第三話 若菖蒲の君

 その夜――、きんじよう(※帝)は外にいた。外と言っても内裏のすのえんだが、『いとしのきみ』の殿でんしやに忍んで行こうと、よる殿おとど(※清涼殿にある帝の寝室)を抜け出していた。

 世の男たちは愛しの姫のもとに通うそうだが、帝ともなるとそうはいかない。一度やってみたいと思うものの、内裏の外にによにんを求めずとも、後宮にはちゆうぐうにようなどいるのだが。

 彼がいに行こうとしているのは、なしつぼこう殿でんしやだ。彼の中で現在いま、一番お気に入りの女人である。

 そらにはひさかたりのもちづき(※満月)がのぼり、んでみるのもよいだろう。

だが、梨壺の更衣が暮らすしようようしやへ向かうその足が止まる。

 庭に青いだまが浮いていたからだ。

 だが今上は、声を上げることはしなかった。自分の前に現れた火霊はき、ふじつぼの女御かも知れないと思ったからだ。

 一度は愛し、東宮となる男子を産んでくれたその女人を忘れることはできようか。

「出たわね? このゆう!」

「え……」

 なにゆえこの声は、背後から聞こえてくるのだろう。

 今上が振り向くと、なぎなたが振り下ろされる寸前だった。



「――ねぇ、聞いた? また幽鬼が出たんですって」

 内裏・うんめい殿でんないどころで、女房たちが噂に花を咲かせている。

 そんな彼女から少し離れた先で、書の片付けをしていたとうないしのすけふじわらあやは、噂に夢中の彼女たちに内心ひやひやしていた。先ほどからずっと、背後に嫌なものが突き刺さって仕方がないのである。

 いちべつすると、とうないしのかみふじわらあきけんに小さなしわを刻んでいた。

 にようぼうしようぞくさくらつじかさねが美しい彼女は、さすがほつの血筋と感心するが、性格はかなりきつい。かくいう菖蒲も負けずおとらずという性格をしていたが、彼女ほどではない――と自分では思っている。

「やはり、ふじつぼの?」

 彼女たちは藤内侍の表情に気づいていないのか、話をやめる気配はない。

(そろそろ、ないしのかみさまのかみなりが落ちるわね)

 内裏にゆうが出る――、そんな噂が内裏を駆け巡っていた。

 なにしろ、幽鬼が目撃されるのが現在は誰もいないぎようしやふじが植えられていることから藤壺とも呼ばれるが、主である藤壺のにようと、彼女が里で産んだ帝の第一皇子が亡くなってから、二人はじゆされたと噂になったことがあったらしい。

 それに関白・ふじらよりふさじつじようである中宮が関わっているかも知れないとなると、北家側の人間である章子が眉間に皺を刻むのは当然と言えば当然かも知れない。

「まさか、先の――」

「いい加減になさいっ!」

 どうやら彼女たちは、きんに触れてしまったようだ。

 藤内侍の怒りが、ついに破裂した。

「藤内侍さま……っ」

「あなたがたは、ここを何処だとお思い? 恐れ多くも、あまてらすおおみかみをおまつりするかしこどころがある所。かつな発言はおやめなさいっ」

 温明殿の南側には、その天照大神のご神体・かがみを祀る賢所があるが、藤内侍としてはやはり、北家のことにまで踏み入られたくないのだろう。

 さらさらときぬれをさせて持ち場へ戻っていく彼女たちを目で追って、菖蒲は藤内侍と二人にされて困惑した。

わかしようきみ

 そう藤内侍に呼ばれて、菖蒲はもはやへびにらまれたかえるである。

 冷ややかに見つめられ、何を言われるのかせんせんきようきようである。

 若菖蒲の君とは、菖蒲の周りにいる者たちがつけた名で、勝ち気な姫という意味合いが強いらしく、菖蒲としては気に入らないのだが。

 藤内侍が若菖蒲の君と呼んでくるときはたいがいせつきようか、めんどうなことを押しつけられるかだ。

「……なにか? 藤内侍さま」

「あなた、かの安倍晴明どのとじつこんあいだがらですって?」

 ぱらりとおうぎを開いた藤内侍は、目を細めた。

(ああ、そっち?)

