第二十三話  闇深き人の心

「……なにゆえ」

 黒くよどんだ沼のふちで、彼はつぶやく。目の前にはいちりんの青いはな

 いても悔いても、元には戻らない。

 目覚めさせてはならぬモノを、目覚めさせてしまった。

 あの日――、むくいを受けたからだは、じきに消える。

 

 おろかとわらえ。

 ごうとくと嗤え。

 そう、われは愚かだった。

 ゆえに、これ以上は。

 聞いているか。

 彼らの声に応えよ。

 ざんに散った彼らのこくに。

 あのバケモノを倒せるのは――、もうお前だけなのだ。


                   ◇


『まったく世が騒がしいというに、人間の考えている事はわからんな』

 ややいらち混じりに言うどうほうに、とうも同じしよに視線を運んでいる。

 彼らがいる殿でんしやいらか、そのがんでは人間たちがうたげを開いていた。帝のぎようこうもつての、かんげんの宴らしい。都では人があやかしわれて骨にされるというかいが起きている。その件が解決してもいないのに宴とはと、騰蛇も思う。

みながそうではあるまい。それに、あそこにいる連中のはらも同じとは限らんだろうよ』

『ふん。この人界でずいぶん、奴らに詳しくなったようだな?』

 東のとうしようは、れつな目で騰蛇をいちべつした。

『人間を知ろうとは思っていないが、晴明といると、知りたくもない人間の裏まで見ることになってな』

 異界にいれば、知らなかった人の心に潜む闇。

 かの闇は人を鬼にし、妖を招く。そしてその闇は、時代が変わろうと生まれては消え、また生まれる。十二天将は神の末席に連なるが、彼らに直接手を差し伸べることは出来ない。つみびとを罰することも出来ない。だが――。

『だから俺は、晴明に下ることは反対したのだ』

『だったら降りるか? 青龍。十二天将の一人が欠ける――、晴明は痛くはないだろうが、他の十人の総意は得られん』

 青龍はくちびるんだ。

 十二天将は陰陽師・安倍晴明の式神となった。天将は彼をあるじとし、彼の指示で闇とたいする。彼が主たる器か否か、それを判別するのは今ではないだろう。恐らく他の十人も同じ思いだろう。

『それでも俺は、奴がまもるにあたいしないと断じたときは、奴の元を去る』

 青龍はそう言って、漆黒のそらに身を躍らせた。 



 その晴明は、この夜もしきばんにらんでいた。

 ひとうちきを羽織り、まげも解いた姿で、式盤の上を指でなぞってはけんしわを刻み、何もいわずに開きかけた口を閉じる。

 ていないけんげんしていた天将・たいいんは、反応を示さぬ主にれた。

『またやつかいごと? 晴明』

「――都に鬼が入り込んだ」

 晴明の視線は、式盤に落とされたままだ。

『例の男と関係が?』

『わからん。ひとあやかしの気配も消えた』

『さすがのあなたも、お手上げってわけ?』

「見つけてやるさ。何としても……!」

いつもの彼の顔に戻ったことにあんして、太陰は視線をすのえんに向けた。

 そこでは、丸まって寝ているきつねいつぴきいた。

『ところで、アレ、使えるの? 式神にするのはあなたの勝手だけど』

 晴明が、新しく式神にしたというよう。まだ子供で、使える術は一つか二つらしい。

げきするなよ。私の仕事が増える」

『だってあのはんにんまえ――』

 太陰がそう言った途端、山積みの書や巻物が宙に浮き、太陰のからだも浮いた。

「……だから刺激するなと言ったのだ」

 漸く視線を式盤から外した晴明はたんそくし、むくりと首を上げた妖狐をたしなめた。

『ちょっとっ、よくも天将の私を!』

 散らかったへやに、晴明は腰を上げた。

「そんなことより、片付けるのを手伝え! お前もだ。かなう

 叶と呼ばれた妖狐は人の子供に変化して、晴明の元に向かっていく。そしてくるっと太陰の方に顔を向けると、あっかんべーをしてきた。

『あの……クソ狐……っ』

 妙な対抗意識が涌く、太陰であった。

 


そんな夜――。

 

「た……助けてくれっ」

 男は必死にそれから後退った。

 そこには鬼がいた。まさに、ごくに描かれているような鬼が目の前にいた。

「頼む……、助け……て」

 鬼の後ろに人がいた。助けてくれるであろうかの人影に、男は手を伸ばす。

 しかし、その人影はきびすを返した。

「なにゆえ……」

 彼がさいに聞いた音は、肉を裂く音と「しゃんっ」と鈴の鳴るような音だった。

 

