

「まだこたえんか」

「当たり前だ。俺をなんだと思っている。貴様、神にでもなったつもりか? 馬鹿らしくて嗤う気も起きぬ」

「ふふ、今にわかる。我が駒となるあやかしと人間はいくらでもいる」

 勘岦斉にすれば、十二天将も駒でしかなかった。ある目的のために。

「貴様……っ」

 れつな青龍の視線を受け止め、勘岦斉は嗤い続けた。

 

                 ◆

 

殿でんに侵入した女房は、悔しいのか唇を噛んでいた。

 そんな彼女から、妖気が漂う。

 壁の鬼は、誰にも怪しまれずに侵入する方法として、彼女に取りくことを選んだのだろう。取り憑くからには、女房の中に負の感情があったか、それとも誰かに影響されたか。

『おのれ……、陰陽師!』

 女房の発する声は、男の声だ。

「晴明、このままだと女房どのが危険だ!」

 冬真の声にけついんする晴明を、女房がにらむ。

「彼女の中から出てもらうぞ!」

 いんじやの印。

「オン、アミリトドハンバウンパッタソワカ」

 光の玉が浮かび、女房を包む。

『ギャァ……』

 光の中で、女房の躯から鬼が抜ける。

「晴明っ、奴が逃げるぞ!」

 冬馬は意識を失った女房を抱き支え、叫んだ。

「冬馬、女房どのを頼む!」

 晴明には、鬼が何処に行くのかわかっていた。

 昼間――、晴明は内裏の結界を張り直した。一つ一つ張り直すのは面倒だったが、場所は帝が座す内裏である。妖は帝も狙いに来るかも知れない。

 晴明は弘徽殿を出ると、まっすぐそこへ向かった。


              ◆◆◆


「たまには、そなたとこうしているもいいものだね」

 清涼殿のぬりごめの中、きんじようおうぎしにくすっと笑った。

「たまには、というのは余計ですわ。かみ

 今上の物言いをちゆうちよすることなくいつしゆうしたのは、中宮・藤原瞳子である。

 言葉のあやで言ったつもりだったが、今上は彼女にそっぽを向かれるのは辛い。

「怒らないでおくれ。私がや悩みを吐けるのはそなたしかいないのだから」

 今上は他の殿でんしやに新たな恋を求めて渡る時もあるが、その言葉通り、本気で悩みを打ち明ける相手は瞳子だけなのである。

ぐちにされてもと思いますけど、頼りにされているのだと受け取っておきますわ」

 瞳子は意地悪そうに笑って、首をかしげた。

 やはり、彼女にはかなわないなと思う今上である。

 今上帝と中宮がなぜ塗籠にいるのかといえば、ねやを供にするのではなく、隠れているのだ。

 清涼殿・鬼の間の壁から鬼だけが消えた。

 その鬼が、中宮を狙っているのだという。

 よって危険を回避するために、帝である今上も中宮と塗籠に隠れているのである。

「それで――、鬼の間から消えた鬼は、とうばつされるのかい? 忠之」

 塗籠のなかには、いざというときにそなえ、賀茂忠之もいた。

「晴明が申しますには、討伐はしないとのこと」

 忠之の言葉に、今上はどうもくした。

「何故だい? また飛び出すかも知れないだろう?」

「ご安心を。あの男が自信をもって言うからには、なにかよい策があるのでございましょう。しばしここにて、お待ち頂きとう存じます」

 忠之のまな――、安倍晴明。

 人は彼がしようの血を引くという。じんをもあやつるのだという。

 人は彼をおそれているという。しかし、かの人物のその力に、どれだけ助けられてきたことか。

「それは構わぬ。昔、ここでかくれんぼうをしたことを思い出すよ」

 帝位に就いてからはなくなったが、東宮時代は内裏の外や中を駆け回ったものだ。

 今上は懐かしく想いながら、笑むのだった。


                 ◆


 弘徽殿から出た晴明は、そのまま清涼殿に入った。

 何も知らないかん姿すがた(※宿直の者たちが着る夜の朝服)の者に驚かれたが、それをとがめることはしない。

 夜中に陰陽師が内裏をろつくなど確かにみようだが、晴明とてしたくてしているのでない。向こう側は帝に「夜中に安倍晴明と出会うかも知れぬが気にするな」とでも言われたか、何事もなかったように詰め所へと戻っていく。

 ――さすが壁の鬼だな……。

 晴明は、そう思った。

 宿直の彼らの様子から、鬼とはそうぐうしてはいないようだ。遭遇していれば、騒ぎになっているはずである。ならば弘徽殿から逃げた鬼は、どうやって駆けているのか。

 壁の鬼からすれば、殿舎の柱やひさしは障害にはならないのだろう。いとも簡単にすり抜け、必死に逃げているのだ。

 ただ、晴明が張り直した結界により、後宮・七殿五舎の各殿舎内部はもちろん、内裏の各室に鬼は入ることは不可能。一つの場所を除いては。

 晴明は夜中に内裏に入るのも初めてだが、そこに足を踏み入れるのは昼間でも一度もなく、これが初めてであった。

 清涼殿・鬼の間――、ぎよう殿てんじようびとですら滅多に入らぬその場所に、かの鬼はいた。


『我をたおすか? この男のように』

 鬼は牙をむき出しにして、晴明を睨む。

 鬼の背後は、まとすかつねのりが書いたとされるてんじく(※インド)は波羅奈国はらなこくの王・はくたくおうの画がある。鬼が言った〝この男〟とはその白沢王のことだろう。

「お前には、壁のに戻ってもらう」

 晴明の言葉に、鬼が瞠目する。

『貴様、陰陽師であろう? 鬼を見逃すのか』

「見逃しはせぬ。お前をはらうのは簡単だが、そうすると困った事になるのでな」

 なにしろ鬼は、元は白沢王と供に描かれていたものだ。鬼を祓えば、画から鬼は完全に消える。傷などつければ画も傷つく。

 晴明としては、無傷のまま、鬼を画に戻さなくてはならない。

『我が首は誰にもやらぬ』

 鬼は壁を向くと、爪を画に向けた。引き裂くつもりなのだ。

 晴明は即座に結印した。

「オン、アミリタテイセイカラウン」

『誰が……我が首を……っ』

「ノウマクサンマンダバザラダン、センダマカロシャダソワタ、ウンタラタカンマン……!」

 鬼は画に手を伸ばすが、青い光にその腕も飲まれた。

 光が消え、そこに鬼はいなかった。

 壁の画は、勇ましく刀を振り上げた白沢王と、鬼が描かれている。

 この画の先は、晴明にはわからない。

 果たして画の鬼は、これから首を討たれるのか否か。

 ただ、この画がここにあることの意味ならばわかる。画が描かれているのは清涼殿南東――つまり裏鬼門である。

 この画を描いた絵師は、なにゆえ鬼を討ったあとの画ではなく、鬼を討つ前の画を描いたのか。帝が座す場所にせいさんな光景を描くのをはばかったのか、それとも特に他に理由があったのか。しかしこれはこれで、意味がある。

 おそらく鬼門封じのために、鬼を討つ前の必要があったのだろう。

 ゆえに画の先は、見る者の予想でしかない。

 白沢王の刀をはじき飛ばし、彼とこれからまだ戦いを始めるのか。それともこのまま勝敗が決するのか、画を見て思う心は人それぞれ。

 晴明はしばらく画を見つめたあと、鬼の間から退室した。

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