第三十二話  主の器

 はらえのさいが終わり、溜まっていたれいをようやく仕上げて一段落した頃である。

 今日も朝からせみぐれせわしなく、つまを開け放たったひさしからは風が滑り込んできては、ちようを揺らしていく。

 ――ていに行く、日取りを占わねば……。

 壬生邸とは、壬生大路にあるたちばなとしみちていのことである。今は誰もかんしよくいておらずれいらくした家だが、かつては中宮をはいしゆつし、ぎようとなった者もいたという名家だ。そんな橘邸を貴族たちは、壬生邸と呼んでいるそうだ。

 晴明はろくじんしきばんを手前に引き寄せ、さぁこれからという時に、神気が三つ降りてきた。

 しかし、報される内容にがくぜんするとともに、ねんき、さらに自分だけがそとに置かれたことなどあらゆる感情が怒りとなってげきふんし、晴明は彼らを視界にとらえるまですうはくようした。

 震える手をぶんだいの上で強く握りしめ、ようやく口を開く。

「それは……、一体どういうことか、説明しろ」

 彼の前には十二天将・とう・玄武・たいいんの三人が座していた。

彼らが報せてきたのは、青龍が消え、敵に捕まっているかも知れないということだった。

 青龍は十二天将の中で、もっとも扱いづらい男だった。しようかんしても気にいらなげにはすかまえてにらみつけ、口を開けばとうしてくる男。それでも彼の力はじんだいで、かなり助けてもらってはいるが。

 その青龍が消えた。

 以前、玄武から青龍が異界にいないとは聞いていたが、その時はいつもように勝手にそらを飛んでいるのだろうという認識でしかなかった。

 まさか、何者かのわなまっているなど今日こんにちまで考えもしなかった。

 ただそれを、今になって報されたことだ。その何者かは、晴明の背後まで手を伸ばしてきていた。それに気づかず、さらには――。

 騰蛇が重い口を開く。

『これは俺たちが、解決しなければならないと思ったのだ』

騰蛇の言葉に、晴明は唇を噛む。

 天将たちは晴明に報せることなく動こうとした。天将の問題は、天将が解決する――、そう捉えかねない言動にいきどおりは増す。

(るな……っ)

 ならば、自分はなんのだ。十二天将にとって、安倍晴明という男は。

 続いて玄武が割って入る。

『それにだ、あの青龍だぞ? 敵にちるとは思えなかったんだ』

『彼を捕まえてどうしようというのよ……!』

 そう言ったのは太陰だ。

『味方にしようとおもったんじゃないか?』

『はぁ!? あり得ないわ! 十二天将をなんだと思っているわけ!?』

『俺に怒るなよ……』

 太陰のけんまくに、玄武が渋面でる。

 晴明の怒りは、ついに限界を超えた。

「十二天将、私はお前たちのなんだ? ただの陰陽師か? あやかしの血をひくしようか? 確かにお前たちはろくじんしきばんに名を刻まれ、陰陽師なら誰でも名は知っている神だ。だが――、今はこの安倍晴明の式神。そうやくじようを交わしたはずだ。あるじうつわとしてまだ弱いことはわかっている。わかっているが……」

 ぼつぜんと怒る晴明に、太陰がづかわしげな顔をして来る。

『晴明……』

 わかっているのだ。これは八つ当たりなのだと。

 気づけなかったのは己の未熟さゆえ。

 彼らに主の器ではないと、思われても当然なのだ。

「みんな、去れ。少し頭を冷やす」

 何かを言いかけた太陰を騰蛇が制し、彼らは異界に戻っていった。

 

彼らが消えて、晴明は乱暴に髪を掻き上げる。

 おのれに、しように腹が立った。

 忙しさに感け、周りを見ていなかった。

  ――だからお前は、未熟者なのだ。

 青龍がいれば、そういうだろう。

「そう、その通りだ。私は中身も半人前なら、十二天将を使役する者としても半人前だ」

 彼はわらった。

 怒りが収まると、己がこつけいで嗤えた。

 だが、このままでは終われない。青龍にどのように思われようと、彼はわが式神。必ず取り戻す。

 晴明は六壬式盤に刻まれる彼の名を指で撫でながら、そう決意したのだった。


                 ◆


『晴明――、大丈夫かしら?』

 なかば追い出される形で晴明邸を離れた騰蛇・玄武・太陰の三人は、晴明邸を見下ろす上空に留まっていた。

『これしきのことで落ち込むのなら、それこそ奴は主の器を問われる。放っておけ』

 騰蛇の言葉に、太陰は反論しかけた口を閉じた。

 式神といえど十二天将は神に連なる者、人に自ら力を貸すことも、助けることはできない。求められてはじめて力を貸す。

『でも、晴明に告げなかったのは、まずかったわ』

『まさか、あんなに怒るなんてなぁ……』

 玄武がおおぎようたんそくする。

『当然よ。私たちは十二天将である前に、晴明の式神なのよ? その式神が自分の知らないところで大変な目にっている――、そんな話を聞かされたら私でも怒るわ』

 十二天将の誇りゆえに、どうほうの危機は自分たちでなんとかせねばと彼らは動いた。しかし振り返ってみれば、晴明の式神なのだ。

 晴明の元に報せに行く前、彼らは天空にこう言われた。

 