                ◆◆◆


 四条大路で、むくろが見つかった――。

 晴明が出仕して早々、そんなしらせが大内裏を駆け抜けた。しかも今度は鬼の姿を見たというものもいて、陰陽寮に事の解決に当たれというちよくめいりた。

 これにふんがいしたのが、賀茂保憲である。

「まったく、早く我々が事に当たっていれば被害は防がれていたかも知れなかったというに、上はなにを考えているのやら」

 いつもは冷静な兄弟子かれの言葉に、保憲の父して二人の師・賀茂忠行と並んで立っていた晴明はどうもくした。

「言い過ぎじゃ。保憲」

 仮にも帝の勅命である。忠行がたしなめた。

「ですが、父上。これまでのことも、どう見ても妖の仕業でしょう!? 昨日まで元気だった人間が次の日には骨になるなど、どうすればできるんですか?」

 みつかんばかりの息子の勢いに、忠行ががいたんする。

「少し落ち着け。全くその大声は誰に似たのじゃ」

「あなたですよ。父上」

 半眼で即答する保憲に、忠行はへいこうした。

 晴明が口を開く。

「師匠、被害を増やしたのは私にもせきがあります。もっと早く、妖の動きを探っていれば……」

「お前だけのではない。これは我ら陰陽師の責任じゃ。ここはなんとしても、かいしずめるのじゃ」

「はい」

 四条大路で見つかった遺骸は、ふじわらのなりちかの次男・なりつねだという。

 嫡男・まさつねの他にもう一人息子がいるらしいが、領地のほうに籠もっているらしい。

 そんな陰陽寮を出て、内裏へ向かっている時だった。

「安倍――晴明……っ」

 清涼殿を目前にして、晴明は前方からやって来るていしんに驚かれた。これまで、他の廷臣たちに嫌な顔をされたことは何度かあったが、男の反応はきよくたんだった。

「なにか……?」

 男の目は泳ぎ、何かを言いたげに口を開けようとするが閉じられてしまう。

 晴明の困ったしようぶんは、相手の肚が視えてしまうことだ。特に肚に抱えている闇は、本人の意思に反してその戸を開く。

 晴明と知って動揺する男の肚に、なにがあるのかまではわからないが、知られて困ることがあるのは間違いないだろう。

 その男が藤原成親だと知ったのは、帝へのはいえつを終えて正殿まできた時だった。

 教えてきたのは、冬真である。

「お前が、珍しい御仁と一緒だったんでな」

 藤原成親は、次男のことが起こる前から人と関わるのを避けているという。

「なるほど……、それでか」

「なにかあったのか?」

 冬真が首をかしげる。

「いや……」

 心になにか秘め事があると、無意識に態度や顔に出てしまうことがある。藤原成親は「しまった」と思ったことだろう。

 だが意外にも、それから数日後に、その藤原成親邸から使者が来たのである。

 


「――藤原成親さまの使い?」

 書に視線を落としていた晴明は、訪問者を報せてきた叶に対して顔を上げた。

「おいでいただきたいとの言ってますけど?」

 叶は童子姿に変化して、一応は式神として役には立っていた。

「あとで吉日を選び伺うと伝えろ。それと――」

 晴明は嘆息した。

「それと……?」

 首を傾げる叶の背後で、ふさふさの尻尾が左右に揺れている。

「尻尾をしまえ!」

 一喝する晴明に、叶はわかっているのかいないのか、舞うような足取りでろうに出て行くのだった。

 妙な住人(?)が増えた晴明邸だが、ふっと気を許せば、ていないだろうとくらがりが生まれる。

 おのれの肚にも闇はある。

 普通の人間より濃いめの闇は、晴明を呑み込もうとその機会を待っている。


 ――私は、お前のようにはならない……!


 頼まれたからと、人を使えきするあやかしわせる陰陽師・叢雲勘岦斉むらくもかんりゆうさい

 彼の抱える闇は人より濃く、彼にとっては心地よいものだったのだろう。もしかすると、かの男を世に生んだのは、人かも知れない。

 人を憎み、恨む念が叢雲勘岦斉を生み、育てた。だとしても――。

 

 ――必ず、私はお前に勝つ!


 晴明は強く心に誓い、書を閉じた。

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