 これまで以上の雷を落とされ、長い説教がくどくどと始まるのかと覚悟したが、どうやや違うらしい。

「昵懇というよりは……、従兄いとこを通してですけど……?」

「ならば、頼まれていただけないかしら? その従兄どのに伝えて」

「はぁ……」

 気の抜けた返事をした、菖蒲であった。


                  ◆


 どんてんの一条大路――、もうそろそろ戻り橋というところで、晴明の足が止まった。

 こくげんとりこく(※午後十八時)――、いわゆるおうどきである。

 みちの真ん中で、鬼が大きな口をにいっと吊り上げていた。おそらくらおうとしているのだろうが、相手を間違えていることを鬼は気づいていない。

『喰ッテヤル……、喰ッテヤル』

 ぎょろりとした大きな目に、口からのぞいたきば、文字通りの鬼だが、晴明は目の前の鬼よりもっと迫力があるモノを見たことがあるために、やれやれという気分だ。

あいにくだが、私もこれからゆうなんだ」

 と言っても、こわしるものといういたってしつなものだが。

 じゆの身となっても、晴明の衣食住は変わらない。やしきだけは池がある寝殿造りと広々としているが、他の貴族からすれば小さかろう。

 着るものもうちぎ地紋じもんが少ない狩衣、大内裏では無地の白い直衣である。

『人間……、喰ウ』

 どうやら目の前の鬼には、こちらの事情など関係ないようである。

 晴明はたんそくし、狩衣のあわせから呪札じゆふだを引き抜く。

「オン、サンマンダバサラダン、センダンマカロシャダソハタヤ、ウンタラタカンマン」

 とういんを指で結び、しんごんを唱える。

けいばくふくじゆうじや滅消めつしよう!!」

 呪符に刻まれるぼうせいが、カッせんこうする。

『ギャ……!』

 晴明の手を離れた呪符が鬼の動きを止め、黒いちりへと変えていく。

 ていの前まで来ると、晴明は再び足を止めた。

 門の前に、ひたたれ姿すがたの男が立っていた。れたその姿に、晴明ははんがんたんそくする。

「お前なぁ……、人の都合というものを考えたことはあるのか? 冬真」

 常識がある者なら、さきれ(※前もって知らせる)をする。だがこの男の場合は、突然やってくるため、いささか迷惑である。

 なにしろ、自邸に帰っても晴明の仕事あるのだ。依頼された霊符、星の運行を読んで吉凶を判じ、さらには関白・頼房から言われた幽鬼の件と盛りだくさんだ。

「危うく、首が飛びかけたらしい」

「は……?」

 ぜんとする晴明をに、冬真は眉を寄せていた。


                   ◆◆◆


 ああ、なにゆえに――。

 

 げつで『それは』嘆く。

 じような身の上と、誰にも気づいてもらえぬさびしさに。

 待てど暮らせど、誰も答えぬ。

 聞け。聞け。

 我が嘆きを聞け。

 早く、我が問いに答えよ。



 さぁ――……と、てんらい(※自然の音)が晴明の耳に届く。

 またも聞こえてきた『それ』は、いったいなんなのか。風に混じり、何か別の音がするのだがはっきりしない。

 目の前の男には、聞こえていなさそうだが。

 晴明は冬真をいちべつし、かわらけを口に運んだ。

 冬真の話に寄れば、昨夜またも内裏に幽鬼が出たという。

「それがどうして、誰かの首が飛びかけたことになる?」

 ろんに眉を寄せる晴明に、冬真は首が飛びかけたのは従妹いとこ菖蒲あやめだという。

「菖蒲どのが……?」

 藤原菖蒲はふじはらなんつらなる家の姫で、父親は冬真の父にして右大臣・ふじわらかねひさじつていである。

「あのおてんば、みやづかえなんぞ務まるのかと思えば、さっそくやらかした。聞いて驚くなよ? 晴明。なんと、かみを幽鬼と間違えて危うく薙刀を振り下ろすところだったんだ」

「確かに……、首がとぶな」

 しようする、晴明である。

 菖蒲は〝若菖蒲の君〟とも呼ばれ、たんせちまれなのと、勝ち気な性格、さらに〝あやめ〟と〝しょうぶ〟は同じ漢字でもあったためにつけられたという。

「だろう? 主上は〝夜中にろついている私が悪かったのだ〟とその場で許してくれたそうだが、けんしていれば勘違いだろうとすまない」

「まさか、ただ菖蒲どののしつたいを嘆きにきたんじゃないだろうな? 冬真」

「今回は主上が火霊をご覧になったらしい。菖蒲の所(内侍所)では、幽鬼の正体は藤壺の女御さまではないかと噂になっているそうだ」

「確か内侍どのは、関白さまのめいだったな」

 内侍は、帝の声がかかってもおかしくはない女官の最高位である。

 げんに歴代の帝の中には、内侍に子を産ませたものもいたらしい。

 しかも殿でんの中宮とは従姉妹いとこ、せっかく手に入れた地位を手放したくないのは女人も同じらしい。冬真曰く彼女も幽鬼が誰なのか調べろと、菖蒲に言ってきたという。

「既に関白さまからその件は言われている」

「そうだが、彼女にすればかの女御の死因が、北家の呪詛だったなんてことになると内裏からはいられなくなる。関白さまは居座るだろうが」

 早い話が、晴明に何とかしろということらしい。

 関白といい、藤内侍といい、北家の安倍晴明を何と思っているのか。

 なんは南家で――。

 晴明は、冬真を一瞥いちべつした。

「お前も、藤原だったな」

「あのふるだぬきと一緒にするなよ……」

 冬真の目がわる。

 冬真の言う古狸が誰のことを指しているのか、いうまでもない。

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