『我ら十二天将、安倍晴明の式神となる――、そう決めたはず』

 老人の姿をした天空は、大岩に座したまま十人の天将を見据えていた。

 十二天将をまとめる存在である天空は、深いしわを眉間に刻んでいる。

『天空のおきなよ。安倍晴明が我らの主たるにさわしいとお思いか?』

 しよう・朱雀が切り出した。

『いまさら、彼がはんようであることは問題はあるまい』

『翁よ、我が言いたいのはそんなことではない。あの男が人を助け、国をわざわいから退しりぞけられる精神と能力があるか否かだ』

『それはこれからの、あの男次第。あの時、皆は納得したのではないのか? たとえどうであれ――、今回のことはこちら側にも非がある』

 


 あの時――、じゆうてんしようしようかんじゆつを行った晴明に対し、彼らは式神となるやくじようを結んだ。

 国のため民のため、彼らを守る力を貸してほしい――、そうう晴明に天将たちは当初は冷ややかだった。これまで十二人纏めて使えきしようという人間はいなかったし、くらがりに片足を突っ込んだ人間に従う道理はないと顔を背けた。

 最終的に決断したのは天空である。

 晴明の成長を見届けつつ、力を貸すとしたその決断に、十人は従ったのだ。

『これから先は、天空の翁が言われるようにあの男の判断次第だろう。あいが何者かの手にあるのなら、その何者かの実力は晴明以上ということなる』

 騰蛇の言葉に、太陰は眉を寄せる。

『晴明が、負けるかも知れないっていうこと……?』

『可能性としては、ないことではない。我らの力さえ封じる力となると――』

『あなたってどうして、そう暗いほうへ暗いほうへと言葉を持って行きたがるのかしらね。そういうところ、青龍にそっくり』

『あいつと一緒にするな』

 騰蛇は、なぜか青龍に対抗心を抱いているらしい。ひとくくりにされると、すぐにふんがいする。 はたして、青龍はいま何処どこにいるのか。そして晴明は勝てるのか。

 十二天将をもつてしても、その答えは出ないのであった。


                ◆◆◆


 その夜――、宿のいで内裏内を見回っていたこのしようしようたいらとおるは、鬼の間の妻戸が薄く開いていることに気づいた。

(どうしてここだけ……)

 鬼の間はせいりよう殿でんなん西せいすみの一室であり、すなわちうらもんの位置にある。

 しよくで内部を照らすがひとはなく、特に変わったけいせきはない。

 いや――。

「え……」

 そこに、あるべきものがなかった。

 鬼の間の壁に描かれている、鬼をとうばつするはくおう。その鬼が消えていた。

 見間違いか、それとも現実か、少将は足早にそこから駆けた。

「一大事でございます……!」

 血相を変えて戻ってきた彼に、陽明門にてくびころしていた冬真は一気にかくせいした。


                   ◆


「鬼の間の壁から、鬼が消えた――?」

 朝から騒がしくやって来た男に舌打ちをし、晴明はかいくちもとぬぐった。

 ちょうどあさをすませたばかりだったらよかったものの、もう少し人の都合というものを考えないものか。しかし当の本人はそんな晴明の気持ちなど知るよしもなく「内裏で事件だ」とまくし立てた。

「なにせ夜だ。見間違いじゃないのかと、俺も言ったさ」

 冬真は腕を組むと、渋面でうなった。

 清涼殿・鬼の間の壁には平安王都遷都時に、まとすかつねのりが、鬼を退治する白沢王像を描いたとされる。壁に描かれていた王は、一人で剣をあげて鬼を追う勇姿であり、てんじく(※インド)は波羅奈国はらなこくの王で、鬼を捕らえたごうゆうの武将と伝えられる。

 その鬼だけが、綺麗に消えていたと冬真はいう。

 晴明はちようたんした。

 なぜ、こうも次々と事件が起きるのか。

「朝からお前が来たということは、そくさんだいせよとの指示か?」

「ああ。帝のめいだ」

 勅命となると、行かない訳にはいかない。

 関白・藤原頼房やていしんたちの刺々しい視線を浴びたくはないが、仕方がなかろう。

 晴明は着ていた狩衣を脱ぐと、からびつから出仕用の直衣を取り出したのだった。

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